第8話

 見慣れた張り紙を見つめ、僕は暗くなった道通りを見つめていた。車の通りが激しく、ヘッドライトを点けた車両は昼間より暴力的に見えた。「大通りを歩いてないといいんだけど」そう僕は思いながら、通りを折れて住宅街に入った。

 その道は、大通りより道を一つ中に入っただけなのに、求めていた静けさを十分に備えていた。僕は、ほっとしながら、その道にトコロテンの姿を探して歩き始める。

 暗いなかに、茶色い毛色が白く浮いて見えるような気がした。道のその端に、ほら・・・・・・トコロテンが歩いているような、そんな気がする。くんくんと溝の脇に生えていた雑草の匂いを嗅いでいる姿が、白く浮き上がっては、消え、その道の先に、またその白い姿が浮き上がって見える気がした。

 僕は、そんな確信とまでは呼べない気配を感じながら「この道は、通ったかもしれない」と思いつつ、通りを変えて、そこにまたトコロテンの姿を想像してみる。「この通りは、違うかもしれない」と思いつつ、歩く通りをまた変えてみた。

 僕は、トコロテンの姿を探しながら、いつの間にか自分自身のことを考えていた。「僕は、どこに向かおうとしているのだろう?」と考えていた。何処かに向かおうとしているのは、判っていた。足を上げて、次の一歩を踏み出そうと無意識に歩みを進めていた。僕自身、歩みを続けることに異存は無かった。ただ、何処に向かっていいのかが、解らなかった。止まる意識は無く、ただ足だけが前に向けて進んでいた。

 違和感と言っていいのだろうか、僕は、そうして自分では止めることもできない歩みの中で、自分のことが自分じゃない気がしていた。まるで与えられた指令の中身をさっぱり忘れてしまったロボットのように感じていた。「ところでさ、お前の『指令』を聞かせてくれないかな?」そう聞かれたとして、歩みを止められないロボットは、戸惑いながら頭のプログラムを開いて該当するコマンドを呼び出してみる。「シレイ、デスカ。ソノコウモクデ、ガイトウスルコマンドガミツカリマセン。」そう答えるけれど、歩くこと自体は止められず、ずっとその捜索コマンドがバックグランドでループを続けている。

 そんな不安な気持ちに、夜の闇はとてもよく馴染んだ。身体の輪郭が、ふとした瞬間に溶け出す錯覚が優しい感覚に思えた。このまま何かと一つになれる気がして、ずっと感じていた膜のような枠が壊れ、破けて、僕という存在が暗い闇の中に溢れてゆく。その吸い寄せられるような感覚が、ごく自然な引力だと感じていた。僕は、より暗い、より光の少ない道へと歩みを進めていた。


 しばらく暗い道を登った先に、バスのロータリーがあった。そこは、お寺の駐車場のようで、車が何十台かは止められる区画が作られてあった。僕は、そのロータリーのベンチに腰を下ろして休憩することにした。

 バスのスケジュールを見ると、もう路線は終わっているようで、それでも電灯が明るくその場を照らしていた。僕は、辺りにトコロテンが居ないかを見回して、それからベンチに座って『かもめ』の続きを読むことにした。

 本の中の登場人物は、誰もが思い思いの世界を抱えていた。皆が一つの舞台に立ちながら、言葉を交わしながら、お互いが見事にすれ違って行く。お互いに影響し合いながら、時に交差する事柄を抱えながら、それでも誰も何も満たされることは無かった。その様子を客観的に見ていると、それは何処か遠いところの理解さえできない不思議な世界のお話のように感じられた。それが、僕の感覚の違いから来るのか、歴史的・文化的背景から来ているのかは、僕には判断が付かなかった。

 僕は、その短い本を読み終えると、両手でそれを持ち、目の前の景色を見つめた。ロータリーから敷地外の道へとアスファルトが鈍く光って続いていた。その先は、暗く、山の上へと道が伸びているのだろう。僕は、ゆっくりと息を吸って、ゆっくりとそれを吐いた。

 

 口から息を吸い、糸のようにして息を吐いた。

 目を閉じる。意識を、呼吸に集中させる。

 全身を使って、息を吸い、ゆっくりとそれを吐き出した。


 僕が、そうやって三度の呼吸を終えた時に、電灯の光が消えて、その場所が闇に包まれた。僕は、突然のことに身動きができなかった。すうっと身体の熱が引く冷たさを感じ、これはまずい状況なのではないかと本能的に感じられる何かが、そこにあった。背骨が軋んだように疼き始め、自分の背後に何らかの存在を感じて、身動きができなかった。

 僕は、目を閉じて、呼吸を整えようとした。身体の中で、鼓動が響いている。どしん、どしんと、その音が耳元で聞こえ、あまりの音に僕は思わず息を止める。そして、またゆっくりと目を開ける。真っ黒の渦が目の前でうごめく様子を見つめながら、僕はじっと目が闇に慣れるのを待った。

 僕は、自分の意識に集中し、目の前に広がる景色を冷静に見つめる。呼吸だけに意識を集中して、その首筋に滑るような感覚を忘れようとした。僕は、一つ、二つと数を数える。それから、自分の呼吸以外にも数えられるものが無いかと、目の前の景色を深く見つめた。

そして、気付いた。闇の中にも、光の点は無数に存在していた。それは緑色の光の点で、凄まじい早さで浮いては消え、消えては浮かんでいる。それが無数に繰り返されて、線となり、筋になり、帯になって目に浮かぶ。じっと、闇を見つめていれば、それが輪郭となって、闇の中のものを捉えることが出来た。

 僕は、本を持っていた手の力を抜いて、それがパラパラとページをめくられながら滑り落ち、闇の中で地面に落ちる音を上げた。僕は、ゆっくりと立ち上がる。そして、歩き始める。いつものように足を上げて、前へと伸ばし、地面を踏みしめる。

 しばらく路面の様子を探りながら歩いていると、次第に目が闇に慣れていった。おおよその輪郭で、どこが道かを把握することが出来た。僕は、呼吸に集中しながら、目の前の闇を見つめて歩いていた。闇の濃度で、進むべき方角を決めて、その濃い方へと僕は進んでいた。

 僕は、山道を進んでいた。道は、舗装されたものから土の地面へと変わっていた。山の小道を歩き始めてから、木々の間から漏れる月明かりが土の地面を浮き上がらせていることに気が付いた。完全な闇の中を進んでいると思っていたが、実際には闇の中にも光があり、要はそれに気づかなかっただけだった。

 それからの道は、自分が月明かりのカーテンの中を歩いているような感覚だった。木の根の模様が浮かんで目に見え、その傍にキノコが生えているのさえ目に入った。本当はかがんでそんな様子をじっと見つめてみたかったけど、目的を持った僕は、そんな景色に別れを告げる。「ごめんね。行かなくちゃ」目的?一体どこに向かっているのだろう。

「その場所だよ」ともう一人の僕がつぶやく。

「君のよく知っている場所さ」

僕は、少なからずそんな自らの問いかけに驚く。

「僕は、僕のよく知っている場所に向かっている。」

「そうさ、何度となく夢で見た景色さ。」

僕は、自分がいつの間にかワクワクしていることに気付く。僕は、自分では気づかない意識がその場所に近付いていることを感じている。

「この道も、僕は知っているのかい?」

「ここは、トンネルのようなものだね。」

「トンネル?」

「君は、トンネルの中の風景なんて覚えているかい?壁のシミの形や、水滴の跡なんて正しく記憶できるのかい?」

「そうだね、そんな景色なら正確に記憶するのは難しいかもね。」

「そうさ、」と僕は言う。

「実際にね、そういうディテールは曖昧に作られていて、一定では無いんだ。キャパシティーの節約ってわけさ。」

そう僕は言う。

「だけどね、概ね大体は、整合性だって取れている。」

僕は、そんなトンネルの中を歩いていた。

「ほら、あの照明の色をご覧よ。」

そう僕が指差すオレンジ色の光は、確かに見覚えのある景色に見えた。

「そうした時間の間に、世界は次の世界の準備をしているんだ。」

「なるほどね。」

「ほら、」と僕がトンネルの先の光を指差した。


 僕は、木々の間を抜けると、開けた空間に足を踏み入れた。それは、森の中を走る風が抜けていく草原で、ちょうど中央に湖があり、その表面が風を受けて波立っては、月の光をキラキラと細かく砕いていた。僕は、足が埋まるほどの草原を歩きながら、確かに何処かで見た風景だと思った。

 その場所の空気は澄んでおり、僕は立ち止まり、目を閉じて一度ゆっくりと深呼吸した。それからゆっくりと湖の水辺へと近付いて行った。ぐらりと空間が揺らぎ、消えてしまうかと思ったけれど、踏みしめる地面から透明の光が細かく浮いて、それがすうっと拡がって実感の色合いを強めた。

 初めは風景の一部のように見えていたけれど、水辺に近付くにつれてそれが彼女だと分かった。トコロテンも、そんな彼女の足元に居た。前足に顎を乗せて、トコロテンは落ち着いた様子で目を瞑っていた。

「こっち来て、座らへん?」

トコロテンの頭を優しく撫でながら、彼女が言った。

 僕は、彼女の側に腰を下ろすと黙って水面を見つめた。

「いつから、ここにおったん?」

「そうやなぁ、いつからやろ?もう、ずっと長いことおった気がするわ。」

彼女は、僕が見ていた湖の同じ辺りを眺めていた。

「ずっと長いことここにおって、それでこの子が来たんや。あんたと同じや。向こうの木の間から、ひょっこり出て来てその辺うろうろして」

トコロテンが、不意に目を開けて僕の方に顔を向けた。

「ええ子やで、怖がりやけど優しくて。あんたそっくりや」

「そうか?」

「そっくりや。目なんか、そのままやわ。」

僕は、トコロテンの目をじっと見つめてみた。黒いガラスのような目が、僕をじっと見つめていた。

「そうかもしれんなあ、」

僕は、そう言って空を見上げた。雲が晴れて、星空に大きな月が浮かんでいた。

「時々、鳥が飛んで来るんよ。」と彼女が言った。

「そうなんや・・・・・・」と僕が言った。

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