第7話

僕は、その翌日に貼り紙の電話番号に連絡してみることにした。コール音が4回ほど鳴ってから、

「はい」と乾いた女性の声が聞こえた。

「すいません。貼り紙を見てご連絡したのですが?」

「トコロテンですか?」

「はい?」

「名前です。犬の名前。心に太いで、心太(トコロテン)と言います。」

「トコロテン、ですか。」

「はい。見つかったんでしょうか?」

「いえ、トコロテンはまだ見つかっておりません。」

「そうなんですか・・・・・・」

電話口の声は、とても残念そうにそう息を吐いた。

「これから探そうと思っていまして、もしもう見つかっていればと思って先に電話したのですが。」

「そうなんですね。」

電話口の声は、疲れを滲ませるようにそう呟いた。

「それから、何か頼りになるようなことが聞ければとも思ったんですけど。」

「そうですね・・・・・・」


 トコロテンは、2週間ほど前から居なくなったそうだ。ふとした不注意で、家の窓を開けていたところ、いつの間にかそこから抜け出したと言うことだった。いつから窓が空いていたのかは覚えておらず、ほんの何時間という間のことだったそうだ。

 それからすぐに近所を探して歩いたけれど、トコロテンの姿は見当たらなかった。夕方頃に腹を空かせて戻るのではないかと考えていたが、結局その日は戻らなかった。これまで外に逃げ出したことも無く、臆病な性格だから、何処かに迷い込んだまま帰れなくなっているのではと、その女性は語っていた。

 トコロテンを飼い始めたのは3年前の4月で、去年新しく子供が産まれるまでは本当の子供のように可愛がっていたそうだ。


「今日子が生まれてから、そちらが中心になって、申し訳ないという気はしていたんですけど、」

「今日子ちゃんと言うんですね。」

「え?あぁ、娘です。」

「でも、トコロテンだって、きっとわかってくれていたと思いますよ。」

僕は、何の根拠も無く、そう言った。

「そうでしょうか」

「ええ、そうです。犬には、飼い主の気持ちが良くわかるでしょうから、赤ちゃんに対する気持ちも理解していたでしょうね。」

「そうですね。確かに、気にはなっていたようです。滅多に自分からは近づかなかったのですが、泣いている時は心配そうに見ていました。」

「そうでしょうね。」

そう僕は、同調した。

「わかりました。大体どんな状況だったか、よく理解できました。あと、何か他に目立った特徴でもあれば、教えてもらえますでしょうか?」

「特徴ですか?」

「ええ、好きなこととか、好物だとか。」

電話口で、その女性はしばらく考えている様子だった。

「スイカ・・・・・・でしょうか?」

「はい?」

「スイカが好物でした。」

そう電話の声は言った。

「夏の暑い時に、食卓からスイカを差し出すと嬉しそうに食べてたんです。白いところが無くなるぐらい、必死で食べていました。その姿が可愛らしくて、主人と良く笑いながら、夏にスイカを一緒に食べていました。」

「なるほど、スイカが好物なんですね。」

電話口の声は、

「ええ、でも。」

と僕の声を遮るように続けた。

「今年は、そんなことをすっかり忘れていたんです。こうしてお話しするまで、スイカを食べることなんてすっかり忘れていました。そうですね・・・・・・正直を言うと、スイカを食べたいとすら思ってもいませんでした。こんなことを言うと変に聞こえるかもしれませんが、正直、子供のことでいっぱいになって・・・・・・主人も助けてはくれますが、日中は一人ですし、親も離れていますので・・・・・・やはり、日中は一人なんです。」

僕は、なるべく話を妨げないように

「ええ、そうですね。」

時おり相槌を打って話を続けるように促した。

「聞いてますよ。どうぞ」


「きっと、あの子、何処かで震えてるのよ。怖くて動けなくなってるの。もう十日以上も経つのよ。ご飯だって何も食べてないわ。」

「大丈夫ですよ。」

僕は、朗らかにそう言う。

「トコロテンだって犬なんだ。お腹が空けば、何だって食べますよ。」

僕は、

「心配しないで下さい。」

いつに無く根拠の無い自信を声に滲ませた。


僕は、彼女の隣を歩きながら、途方もない気持ちを抱いていた。どうやって、逃げ出した犬なんて探し出すのだろう。なぜ、自分がそんな追い詰められた気持ちを抱えているのかがよく解らなかった。

「おらんな、犬なんて歩いてへんで。」

「そやろ?」

僕はそう言って、石が敷かれた道を歩きながら、石で組まれた水路の水面を見つめていた。

「けど、スイカが好きな犬ってのも居るんやね。」

「余計なこと聞いてしもうたな。キュウリが好きでも、スイカが好きでも、正直知ったこっちゃ無いわ。」

「キュウリも好きなん?」

「いや、それは聞いてないけど。」

「キュウリやったら、夜店とかでも売ってんで。」

「あの棒に刺さったやつか?」

「そうそう。」

「あの棒、何か気味悪いねん。尻からぶっ刺されてるみたいで」

「わかるわー。わざわざ外に出て、キュウリも無いわ。」

「そやろ?尻に棒突っ込んだキュウリなんて、何で食わなあかんねん。」

彼女は、しばらくその道を歩きながら言った。

「別にキュウリは、関係無いやん。」

「そうやな。」

彼女は、しばらくしてこう言った。

「その飼い主の人、あんたに期待してんのちゃうの?」

 僕は、黙っていた。

「ずいぶん心配しとったんやろ?」

「子供みたいに可愛がっとった、らしいわ。」

「あんた、なんて言ったん?」

「『大丈夫です』『心配しないでください』って。」

「何でそんなこと言うたん?」

「何でって」

僕は、戸惑っていた。

「何て言えば良かったん?」

「電話なんてするからやんか。知らんふりしとけば、良かったんや。」

水面で、ポツリと波紋が広がり、魚がいるのかもと思った。

「知らんふり、か・・・・・・」

横から覗くだけでは、魚影なんて見えなかった。

「あんた、そう言うとこあんねんで」

僕は、そう呟いた彼女の横顔を見た。

「やらんでええことやったり、言わんでええこと言ったり」

彼女は、こちらを見る様子も無く、黙ってその道を歩いていた。

「そうか。」と僕は、言った。


 彼女は、夜からバイトがあるからと言って、散歩の途中で帰った。

「まあ、頑張って探しなね。」

そう彼女はにこやかに言って、駅へと向かって行った。

 それからの道は、まるで魔法にかけられたようにすぐ暗くなった。僕は、散歩道で犬を探すのを諦め、最初に張り紙を見つけた場所に戻ることにした。

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