薬莢(6)

 瀬川にイルハアムを殺されたあと、一週間のあいだ、少女とマーノーシュは、瀬川を殺す方法を話し合った。話の内容は極めて客観的であり、感情的な表現は一切なかった。

 少女もマーノーシュも、目の前で殺されたイルハアムのことを話さなかった。イルハアムの話題を意識的に避け、瀬川を殺すことだけに集中した。しかし、二人の頭の中では常に、自分たちの行動如何でイルハアムの死を避けることができた事実が巡っていた。イルハアムが殺される前兆に気付ければよかった。否、前兆など無くても、瀬川を殺せばよかった。瀬川の家で暮らす三ヶ月の間に、少女の中の優先順位が無意識に変わっていた。自分たちの解放よりも、好奇心を優先させるようになっていた。そのことにマーノーシュは気付いていたが、指摘することはなかった。

 今は、後悔と懺悔をする時期ではない。速やかに瀬川を殺すことが目標である。同じ結論に従って、少女とマーノーシュは行動していた。

 少女もマーノーシュも、瀬川の前では怯えた振りをする。涙ぐむ。瀬川に反論しない。瀬川の言葉どおりに行動する。瀬川に反抗的な態度は示さない。常に二人で寄り添う。

 二人の絶対服従の態度に瀬川は満足し、二人の目の前でイルハアムを殺した効果が覿面だったと考えた。瀬川は、今の二人が自分に反抗することは無いと判断して、初めて二人を一緒にして瀬川の寝室に入れた。瀬川は、机の上に置いてあったビデオカメラとナイフを持って、両方を二人に向けながら近付く。瀬川は、ナイフをマーノーシュの首筋にあてがう。マーノーシュが涙を流すと、瀬川は微笑みながらマーノーシュから離れて、ビデオカメラを三脚にセットする。

 その後も、瀬川は常にナイフを持ったまま行動する。瀬川は、少女とマーノーシュの様子を注意深く観察していたが、自分の動きに気を取られて、注意が散漫になっていた。

 一瞬だった。

 マーノーシュは、ナイフを握っている瀬川の右手を掴んで、そのまま瀬川の左胸に移動させた。

 瀬川は目を見開き、排水溝に多量の水が流れていく時と同じような声を出す。瀬川は、仰向けの状態から上半身を起こそうとするが、途中で崩れる。今度は横向きになって起き上がろうとするが、途中で動かなくなった。

 瀬川が動かなくなるまでの間、少女はずっと瀬川を見ていた。イルハアムが死んだ時と同じだった。瀬川もイルハアムも、屠殺される山羊と同じように死んでいった。

 瀬川の左胸に突き刺さっているナイフを引き抜いたマーノーシュが、瀬川の両目と右手を慎重に切り取る。瀬川の家のドアを開けるために、瀬川の目と手の何が必要なのか、少女もマーノーシュも正確に分かっていないため、手首の関節や瞼にナイフの刃を入れて、眼球と手を傷付けないように細心の注意を払う。切り取った瀬川の右手と両目に付いている血液を、ペットボトルに入っていた水とベッドのシーツで拭き取ると、少女は右手と両目を持って、部屋のドアに近付いた。マーノーシュは部屋の中にあった椅子を持ち上げて、部屋のドアの前まで移動させる。マーノーシュが両目を持って椅子の上に立ち、少女が右手を持つと、二人で声を掛け合いながら、部屋のドアに付いている機械に瀬川の右手と両目を読み込ませて、ドアの解錠を試みる。試行錯誤しながら、右手の指紋と掌紋、右目の虹彩でドアが開くことを理解し、ドアの解錠は数分で終了した。

 マーノーシュは、瀬川の右手と右目を持ち歩きながら家の中を移動して、バッグと食料を見つけ、バッグの中に食料を詰め込む。

 少女は、寝室にあった瀬川のスマートフォンのスリープを解除すると、予め盗み見ていたパスコードを入力して、スマートフォンのロックを解除する。瀬川がスマートフォンを使っている様子を隣で見ていたため、スマートフォンの使い方の見当は付いた。少女は、瀬川のスマートフォンを持って逃げたいが、瀬川のスマートフォンを使うことで、瀬川を殺した自分たちの居場所を誰かに知られてしまうのではないかと考えて、スマートフォンの機能について、インターネットで調べた。少女の予想通り、瀬川のスマートフォンをこのまま使うことで、スマートフォンの大まかな場所が特定されてしまうことが分かった。

 少女は、瀬川のスマートフォンからICチップを抜き、スマートフォンの位置が知られないように設定を変更する。同時に、現在地を調べて、逃げるべき方向を決めた。

 少女の後ろにいたマーノーシュから、食料の詰まったバッグとコートを受け取る。コートの袖と裾は切り取られて短くなっていた。瀬川の右手と右目は、死体のそばに転がっている。玄関は既にマーノーシュが開けていた。マーノーシュは一刻も早く、この家から逃げたいようだった。

 少女とマーノーシュは、家の外に出て歩き始めた。数ヶ月ぶりの外であるが、真夜中であるため、周りの様子は判然としない。星も見えない。とても寒い。着ているコートは瀬川の物であり、サイズが合わないため、コートと体の隙間から冷たい空気が入ってくる。少女とマーノーシュは、自分で自分を抱きしめるようにしながら歩き続けた。


 周りには沢山の家がある。道は全て舗装されている。常夜灯が道を照らし続ける。人工物が溢れている。時々見かける木も人工物のように見えてくる。


 数時間後、早足で歩いている二人の進行方向の先に人影が見えた。人影の頭の辺りで、赤い光が小さく灯っている。煙草の光だろうか。

 少女たちが歩く道は一本道で、曲がる場所は無い。急に引き返せば不審に思われるかもしれない。少女とマーノーシュは歩くスピードを遅くして、人影に近付いて行く。人影は、髪の長い人であることが分かった。おそらく女性。いざとなれば走って逃げよう、と少女は考える。

 女性は、ずっと二人を見ていた。煙草は持っていない。女性の瞳が常夜灯の光を微かに反射している。

 「こんばんは」女性が優しい声で二人に挨拶した。

 「こんばんは」

 少女が歩きながら答える。マーノーシュは黙ったまま。

 「もしかして、何か困ってる?」女性が言った。

 「いいえ、大丈夫です」少女は歩いたまま元気に答えて、女性の前を通り過ぎようとする。

 「ごめんね。職業柄、こんな時間の女の子を放っておけないの」女性は、二人を目で追いかけながら話を続ける。「少しだけ、お話しさせてもらえないかな」

 少女は立ち止まって女性の方を向き、一回頷く。マーノーシュも少女に倣う。

 「寒いでしょ。うちに入って話さない? 児童養護施設っていうところなの」女性は言いながら、近くの壁を指で示した。壁には看板が取り付けられていて、施設名が書かれているようだが、暗くて判読できない。壁の内側には建物がある。

 少女は、走って逃げることも考えたが、そちらの方が危険であると判断して、女性の提案を受け入れた。女性の言葉どおり、体は冷え切っていて、どこかで温まりたいという思いもあった。

 女性は清水と名乗った。清水は二人の名前を尋ねずに、児童養護施設の中に二人を招き入れる。

 施設の中の照明は全て消えている。室温も低い。避難誘導灯だけが緑色に輝き、廊下を照らしている。清水は、事務室の照明とエアコンを点けながら、事務室の中にある椅子に座るよう二人に勧めた。

 「ホットミルク飲める?」

 「はい」

 清水の言葉に反応しながら、少女が椅子に座る。マーノーシュも少女に倣う。日本語が分からないマーノーシュは、少女の様子を見ている。少女もマーノーシュも、日本語以外の言葉を話さない方が良いと考えていた。

 清水が電子レンジにカップを二つ入れてスイッチを押し、少女たちの近くの椅子に座った。電子レンジが大きな音を立てる。

 「もし良ければ、今日はここで泊まっていかない?」清水が微笑みながら言った。明るい部屋で見る清水の顔は、とても疲れているように見えたが、表情に翳りはない。口調も優しい。「誰にも言わないし、気に入らなければ、すぐに出てっていいから」

 清水の言葉を聞いた少女は、マーノーシュに相談したかったが、清水の前で日本語以外の言葉を話すことを躊躇していた。

 電子レンジの大きな音が、沈黙を掻き混ぜる。

 「この人、信用できると思う」

 突然、マーノーシュが口を開いた。普段の声量だったので、日本語ではない言葉が清水にも聞こえただろう。しかし、清水の表情や態度に変化は無かった。少女がマーノーシュを見つめていると、電子レンジの温めが終了した。清水は立ち上がって、ホットミルクが入った二つのカップを少女とマーノーシュの前のテーブルに運び「飲んで。あったまるよ」と言った。

 少女とマーノーシュがホットミルクに口を付ける。温かい。カップを持つ手が、カップに付けた唇が、ホットミルクを通した喉が、ホットミルクから熱をもらった血液が、温まっていく。

 ホットミルクを飲み終えると、少女はマーノーシュを見ながら、日本語ではない言葉を話す。

 「この人の名前はシミズ。私たちの話を聞きたいみたい。この建物で、そういう仕事をしているみたい。今日の夜、ここに泊まることを提案されてる」

 少女がマーノーシュに淡々と伝えている言葉を、清水は全く理解できないはずだが、黙って少女の言葉を聞いていた。

 「あたしたちのことを心配してくれてる」マーノーシュが話す。「シミズに迷惑をかけたくないけど、このままあたしたちがいなくなっても、やっぱり迷惑なんだろうな」

 「泊まるかどうかは後で判断するとして、今の私たちの状況を伝えましょう。相談すれば、良い方向に進めるかもしれない。故郷に帰れるかもしれない」

 少女の言葉を聞いて、マーノーシュが頷く。

 少女は、清水に今の状況を伝えながら、自分のコートのボタンを外して、洋服に染み付いている血液を見せた。清水の表情が無くなる。

 清水の目から涙が溢れる。

 「私が何とかします」少女の話を聞いた清水が言った。「日本人として責任をとります。あなたたちに酷いことをしてしまった日本に謝らせます。ごめんなさい。本当にごめんなさい」清水が頭を深く下げる。たくさんの涙の粒が清水の膝の上に落ちていった。


 少女とマーノーシュは、施設の浴室で体を洗ったあと、清水が用意してくれたパジャマに着替えた。事務室の中は温かく、パジャマだけで過ごすことができた。清水は二人を事務室の奥にある宿直室に案内する。既に布団が二つ敷かれていた。宿直室は狭く、二つの布団で、床の殆どが覆われている。布団が敷かれていないスペースには、着替えと子供用のコートが二組置かれている。

 「明日の朝、またゆっくり話しましょう」布団に入った少女とマーノーシュに向かって清水が言った。

 「はい」少女が頷きながら言うと、清水は微笑んで、宿直室の照明を消した。

 「おやすみなさい」

 清水が宿直室の襖を閉めた。襖の隙間から事務室の明かりが漏れ入っていたが、暫くすると事務室の照明も消えた。清水が事務室から出て行ったようだ。

 少女とマーノーシュは一言も話さなかった。明日、どのように行動すれば良いか全く分からないが、とにかく今は休んだほうが良い。二人とも同じように考えて、眠ることに集中する。

 体は疲れ切っているが、なかなか眠ることができずに、二人とも寝返りを繰り返す。数時間後、漸く少女の寝息が聞こえるようになった。

 少女の肩が叩かれれる。

 眠りの浅かった少女は、すぐに目を覚ました。朝かと思ったが、目の前は暗闇だった。朝であれば、宿直室の障子から光が差しているはずである。なぜ起こされたのだろう。

 「外が変だ」マーノーシュの声がする。「くさい。たぶん燃料だ。足音もいっぱいしてる。逃げよう」

 マーノーシュが宿直室の襖を開けると、廊下の避難誘導灯の緑色の光が宿直室に差し込んだ。緑色の光の中で、少女とマーノーシュは、清水が用意してくれた服とコートに着替える。コートの中には、手袋とマフラーと毛糸の帽子が用意され、二人が脱いだ靴の隣に、子供用のブーツも置いてある。

 二人の着替えが終わる頃、宿直室の障子が赤く染まり始めた。朝日が差し込むにしては時間が早すぎると感じた少女は、障子を僅かに開いて外の様子を窺った。外の景色が赤く染まり、揺らめいている。近くで何かが燃えているようだった。小さな炎ではない。

 「この建物燃えてるかも」少女が囁いた。

 「うん。煙のにおいもしてる。たぶん、さっきの足音の奴が燃やした」マーノーシュが早口で囁いた。

 「シミズ?」

 「分からないけど、足音は一人じゃなかった。とにかく逃げよう」

 少女とマーノーシュが辺りの様子を確認しながら外に出る。外の赤色が網膜を刺激し、煙が鼻腔を刺激し、爆ぜる音が鼓膜を刺激するが、どこが燃えているのか、正確な場所は分からない。二人は、清水が用意してくれたマフラーに顔を埋めて、清水と出会った道路を再び歩き始めた。

 清水が用意してくれた物は、どれも温かかった。少女は、冷たい空気の中をどこまでも歩いていけるような気がした。

 少女は歩きながら、先ほどの状況を思い出していた。建物は本当に燃えていたのか。燃えていたとすれば、誰かが火を付けたのか。誰かが火を付けたのであれば、あの建物が職場である清水が火を付けることは考えにくかった。これから放火しようとしている人間が、見ず知らずの子供を助けて、その子供のために涙を流し、着替えまで用意して、放火しようとしている建物に寝床を用意するだろうか。

 考えはまとまらないが、今はとにかく人が居ない場所へ向かって歩くしかない。

 数十分ほど歩いた頃、赤色灯を点けた警察車両が、少女とマーノーシュの後ろを走行してくることに気付いた。少女もマーノーシュも、赤色灯を点けた警察車両の意味を理解していなかったが、物々しく赤い明滅を繰り返す車を見た二人は、暗がりに身を隠そうと考えた。辺りを見回して、常夜灯が無い方向へ走る。二人が行き着いた先は、林のような場所だった。林の中は暗くて足元すら見えない。少女は背負っていたバッグの中から瀬川のスマートフォンを取り出し、ライトを点けて林の中に入った。マーノーシュも後を付いてくる。

 林の中を進むと、開けた場所に出た。開けた場所の中心には大きな石像のような物がある。近づいてライトで照らすと、石像は大きな円の形に作られており、その円の中心には、小さな竪琴を両手で持った女性の石像が立っている。円の外環の一部にプレートが取り付けられていたので、少女はプレートに書かれている文字を読んだ。『平和を祈る女神の泉』と書かれていた。

 「夜が明けるまでは、ここにいましょう」少女が言った。

 マーノーシュは頷きながら、女神像を見上げて「これ何?」と質問する。

 「平和を祈る女神の泉、だって」

 「ふーん……泉が近くにあるのか?」

 「この丸い土台のところに水が入るんじゃない?」

 「なんのために?」

 「女神も喉が渇くんじゃないかな」

 「女神って何? 神様に性別あるの?」

 少女とマーノーシュは久しぶりに、たわい無い話をする。時々笑い声を出しながら、笑顔で会話する。イルハアムが殺されてからの二人は、常に後悔の念に苛まれながら、瀬川を殺すことだけを考えていたが、目的を達成した二人の感情は、糸の切れた凧のように一瞬だけ空を飛んでいた。

 「こんばんは」

 突然の声に驚く少女とマーノーシュ。少女は反射的に声の聞こえた方向をライトで照らした。二人は、呼びかけられたこと自体に驚いたあと、その言葉が二人の母国語であることにも驚いていた。

 ライトが照らす場所に、女性が一人立っている。少女とマーノーシュは無言で、その女性を見つめる。

 「急にごめん。懐かしい言葉だったから」女性が口だけを動かす。「朝になる前から探検? 暗いから危ないよ」

 少女もマーノーシュも、イルハアムのことを思い出していた。なぜなら、目の前の女性が話す言葉のアクセントは、イルハアムが話すときのアクセントと全く同じだったからだ。

 「イルハアム……」マーノーシュが呟いた。

 マーノーシュの言葉を聞いた女性が目を見開く。女性は口を開いて何か話そうするが、息が漏れるだけで、言葉にならない。

 「……どうして……私の名前……」女性は目に涙を溜めながら、途切れ途切れに声を出す。「……本当に女神?」女性が絞り出した声は、空気に混ざって消えていった。

 少女とマーノーシュの目の前で、高宮イリカが泣き崩れた。

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