第4話

 男は、運転席に乗り込むと急いでドアを閉じてシートベルトをして、車を発進させた。リコは、あまりの現実感の無い出来事にどう対応していいのか、ただ呆然と男の様子を見つめていた。男は激しく息をして、前だけを向いて車を走らせていた。

「大丈夫?」

そうリコは、男に聞いた。

「ちょっとまあ、落ち着かへん?」

そうリコは、男に言った。声が震えそうになったけど、明るいトーンで話しかけられたと思う。

「道を教えてもええけど、どこに行きたいんか言ってくれへんと教えられへんやん?」

男は、しばらく口を閉じて黙っていた。

「なあ?」

リコは、自分の声をしっかりと聞きながらそう言った。甘えるように、聞こえたはずだった。

 男は、呼吸を整えてからこう言った。

「君のこと、知ってる。朝、7時半の電車に乗るやろ?水曜と金曜に終電で帰ってくるやろ?知ってんで」

「そうなん?全然分からへんだわ。見てたん?私のこと」

男は、黙って比較的大きな通りを走っていた。呼吸は落ち着いたようだった。

「そうなんや・・・・・・」

リコは、何とか男の気持ちにトーンを合わせようとしていた。探りながら、悟られないように、偶然を装って声のトーンを合わせようとしていた。

「知らんかったわ。見ててくれたんやね」

男は、まだ黙っていた。

「いつからなん?」

「十二月」

「そうなんや。気づかへんかったわ。」

「気付かんかった?ずっと見てたんやで」

リコは、自分を落ち着かせるように一呼吸を置く。

「全然、気付けへんかった。」

男は、初めてリコの顔を見た。

「コート、2つ持ってるやろ?ダウンと灰色のやつ」

「ダッフル・コートやろ?うん、持ってる。ダウンは寒い時に着るねん。」

リコは男と目を合わせ、それから前を向いた。

「そやろ?そう思うたわ」

男は、表情を崩した。

「今日は、寒いからダウン着てくるんやろうな思うて見てたわ。」

男は、前を見ながら笑みをこぼす。

「ばれてたんやなぁ・・・・・・恥ずかしいわ。」

そうリコは、小さく呟く。

「なあ、喉乾かへん?水かお茶か飲みたいわ。」

「なんや?喉乾いたんか?」

男は、ぼやくように言った。

それでも、しばらくして「しゃあ無いな、買って来たるわ」と言って自動販売機を探し始めた。

「コンビニでもええやんか」とリコは言ったけど、

「そんなんあかん。逃げるやろ」

「逃げへんって、別に。逃げへん、逃げへん。」

「絶対、逃げるわ」

リコは『そりゃ、逃げるわ』と思っていたけれど、「逃げへん、逃げへん」とおどけて繰り返した。

 男は、人気のない道路にあった自動販売機を見つけると車を寄せて停め、

「お茶がいいの?」そう聞いてきた。

「そうやな、冷たいお茶か水が飲みたいわ。」と、リコが言った。

「わかった」そう男は言って、車を出た。

 時折、男が車内の様子をうかがい、リコは目が合うと手を振って見せた。

「はい。」と言って、男がペットボトルのお茶を手渡し、また車を走らせた。ずいぶん、人通りの無い山道に入っていくようであった。

リコは、実際は恐怖に潰されそうになっていた。目がチカチカとして、喉の奥が張り付いて吐きそうな感じがした。それでも、手の震えを抑え、ペットボトルの蓋をゆっくりと回し、そのお茶をゆっくりと口に含んだ。喉は本当にカラカラだったから、気持ちがすっと落ち着くのが感じられた。

「こんなん、あかんで。」

そうリコが言った。

「やっぱり、あかんで、こんなことしたら。」

そうリコが言った。

男は、黙っていた。

「なんかな、こんなことしても、ええことあらへんと思うねん。今やったら何も無いし、私も何も言わへんし。」

男は黙っていたが、言葉には反応していた。気をあらだてることも無く、黙って聞いていた。

「何があったん?」

そうリコが男に聞いた。

「やっぱり、あかんで、こんなこと。」

男は、その言葉を聞いて、やっと車を止める気になった。

「そやな・・・・・・」と男が呟いた。


 男は、結局あまり自分のことを詳しく話さなかった。大学を出た後で就職がうまくいかなかったのか、職場で何があったのか、よくわからなかった。とにかく長い間、引きこもっていたらしい。それでも、最近は働くようになっていたらしい。

「もう帰るから、ちょっとだけ待って」

そう男は言った。

「深呼吸だけさせて」

そう男は言った。

 

一度、男は目を閉じて、鼻からゆっくりと空気を吸い込んだ。

 男は、身体の動きを止め、脱力をして、息を吐き出す。

 はあぁーっと・・・・・・声が聞こえるほど、溜まっていた息を吐き出す。


 リコは、違和感として、その時に何かを感じていた。


 男は萎んだフイゴを広げるかのように、身体を擡げて息を吸った。男が、先ほどの倍はあるかのように膨らんで見えた。リコは、幻を見ているんだと思った。自分は、いつもと違う体験をしたから、感覚がおかしくなっているんだと思った。その時、リコの目には、男の閉じた口の端から漏れ出すように黒い糸のようなものが立ち上っているのがはっきりと見えた。

 男は、はあぁーっと・・・・・・声が聞こえるほど、身体を収縮させて墨のような煙を吐いた。男が吐き出したそれは、暗い車内でも認識できるほどの漆黒だった。ふわふわと、霧のような濃度になったそれは広がり、リコの視界をぼやけさせた。リコは、息を止めて、身体をよじりながら、それを避けようとする。

 でも、それは、重みも体積も無い「もの」で、実体だけが男の内部を中心として止めどなく湧いてくるようで、どんどんとその車内の空間で膨らんでいった。リコは、目を閉じてそれをやり過ごそうと思った。けれども、それがリコの肌に触れ、リコの腕を撫でて、頬に触った。とても冷たく、焼けるような痛みが走った。

 男が、もう一度脱力をして隣で身体を前に倒し、息を吸い込む準備をしているのがわかった。もう周りは見えないほどに黒いそれに覆われていたのに、リコには、それがよく分かった。「もう、やめて」と心で声をあげた。息を止め、身をよじり、逃れようとするも、暗く形の無いそれはゆっくりとリコの全身を包んでいく。

すううっと息を吸う音が車内に響き、そして男の吐く息が聞こえてくる。リコは、脳が縦に揺すられたように、身体の芯に響く衝撃を感じた。チカチカと火花のように散って行く雷のような電流を感じ、それは胸の辺りから全身へと流れて行った。空間は上下の感覚が失われて、リコは、黒いそれに、頭の先から爪先までを包まれていた。全身が焼けるように冷たく、痺れるように刺す痛みが皮膚を焼いていた。リコは、どれぐらいそんな感覚を抱いていたのだろうか。ついに我慢ができなくなって、止めていた息を継いだ。

 それは、待ちかねたように、リコの口腔から喉の奥へと、身体の内深い部分を伝って流れていく。そして、リコは、それが染み入るように内から、また何処かへと消えて行くのを感じていた。それを事実と受け入れた瞬間に、視界は晴れ、リコは助手席に力無く寄りかかる自分の感覚を取り戻した。

そうやって、男は三度の深呼吸を終えたのだった。

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