第6話

 僕らは、じっとその豆腐が鍋の中で煮立てられるのを見つめていた。

「ええか、鍋の底を焼くんやで。」

僕は、2センチ角に切られた豆腐がフルフルと揺れる姿をじっと見つめている。

「鍋なんてな、バカになってええねん。ほんまに旨いもん喰いたいんやったら、それぐらいやなかったらいかん。」

本物の麻婆豆腐を、僕らは作っていた。豆豉と花山椒が、これでもかと入ったやつだ。

 あいつはじっと豆腐が揺れるのを見つめて、ある瞬間を見計らって皿にそれを移す。それから、仕上げとして潰した花山椒をいっぱいに振りかける。

「喰おうぜ。」

僕らは、白飯と味噌汁を準備して、その朝の食事とした。

「今日の、準備はええか?」

そう言って、僕らは一日に備える。

「死ぬかもしれんの。」

「それなら、それでええ。」

僕らは、儀式のように黙々とその朝食を平らげる。

 僕は、あいつがどんな一日を送るのかを知らない。だけど、そんなことどうでも良かった。その日の終わりに、また一緒に食事が出来れば。けれど、そんな食事だって保証されたものでは無く、僕にしてもあいつにしてもその場所に帰ってくるかも分かったものでは無い。でも、それはそれで良かった。僕には、あいつが居て、あいつには僕が居た。それだけで良かった。

「ほな、またな。」

そう言って、僕はアパートの玄関を出る。今日一日、どうしようと思ってはいたけれど、微塵も様子は見せなかった。アパートを出て、しばらく歩いて、それから考えればと。それだけしか、僕らには見えていなかった。

 僕は、精一杯の強がりを背負って、その十分ばかりを歩く。僕には、何も出来なかった。何をすれば良いかも、分からなかった。たった一日のことさえ、そうだった。

僕は、近くの公園のベンチに座り、缶コーヒーを飲みながら、じっくりとその時間に向かい合う。本能的に、やるべきことは解っていた。それが、一番辛い部分でもあった。あと二日でいい。そうした時間が欲しかった。そうやって、僕らの時間は流れて行った。缶コーヒーでいつまでももつ訳では無く、僕は立ち上がる。それから、歩き出す。

京都の夏は暑く、それは、半永久的な印象として僕の中に刻まれている。歩みを進める度に、汗が首筋から背中に流れた。得も言われぬ、ぬめるような不快感を覚えながら、その感覚にどこかで感謝していた。そうやって何かを我慢することで、それがとりあえず自分の「今すべきこと」だと認識することが出来た。

 僕は、半時間ほどを当てもなく歩き、コンビニで休憩する。僕は、コンビニに入って、カップに入った氷とコーヒーを持って店を出る。そして、店の前でなるべくの時間を掛けて、そのコーヒーを飲む。コーヒーなんて、本当は飲みたくも無い。胃が荒れて、吐き気すらする。それでも、そうするしか選択肢が無かった。飲みたくも無いコーヒーを飲みながら、目の前の景色を見つめていた。

 車が絶えなく流れ、「どこに行くんだい?」と僕は心で呼びかけてみる。「どこだって、いいよ。その場所に僕も連れてってくれよ。」

車は、少しだってスピードを緩めずに目の前を過ぎ去って行く。

「なんだって、いいよ。立て看板を立てる作業だって、営業先を回ることだって、店舗で店番することだって、一生懸命やるからさ。」

 僕はカップを手に、ようやく立ち上がる。そして、その時にその貼り紙を見た。


『探しています。』


『茶色の短い毛で、とても臆病です。』


 僕は、そこにあった写真を見つめていた。確かに臆病そうな目で、その犬はこちらを振り返っていた。首の根元から、ぐいっとこちらを向いて、何かを訴えかけていた。「何を訴えているんだろう」と僕はしばらく考えてみた。

 どんな日々だったんだろうと考えてみた。それは、逃げ出したくなるような日々だったんだろうか、それとも単に迷子になってしまったんだろうか。僕は、しばらくそうやって写真を見つめていた。それでも、その答えなんて解かりっこ無かった。

 僕は、空になったカップを店内のゴミ箱に捨てて、また歩き始める。


僕は、それからしばらくの道を茶色い犬を探して歩いていた。知りもしない通りを折れて、その辺りの家の庭をのぞき込んだりしながら。そうして歩いてみて、僕は、改めて道をふらふらと歩いている犬なんていないなと思った。玄関先や庭に繋がれている犬なんてのも居なかった。

「その犬は、どこに行ったんだろう?」と思った。

のぞき込んだ家の庭に犬小屋があったとして、その中で昼寝をしている犬の毛色と顔を盗み見ようとしていた。だけど犬小屋があるんだから、その犬って随分前からそこにいたんだろう。

 もっと飼い犬って、あっちこっちに居るものだと思っていた。夕方になれば、ワンワオーンなんて遠吠えをして、あっちこっちの家からそんな鳴き声が聞こえてきて。それとも、最近はみんな家の中で犬を飼っているのかもしれない。そうして、思い出したようにさっき携帯で写真に撮った張り紙を見返してみて、確かに背景は家の中だった。ニス張りのフロアリングの廊下みたいな場所で、その犬は見上げるような目でこちらを振り返っている。

 歩いている道のなるべく日陰の箇所を選んで歩きながら、僕は、どうやって何処かの家の中に居る犬を見つければいいんだと考えていた。

「そんなこと、どうだっていいじゃ無いか」

と自分の中の誰かが言って、

「そんな無関心がお前を殺すんだよ」

とまた誰かが言った。

怯えた目を潤ませながら、その茶色い生き物は、僕に頭を擦り寄せてくる。よしよしと頭をくしゃくしゃに撫でてやると、顔を上げ、嬉しそうに手や顔を舐めてくる。「わかったよ。もういいよ」そう僕はその犬の顔を押し離そうとして、その犬が負けじとまた頭を押し付けて擦り寄ってくる。そんな様子を妄想していた。

しばらく歩いた後に、住宅地からは抜けて、大きな生垣が目に入った。石造りの建物が見え、その正面に回ろうと大きな通りを渡って生垣沿いに歩道を歩いた。

「日本の刀展」という幟が立っているのを見つけ、それが美術館だと気付いた。まだ午前中と言える時間で、昼前だったが腹も減っておらず、僕は、中で涼んでもいいなと思いつつ、その展示を見ることに決めた。


その1時間後、僕は、たまたま見つけた喫茶店の席に座り、道の途中で見つけた古本屋で買った『かもめ』を読み始めた。登場人物の紹介を読み、理解をしようとしたが、誰が誰か解らず、諦めて本編を読み始める。しばらく集中をして、アイスコーヒーを口に含み、ミックスサンドを口に運ぶ。

展示されていた刀のことを思い起こしていた。寒いほど涼しい館内に、照明の光を浴びて、その物質は冷たく輝いていた。紋様が波のように揺らいで見えて、くすんだ色合いが気味悪く思えて仕方無かった。

しばらく自分の時間を過ごしていた頃に、彼女からの電話があった。

「どこに居るん?」

大体の場所を電話で話すと、彼女は

「わかった。そっちに行く」と言って、電話を切った。


 彼女は、僕の向かいの席に座っている。

「眠ない?」

そう聞いた僕に

「眠いよ。」

と彼女は言う。

「朝からコーヒー何杯も飲んだわ。これで、何杯目やろ?」

「僕も、や。」

「でもな、なんかさっきからハイになって来て気分ええねん。」

そう言って彼女は、笑った。

 彼女は、いつも目を横に大きく細めて、笑った。

 僕は、そんな彼女の笑顔をじっと見ていた。

 そのまま、眠りに落ちるような感覚を抱いていた。


「それで、どうやって見つけんの?」

そう彼女は言った。

「わからん。そもそも、見つけんの?」

「見つけるんやろ?」

「そうなん?」

「だって、気になるんやろ?」

僕は、

「まあ、気にはなるな。」

そう言って携帯の写真を見た。

「気になるやろ。こんな目で見られたら」

「ほんまやな。なんか気になるわ。」

茶色いその犬が、こちらを覗き込んでいる。

「私にも、その写真送って」

僕は、彼女にその写真を添付して送った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る