2. 昼下がり

 大好きなパン屋さんに行って、[焼きたて]コーナーからピックアップしてきた、皮はパリパリ中はしっとり、チーズがうだるほどかかって蕩けて焼けて香ばしく焦げたところも潮溜りのようになっている箇所もある、なるほど一番人気のパンを買ってきた。

 カフェインをスイス方式で除去してあるコーヒーを淹れて、香りを愉しみながら、パンナイフとお皿を並べてお気に入りのコーヒーカップも出して、最高の気分でやっと買ったアンティークの椅子に座る。

さて、と一人なのににっこり笑ってナイフを手にした時だった。

「じりりりりりりりりーーーーん」

 時代錯誤の黒電話の音が携帯電話から響いた。

このタイミングで。

やっと。

やっと取れた休みに。しかもパン…焼きたてなのに。

最悪だ…最悪だ。

 携帯を取ると、表示されているのは知らない番号で、一瞬躊躇するものの、私は通話を押して耳に当てた。

「もしもし。」

「こんにちは。お休みのところ失礼いたします。」

 緊張した、若い女性の声が耳に響く。

嫌な予感がした。

「折り入って、奥様にお話したいことがあります。」




 喫茶店で彼女が目の前に座って、彼女が名乗って、それから…私はグルグル目が回る感覚にふらつきながら、玄関に座り込んだ。

それからなんだっけ。

 島本結衣、さん、彼女、

「赤ちゃんができたんです。奥様。あなたの旦那様の。赤ちゃんはあなたを選ばなかった。私を選んだんです。お願いです。旦那様と別れてください。」

キラキラした目で言った。

「お宅にお邪魔したことがあって、ですからご自宅も存じ上げております。」

堂々と言った。

「奥様はお仕事で忙しいので、お料理などは作り置きをしておられるとか。私なら毎日新しい料理と家庭を…。」

なんのマニュフェストだよ対立候補のつもりか。


 ああ。


 グルグル回る頭を押さえながらテーブルまでたどり着くと、やっと椅子に座る。

 私の用意した、休日の昼食が冷えて、寂しそうに取り残されている。

すっかり冷えたコーヒーを啜って、目を閉じる。


なんであんな嘘ついたんだろ。


「奇遇ですね。私も今妊娠中なんですよ。」


 我ながらひどい嘘だ。

ひどい嘘だと思う。

しかも私ニコニコしてた。


ひどいな。すぐバレる嘘だ。

あの人は知ってるのかな。

彼女が私を訪ねる事。

知ってたらすぐバレるなほんと。


 頭の中はぐちゃぐちゃで、最近夫の帰りが遅いのはそのせいかとか、あの辺りの出張は怪しいなとか私のあの出張でうちに来たのかな、とか、訴訟一発大勝利!!とかグルグルと色んな思考が浮かんでは消え、浮かんでは消えしていく。


離婚、しなきゃダメなのかな。


 一番考えたくない事が赤い色の極太文字で脳内に表示される。離婚。

離婚。

せっかく結婚したのに。

結婚したくて結婚したくて結婚したくて、大好きで大好きで大好きで高校の時から大好きでずーーーっと狙っててやっと3年前に付き合った旦那なのに。


嫌だ。


絶対嫌だ。


 私の10年の片思い、こんな幸せをぽっと出の女にさらわれてなるものか。

嫌だ。絶対嫌だ。渡してなるものか。

 でも、でも彼が島本結衣を大事だと思っていたら?

私より、島本結衣とそのお腹の赤ちゃんと生きていきたいと望んでいたら?


 嫌だ。

 嫌だ。


 生温かい、塩水が頬を伝っていく。

手の甲で横に退けるように擦って擦ってもどんどんどんどん落ちてくる。

 結衣の着ていた、ふわっと軽そうな生地のワンピースのパステルカラーが目に浮かぶ。


 私には、着られない色だ。


 離婚よりも、彼の浮気のその行為よりも、島本結衣のワンピースの色が私を絶望させる。


 ああ。あの色は綺麗な色だったなぁ。


 目の前が見えなくなるほど、涙が溢れて、もうどうしようもなくなった私は声を上げてテーブルに突っ伏した。


 ピーンポーーーン


 人の心模様なぞに配慮のかけらも感じない、能天気なインターホンの間延びした音。

反射的に立ち上がって、ボタンを押してしまっていた。


「はい。どなた?」



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