第5話

僕らは店を出て、近くの川べりの柵にもたれかかり、浅い敷石の川底を見つめていた。街の灯が辺りを明るく照らしていて、時間という感覚がうまく掴めなかった。僕は、彼女にどんな声をかければいいのかを考えた。

表情というものが抜けたように、彼女は川の水を見つめていた。

「ありがとう。美味かったわ。」と僕は言った。

彼女が顔を上げ、焦点のうまく合わない目で僕を見つめた。

「大丈夫?だいぶ飲んだで、俺ら。」

彼女は、やっといつもの笑顔を見せた。

「そやなぁ、『俺ら』だいぶ飲んでしもうたな。」

「ちょっと歩こうか」

そう言って僕らは、夜の古都を歩き始めた。

 道ゆく人たちは、ケラケラと笑い声をあげ、楽しそうに僕らを通り過ぎて行った。店舗からの光が石造りの歩道に溢れ、かえってそれは道に散らかったゴミや吸い殻を鮮明に浮き上がらせていた。「もう一杯いかがですか?」と声を掛ける店員もおり、僕らは素早くそうした通りを通り過ぎた。

川沿いの木々が幹と垂れ下がる枝葉を通りの光の中で晒しており、その葉は風でふらふらと揺れていた。でも、そんな木々もよく見ると、木のひだや枝の上の方に夜の闇を纏っており、内にそうした静けさを持った姿は何か言いたいことを抱えながら黙っている存在のようにも思えた。

僕は、どことなく歩いており、自然と静けさを求めて何度か角を曲がった。道を知っていたわけでも無く、どこを歩いているのか分かっていたわけでは無い。唯、彼女が僕の横を半歩ほど遅れて歩いており、いつの間にか僕が彼女を連れて歩いていたのだ。

僕は、どこか静かに休めるところは無いかと腰を下ろせそうな場所を探していた。その辺りに、ベンチのある場所があるんでは無いかと思っていた。その辺に、すぐ近くにと思いながら、通りとどんどん離れたところを歩いていた。十分、十五分ほど歩いただろうか。そして、石柱に囲われた公園のような場所を見つけた。

「ちょっと座れる場所で、休もうか?」

そう言うと、彼女は声も出さずに頷いた。

 ベンチは、しばらく歩いた場所にあった。

「何か飲む?買ってこよか?」

そう言うと

「私も行く」と彼女は言った。

 自動販売機は、道をしばらく戻った場所にあった。

「コーヒー?お茶?」

彼女は「これにする」とペットボトルのお茶を指差した。僕がお金を入れて、彼女がボタンを押した。僕は、ブラックのコーヒーを買った。

 夜のその公園に、人がいる気配は無かった。僕らはベンチに座り、しばらくお互いに黙っていた。僕は、彼女の話を聞いて、彼女の気持ちのことを考えようとしていたのだが、実際はいつもと違って大人しい彼女をチラチラと見る度に、彼女とセックスをすれば、一体どんな感じなんだろうかということばかりが頭に浮かんでいた。

 そんな目で彼女を見たことは無く、想像をしないようにと心掛けていたのに、彼女の俯く顔を見る度に、その肩を、首筋を、胸を、手で優しく触れてみたいという思いにかられていた。僕は、コーヒーを開けて一口飲み、砂地の地面の上に置いた。僕らは長い間、黙っていたと思う。僕は、ゆっくりと自分の身体を彼女に近づけて、肩を触れ合わせた。それを感じて、彼女は僕の肩にそっともたれた。

 彼女が息を吐いて、力を抜いていくのが分かった。僕の気持ちは、それでとても落ち着いた。そっと彼女の髪を撫で、僕はぼんやりとした目で空を見上げた。月明かりに色づいた雲の隙間に、星が幾つも輝いているのが見えた。遠くで祭囃子が聞こえた気がした。

 僕は、彼女の呼吸に合わせて自分も息を吐き、ゆっくりと吸った。彼女の頭に頬を添えるように、僕も体重を預けると彼女の温かい熱が伝わってきた。髪の香りが息をする度に意識をクラクラとさせた。

「これで、いいのだろうか」と僕は何故か考えていた。

息をする度に、その一瞬が引き伸ばされて感じられていた。このまま時間が止まるような気さえしていた。その先へと、その先へと、どんどん求めるままに進んで行くことに不安を感じていた。考えがぼやけて、自分の中で熱が視界をぼやかしているように感じていた。そして、さっきから聞こえていた祭囃子がやっぱり、はっきりと聞こえるようになっていた。笛の音や太鼓の音が遠くから、さっきより鮮明に聞こえていた。

「聞こえる?」

「うん」

僕だけじゃ無いんだと思うと嬉しかった。意識がそんな音色にのって遠い空に引き上げられ、僕らは街の夜景を黒い空に張り付いた星のように見下ろしていた。息をする度に、彼女が隣にいることが感じられ、彼女の手を探ってその手を握った。細い指が、僕の指の間に触れ、汗ばんだ手にゆっくりと力が込もった。

 そんな僕らの足元で、陰からひそひそと話すちいさな声が聞こえていた。気のせいだと思っていたが、鼠ぐらいの大きさのそれは、僕の足元からひょいと顔を覗かせると、僕らのことをじっと見つめていた。顔が異様に大きく、全身が灰色で髭と髪がもじゃもじゃと被った笠の間からはみ出していた。目はギョロリとしているが、怒っているようでも無く、僕らを警戒しているようでも無かった。

 それは、陰から姿を現して、砂地の地面をひょいひょいと歩いていた。ちいさい笠を被った和服のそれが後ろを振り向き手招きをすると、似たような大きさの様々なちいさい奴らが現れた。彼らは棒の先に旗が付いたようなものを持ったり、提灯を手に持ったり、笛を吹いているものもいた。太鼓を叩くものもいた。さっき聞こえたのはこれだったのかと思った。彼ら、彼女たちは、大きさも姿も様々だった。つるつるの真っ赤なやつもいれば、ひょろりと長いものもいた。さっきまで見えていなかったのに、ふうっと彼らは現れて、霞んで透けて見えたりもした。祭囃子に合わせて、ちょろちょろと動くものもあれば、黙々と歩くものもあった。

 僕らは、そんな行列が目の前を通り過ぎるのを静かに見つめていた。僕は、彼女にそんなものが見えているのか自信も無かったが、別にそれはそれでよかった。僕は、驚きもせず、そんなものかと眺めていた。それは見ようと思うと霞んでしまうし、見えたからといって何ということでも無かった。彼らの目的は、僕らでは無いことは確かで、僕はなるべく邪魔をしないようにと心掛けていたように思う。彼女の手をゆっくりと握った。彼女もそんな僕に応えるように手を握り返し、それに安心をして、また身体の力を抜いた。とんとん、とんとん、ぴいひゃらら、とんとん、とんとん、ぴいひゃらら。そんなちいさな音が何度となく繰り返され、掠れるように闇の中に消えていった。

 僕は、太鼓の音がもう聞こえなくなってしまってからも、ずっと心でその音を追いかけていた。耳鳴りのような気がして、確かに聞こえていて、そしてそれは聞こえなくなっていた。もう一度、自分の中でその音が聞こえたなら、また聞こえてくるはずと思いながら、ずっとその祭囃子を探していた。

「もう、行ってしもうたわ。」

そう彼女が言って、僕はどきりとした。

「終電」

そう彼女が言った。

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