第3話

 リコは、ダッフル・コートの胸元をぐいっと握りしめ、暖かい空気が少しでも逃げないようにと、そう思いながら玄関のドアの鍵を閉めた。夏の終わりに引っ越した頃は、あんなに過ごしやすかったのに。

 ブーツの底がコツコツと思った以上に音を上げ、気になって、歩き方を変えた。目指す駅が歩く通路からも見え、少し離れたところに立っている似た造りのマンションが視界に入っていた。

エレベーターの前でボタンを押して、キャンバス地の手提げ袋を持った手を上げて両手を擦り合わせ、リコは「手袋を持ってくれば、よかったな。」と思う。赤い毛糸のは子供っぽいし、合うものが無いし「まあいいか」とリコは思う。ガラス窓が付いた緑の扉が開き、ルーティンに準って乗り込んでボタンを押す。一定の時間が過ぎれば、階下に着き、ドアが開く。

「よかった」とリコは思う。今日は、どの階にも止まらなかった。もしかしたらいい日なのかもしれないと考えてみた。駅までの道のりは、途中細い道路を通る場所もあるけれど、ほぼ大通りの歩道を駅まで歩ける距離だった。

親は、初めは一人暮らしに反対していた。学校まで電車を乗り換えて2時間。途中、歩く時間を含めると2時間半。これまでは言う通り、自宅から通っていた。

「もう、いい加減認めてもええんと違う?」

そうリコは母親に抗議した。

「子供でも無いんやし、授業終わっても何もできへんのやで?家に帰っても何もできへん。」

「何もできんで、ええんと違うの?授業に出て勉強しとったら、それでええやん。学生やねんから」

家族が揃っている朝食の席だった。

「勉強もできへん。」

「何でえ?」

「疲れて勉強もできへん。なあ、ええやろ?バイトもするから」

「バイトするんやったら、勉強せえへんやん」

「勉強もする。バイトもする。」

「こんなこと言うてるで、お父さん。どう思います?」

父は、あまり口出しをする人では無い。

「まあ、ええんとちゃうか。」

「お父さん、ちゃんと考えてますか?」

母は、リコのやりたいと言ったことに賛成してくれたことなんか、無い。ピアノをやりたいと小学生の時に言った時も、そうだった。『近所迷惑だから』と『第一、そんなお金どこにあるの?』と。あの時もそうだった。

「タカシも下宿しとるんやし、普通とちゃうか?」

「タカシは東京でしょ。第一、あの子は国立大学やから」

「何それ、どう言うこと?」

リコは、カチンと来て言った。

「私は、行きたくて今の大学にしたんやからね。国立に行こう思うたら、行けました。」

今日だけは、絶対に引くつもりなんか無い。

「あら、そう?じゃあ、何で国立にしてくれへんだの?」

「京都の、大学に行きたかったの。」

「京都にも、国立大学はあるで」

絶対に、絶対に、引くつもりなんか無い。

「京大なんか行けるわけないやろ?お母さんの子やで。それにお兄ちゃんは東京とちゃうからな、千葉やからな。」

「もう、ええんと違うか?」

父が、少しだけ声のトーンを上げて言った。

 家の中が、少しの間静まっていた。

「お母さん。リコもバイトする言うてるし、勉強もする言うてるし、ええんと違うかな?」

母は、黙って食卓を立った。

「ええの?」

「やけど、住む場所はお父さんが決めるで。」

「わかった」

リコは、久しぶりに抱きついてもいいとさえ思った。そうは、しなかったけれど。


 思えば、あんなに嬉しかったことも無かったかもしれない。それも、もう半年も前のことだ。一人暮らしは、最高に楽しかった。色んな小物を見ても、部屋に合うかとか、キッチン用品を見ていても、いつまでも飽きなかった。始めの頃は毎日自炊をして、色んなものを作った。それでも、部屋のものを揃えるにはお金が掛かるし、可愛いと思うものに限っていい値段がした。一人で食事をしていても、いつも食べきれずに中途半端に残ったおかずがどんどん冷蔵庫に溜まっていった。お皿だって、限られた数しかないから、タッパーも買って。それだって、本当に欲しいガラスのやつは高くて買えなかった。

リコは、「つまらない」と思うことが多くなった。食事は、作るのは楽しくても、一人で食べるのが憂鬱だった。家に帰って、テレビを付けて、料理をしている間は何をやっているかもわからないけど、それでも人の笑い声が聞こえているだけでホッとできた。音楽を掛けてみたって、次は何を聞こうかなんて考えているうちに疲れてくる。音楽を消して、しばらくは静かになって安心するけれど、あんまり静かなのが心細くなった。

 家に毎日は電話しなかったけど、たまに母と電話で話をした。「うん、うん」なんて言われることを聞いて、学校であったことなんかを話して、そんなことこれまで無かったけれど、やっぱり心配なんだなぁって感じたりして「ありがとう」なんて言ったこともある。

 駅に着くとホームを上がって改札をくぐる。ほんの数駅だけど、普通しか止まらないから10分ほど待つ。いつものことだけど、そんな毎日のことをしていると頭がボーッとしてくる。いつまでこんな生活送るのかなって、馬鹿みたいだけど考えたりする。リコは、電車に乗って、窓の外を眺めている。ほんの15分ほど。

 その時に、リコはハッとして思わず振り返る。背中がぞくりとするような、誰かに肩を触られた気がした。けれども、急行電車ほど混んでいない車内で体に触れるほどの距離に人はおらず、それでも誰かの視線を感じていた。軽く見回して(ジロジロとは怖くて見られなかった。)気になる人もおらず、やはり怖くなって窓の外に視線を戻した。

 最近、こんなことが何回かあった。道を歩いている時や、部屋の中でも同じように感じたことがあった。ベランダのカーテンの隙間から覗かれているような気がして、でも怖くて確認なんてできない。マンションの5階だし、カーテンも閉まってるし、そんなことあり得ないんだけど、でも、もし気になってカーテンを開けてみたとして、そこに誰か居たとしたら、多分、声も上げずに気絶しちゃうと思う。

 リコは、その頃から「彼氏でもいれば」と考えるようになった。同棲とまではいかなくても、一緒に部屋に居れば安心するのにと思った。気になる人は居た。でも、その人はいつも遠くに居て、たまに手紙やメールで連絡する程度。好きかと言われれば、どうだろうという気持ちになっていた。好き、だったけど、今はと聞かれれば、どうなんだろう。「彼氏がいればいいな」とリコは、思う。そんな色んなことを忘れるぐらい、愛されてみたいと思っていた。


 冬の日が落ちるのは早く、すべての授業が終わった頃には真っ暗になっている。リコは、キャンパスの街灯が照らす道の中ほどを歩いて「次は、バイトだ」と考えていた。バイトがあるのは、水・金と土曜日。繁華街の居酒屋だけど、チェーン店では無く個人経営の店で雰囲気が気に入っている。繁華街と言っても通りを何本か隔てた場所にあり、友達に教えてもらって知ったお店だ。

 オーナーがたまたま店に来ていて、盛り上がっていた時に募集があることを教えてもらった。「えー、そうなん。応募しよかな」なんて言ってたら、後日電話があって「どう?」なんて言われて。閉店時間と終電の時間がちょうどということもあって、時給は高くはないけど相場だと思うし、いい場所で働けていると思う。

 リコは、働いている時の自分が好きだった。もともとテキパキと段取りよく物事を片付けるのは好きだったし、人と話すのも好きだった。仕事だから、適応に受けて適応に流し、お客さん相手に深入りせずやり取りをするのがちょうど良く合っていた。

適切な時に「申し訳ありません」「お待たせしております」と言った言葉が使え、「ありがとうございました」「またお待ちしております」ということが率直に口に出せるようになってから、だいぶ楽に仕事がこなせるようになった。お客さんが本当に楽しかったと喜んで帰る時は、滲むようなやりがいも感じられた。

終電の車内は、いつも独特の雰囲気があった。大概の乗客は酔っていて、静かに目を閉じていたり、仕事で帰る人たちも大抵は疲れのベールをしっかりと被り、中には騒ぐ人もいるけれど、そんな個々の押しつぶすような静けさに抑えられ、落ち着いていく。

駅に着いてからの道のりは嫌いだ。大通りも車が少なくなり、いつも抜ける細い道の街灯の間が真っ暗い海のように思えた。歩いている内に底が抜けて溺れそうになる気がしていた。

リコは、その日もそんな道を早く抜けたいと思って歩いていた。いつものように通りは暗く、街灯が照らすのは所々だけだった。いつもと違ったのは、その道に見慣れない車が止まっていたこと。

街灯の間に停められていたから、初めは車とは気づかなかった。車だとわかるほど近くなってから、ぱっと車内が明るくなった。



「やばいとその時に思ったけど、もう逃げられへんやん、そんなん。走っても後ろ向いても不自然やし、もう歩いて通り過ぎるしかないって思ってた。もしかしたら単に気にしすぎてるだけかもしれへんし、案外そのまま歩いて帰れるかもって考えて。まあ、家はもうすぐそこやし。」

僕は、黙って聞いていた。

「でもな、やっぱりあかんかった。ドアが開いて、出て来てん。でもな、案外冷静やったと思うで。早足で通り過ぎようと思ってたから。そしたらな、その人が『すみません』って言うねん。『ちょっと道がわからなくなって』って。」

「それは、やばいやつやで。なんやねん。『すみません』って」

「そうなんやろうなぁ、やっぱり。やばいなって思ったもん。」

彼女は、笑った。

「それで、どうしたん?」

「それで、『申し訳ないですけど、一緒に車に乗って案内してもらえませんか?』って『いや、いいです。』って言ったけど、何がいいんかも分からへんやん?」

「ほんまやで、」

「別に力ずくって感じでは無かったんやけど、もうあがいてもあかんって思ってたし、とりあえず無理やり助手席に乗せられて、ドア閉められて。」

そこで彼女は、話を一度止めた。

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