第9話

 僕は、肌を刺すような陽の光とその暑さで目を覚ました。気付くとバスロータリーのベンチに寝そべって、いつの間にか眠っていたようだった。僕は、そのベンチに座り直し、顔を両手で覆って、ゆっくりと息をついた。足元を見ると本が落ちており、それを拾うと財布入れのショルダーバッグにしまった。

 近くにあった自動販売機で水を買って、それを飲んでいる頃にバスがやって来て、ロータリーの前で停まった。アイドリングを止めた様子から見ると、始発の時間を待っているようだった。僕は、どうしようか迷ったけれど、結局そのバスに乗って近くの駅まで行った。

 彼女からの着信があったのは、それから2時間ほど経ってからだった。

「多分、見つけたわ。トコロテン」

そう電話越しの声で彼女は言った。


 僕らは、京都駅からその町へと向かう電車に乗っていた。

「ずいぶんと山を越えて行ったもんやな。」

そう彼女が言った。

「多分、不安やったんやろうな。」

「なんで、わかるん?」

「何となくやけど。そやけど、よう見つけたな。」

彼女は「たまたまやわ」と窓の外の風景に目を移した。

 彼女は、京都市と近辺の保健所に連絡して、写真のような犬が居ないかを聞いて回った。それで、ちょうどある家に1週間ほど前から居ついている茶色い犬の存在を知った。そこからは、ネットで幾つかのキーワードと写真を捜索して、その家の連絡先を知った。実際に電話をしてみて、それがトコロテンだと確信したらしい。

 隣町というより、そこはもう一つ隣の市で、山を2つほど越えないと辿り着かない場所だった。僕は、トコロテンがどんな気持ちでそんな道のりを歩いていたかを想像した。長い時間だったろうけど、何となくその気持ちはわかる気がした。トコロテンは、ずっと帰る家を探して居たんだと思う。

 彼女は、窓の風景を見ているうちに眠ってしまった。僕は、彼女を起こさないように、その隣でそっと目を閉じた。ゴトゴトと車両が小気味よく揺れて、僕の意識を遠い場所へと誘って行く。どこかそわそわとする不安な気持ちがあったが、僕は自分に「これでいいんだよ。」と言い聞かせた。今向かう場所で、取りあえず間違いは無い。そう自分の気持ちをなだめると、いつの間にか僕も眠りの中に引き込まれていった。

「降りるで」と膝を叩く彼女に起こされて、僕らは電車を降りて駅を出た。

 事前に調べておいたバスに乗り、僕らはそれからまた30分ほど掛けて山道を登っていく。その場所は、山間の住宅地らしき場所で、比較的新しい家も建てられていた。庭の敷地も広く、隣の家とは十分な距離を保って、よく似た造りの家が幾つも並んでいた。

「こういうとこって、どう?」

そう彼女が言う。

「のんびりしてて、ええやん。」

「子供育てんのやったら、こういうとこの方がええんやろか?」

「そうやなぁ」と、僕は言った。

それ以上、彼女は何も言わなかった。

 その地区のメイン通りらしき道でバス停を降りてから数分のところに家はあった。新築で数年ほど経ったような家であった。玄関から芝生の庭と縁台が見え、大きなガラス戸から中の様子が伺えた。僕らは、顔を見合わせて、僕がインターフォンを押した。

「はーい」と中から声がして、若い奥さんが玄関のドアを開けた。

 僕らは、玄関口で事情を説明して、大体のことを電話で聞いていた奥さんは「どうぞ」と家の中に入れてくれた。


 トコロテンは、家の中でベビーベッドの木枠に囲まれたその中に居た。

「うちの庭に居ついてしもうたんやけど、うちは犬小屋も何もあらへんやろ?そやから、こうやって家の中に居てもらっとんのやわ。」

ベビーベッドは、息子さんが小さい頃に使った以降、押入れで眠っていたものだったそうだ。トコロテンは、首輪もしていなかった。黒い瞳で怯えたようにこちらを見上げる様子は、写真と見比べるまでも無かった。

「間違いないですね。この犬です。」

そう言って、僕はトコロテンと同じ目の高さになって、その目を見つめ、そっと頭を撫でてやった。トコロテンは、目を細めて、頭を寄せてきた。

「ありがとうございます。飼い主さんが、ずいぶん探してらして」

「そうなんやね。人懐っこいから、野良犬とは違うと思うたんやけど、うちじゃあ飼えへんし、どうしよかと思うとったんよ。」

「よかったなあ、トコロテン。」

そう彼女も目線を低くして、トコロテンの頭を撫でた。

「ほんまあ、よかったわ。」

そう若い奥さんが言った。

 

 それから僕は、飼い主の女性に電話を掛けた。ずいぶんと遠くで見つかったことに驚いてはいたが、すぐにこちらに向かうと言って電話を切った。僕らは、せっかくなので2時間ほど待たせてもらうことにした。

 僕は、ふと思いついたことがあったので、近くのスーパーまでどのくらいの距離かを聞いた。歩いて15分ぐらいの距離にあるとのことだったので、彼女とそこまで歩いていくことにした。

「どうしたん?」

そう聞く彼女に

「スイカ食べたない?」と尋ねた。

大きな目を細めて、

「ええなぁ、私もスイカ食べたいわぁ。」

そう彼女は言った。


 まだ、夏の気配が充分に残る日の出来事だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕が伝えたかったこと @tsuboy

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る