第2話

空が暗くなり始めた頃の風が、昼間の暑さを思い起こさせた。それと比べると、明らかに過ごしやすく感じていた。ムンとする熱を意識で追えば、それはそこにあり、なぜかそのことに安心をしていた。まだ、夏が終わるわけじゃ無いと自分に聞かせるように心で呟いてみる。夏が終わったとして、それはそれで大したことであるはずも無く、何かが変わるわけでも無い。それでも、何かが通り過ぎて行ったような感覚だけは、しっかりと残る。夏が、好きなんだろうなと思った。

丸太の欄干に両手をついて、川の流れをじっと見つめていた。水が白い筋になり、浮いては沈み、沈んでは浮き上がってくる。それは次から次へと絶えることなど無く、形を変えてはまた似た形を作ろうと湧き上がっている。一つの雫を追えば、ばらばらと無数の粒が騒がしく凄まじい速さで通り過ぎて行く。もう、あんな遠くまで流れて行く、もう目で追うことは敵わない。僕は、もう一度視線を橋の下の水に戻す。そこに、先ほどまで見ていた白い水の筋がある。それはきっと、同じものでは無いのだろう。だって、あの雫は遠くまで、意識でさえ追えない先へと流れて行ったのだから。

ふと、僕はその時に思う。同じでは無いかと。水は水だから、遠くに流れたものもそこにあるものも、その先にあるものも、その先も、その先も、川が枯れてしまうまで遠くずっと先の水も・・・・・・それは、まだ水でさえ無いかもしれない。遠い向こうの山の渓流にポトリと落ちる水でさえ、針葉樹の葉の先に集まった水蒸気だったり、もっと高い場所の雲の中の空気だったり、もしかしたら、それは遠くの海の方から来た暖かい空気だったり、海の底から海流に乗って昇ってきた水だったり・・・・・・ずっと、奥底の深海でひっそりとしていたのかい?どのくらい永く、ずっと暗く動きの遅い世界で捻れるゼリーのような意識さえまともに保てない世界で、時間という意識さえ引き伸ばされて止まったり引き千切られたり、途切れても気にさえならない、気付きすらしない時間の監獄に、一体いつから閉じ込められていたのだろう?

ふと、気づく。風が、こんなに涼しく感じさせていたのだと。空気自体は、暑く、重い。けれども、それが風に吹かれることで、涼しく感じられていたのだ。僕は、もたれていた身体を両手で押して、ゆっくりと空を見上げた。空は、重たい色に変わっていた。灰色がかった雲が空を覆い、その間に星が見えないか探したけれど、霞ばかりが掛かって何も見つからなかった。

「お待たせ。待った?」

そう彼女の声が聞こえて、振り向くとそこに彼女がいた。

「うーん。5分ぐらい?」

僕はそう言って、思いっきりの笑顔を作ろうと笑いかけてみた。


「行こう。」そう彼女は言って、先へと歩き出した。

「どこに行くん?」

彼女は嬉しそうに

「そうやなぁ。田楽って好き?」

そう表情を崩して言った。

「田楽って、豆腐?」

「そうや、お豆腐や。味噌とかゴマとか、色んなん」

「ようわからんけど美味しそうやな。」

「美味しいんや」

彼女は「そこでいい?」と振り向きながら聞いた。

「そうやな、そこにしよ。」と僕は同意して、後について歩いた。

 人の混み始めた通りを彼女について歩くのは、意外に難しかった。横を歩くと幅を取り、後ろを歩くと彼女の後ろ姿だけが、ずんずんと先に進んで行った。彼女は、時折こちらを振り向いたが、さほど言葉も交わさずに歩いていた。

「昼間は暑かったな」

「そう?ずっと部屋の中やったから、気づかんかったわ。」

「そうか」

自分で言っておきながら、馬鹿なことを聞いたなと思っていた。

 僕らは、大きな本屋がある通りを横切って、繁華街から少し遠ざかった通りで曲がった。その店が何処にあるのかも解らず、聞けば済むことなのに言葉にすることが不自然に思えていた。横に歩くのがいいのか、後ろについて行くのがいいのか。思えば、彼女と歩いている時にそんなことを考えたことなど無かった。

彼女が献血で出会った彼氏というのが、気になっていた。僕と彼女は、もう何年も知り合ってから経っていたし、彼女に彼氏がいたことは以前にもあった。僕だって彼女がいた時期もあったし、それはそれでお互いのこととして触れることも無かった。

人通りの少ない道に入ると、辺りは急に薄暗く感じられた。まるでそんな闇に隠れるかのように、僕は自分の存在を消してみたいと思っていた。できるのなら彼女にも気付かれず、こうやって何処までもついて歩くからと。「猫にでもなればいいな」と、そんな暗い道端から見上げる光る眼だけに見透かされている僕という存在であればいいなと。

「もう、その先やわ。」

そう言って道を指差す彼女の顔を見て、ほっとしていた。

「そう」

彼女は、とくに怒っている訳ではない。


 白い電灯の看板に墨文字で店名を書いてあった。引き戸をくぐると新しい木目調の店内がとても明るく見えた。

「奥でもええ?」

そう言って、彼女は格子の仕切りがある向こう側のテーブルに着いた。

「今日は、飲もな。」そう僕が言うと、

「ええなぁ」

彼女はメニューを広げながら目を細めた。

 二人ともビールをジョッキで頼み、食事は彼女お勧めの一品料理を注文した。

「よかった。何か怒ってるんかと思った。」

そう彼女が言った。

「何で?怒ってへんで」

「そう?あんた、すごい顔して歩いてたで。」

そう言われて

「そうか」

としか答えられ無かった。

「何考えてたん?」

「何やろ、何考えてたんやろ?」

そんなやり取りの最中にビールがテーブルに届けられた。


 僕らは、珍しく色んな話をした。ジョッキを何杯か空けて、迷いもなく「お代わり」と声を上げていた。どんな話だったんだろう?何時間も、気まずい気配さえ感じずに話していた。よく笑い、「何でやねん」と何度も言ったと思う。それでも、不思議と何の話をしたのかが思い出せない。バイト先の話とか、部屋の模様替えをした話だったり、友達と旅行に行った話なんてのもあったかもしれない。それとも、それは全く見当違いの場所で、違った相手とした話だったかもしれない。楽しいと言う気持ちだけが、切り抜いた風景のように僕と彼女が笑っている映像に張り付いている。そこに立体感はなく、あるのは客観的な思いだけだ。

 だけど、一つだけ、とても印象的で覚えている話があった。それは、その宴の後半だったと思う。酒に酔った体の重みを、ふうっと彼女が息を付いたようにテーブルの上に置いて、陽気な表情が流れるように彼女の顔から消えていった。そして、まるで僕が居ることさえ意識せず、呟くように言った。

「あんな、私。この前、誘拐されそうになってん。」

彼女の言っていることが、よく解らなかった。言葉としては、完全に理解できていたが、その言葉の意味する内容が理解できなかった。

「何?どう言うこと?」

多分、理解はできていたけれど、その内容で正しいとは思えなかった。

「この前って言うても、半年ほど前のことやねんけど」と言って、彼女はゆっくりとその話を聞かせてくれた。

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