整備(3)
とばすって、こういうことを言うんだ。
スピードメーターの針が百五十のトコまで行くのは見てたんだけど、それ以降は怖くて見てない。高速に乗ってから一台もこの車を追い抜いてないし、前を走ってる車にみるみる追いついて、そのままあっという間に視界から消えてく。
僕は後部座席でわん太郎のお守りをしてる。わん太郎を車に乗せた直後は、押さえてないと動き回って大変だったけど、今は大人しくしてくれてる。自分が置かれてる立場を悟ったんだろう。そうさ、わん太郎。僕と君の命は今イリカさんに握られてるんだ。お互い仲良くしようじゃないか。
急に速度が遅くなる。イリカさんがブレーキを踏んでるみたいだ。どうしたんですか、と訊こうとしたら、すぐに理由が分かった。前にオービスがあった。オービスの真下を通り過ぎた瞬間、再び一気に加速。
外は真っ暗。しかもこのスピードだし、オービスの場所を覚えてないと急ブレーキになっちゃう気が……。
「オービス、覚えてるんですか?」後ろからイリカさんに話しかけた。
「うん、この高速けっこう使うんだ」
なるほど、だからこんなスピード出せるのか、って、いやいやいやいや、オービスの場所を覚えてても、こんなスピードは出せない。というか、出したくないです、はい。
「今から行くトコ、よく行くんですか?」
「うん」
「親戚とか友達の方ですか?」
「んー、まぁそんな感じかな。児童養護施設なんだ」
「えっと、身寄りのない子を育てる感じですか?」
「うん。あと、虐待された子とか」
「そうですか……。知り合いの方は、その施設の職員さんですか?」
「職員というか、経営者かな」
「親戚の方ですか?」
「友達だよ」
友達……。片道二時間以上かけて、よく会いに行く友達って――
「彼氏さんですか?」
「違うよー。女の子だよ」
よかった……と安心してたら、イリカさんのほっぺたが動いた。笑ってるみたいだ。
「シロウ君って本当に素直だよね」
「そう、なんですか?」
「うん、そうだと思う」まだ笑ってるみたいなイリカさん。「メグちゃんって可愛いよね?」
ん? なんで急にメグが出てきたんだ?
「そうですね、まぁ、可愛いというか、綺麗というか」
「私って可愛い?」
「え?」
なんだなんだなんだなんなんだ? 僕なにか試されてるのか? そういえば公園でイリカさん僕に何を話そうとしてたんだ? ていうか僕どうしたらいいんだ? いろんな感情と考えが頭の中を走り回ってて収拾がつかない。
「えっと、えー、は、い……」
汗が一気に吹き出す。すごいな、人間って。汗こんなに出せるんだ。
「メグちゃん、大切にしてあげてね」
「え? なにが、ですか?」
「ふふ」
メグ、働かせ過ぎてるってことか? 確かに、メグにはほんと世話になってる。もっと感謝しないとな……。うん、よし、今度メシでもおごってやろう。
「そうですね、今度メシでもおごっときます。よかったらイリカさんにもおごらせてください」
「ありがと」
イリカさんがウィンカーを弾く。滑らかに車線変更して、前の車を追い抜いた。
目的地は山の中だった。
高速を一時間くらい走ったあと、高速を降りてさらに一時間くらい下道を走った。周りの景色からどんどん光が無くなって、代わりに、木がどんどん増えてった。最後の五分間くらいは、コンクリートもなくなって、デコボコの土の上。たぶん、ご近所さんなんていないだろうな。田舎というレベルを超えてる。ここは、山だ。
イリカさんが車を停めた。建物が車のライトに照らされてる。想像してたよりも大きな建物。田舎の分校みたいだ。
「着いたよー」
「ありがとうございます」
わん太郎を車の中に乗せたまま外に出る。イリカさんもエンジンを止めて外に出てきた。車のライトが消えると、建物の玄関にある電灯がひとつだけ、暗闇に抵抗してる。その戦力差は圧倒的で、光が暗闇に飲み込まれてしまうんじゃないかって思える。空を見上げると、星が見えた。周りにある木のせいで、ぽっかりと開いた穴から覗いてるみたいな空。山にいるのに、なんだか地下深くに落とされた気分。
イリカさんのあとに続いて玄関へ向かってる途中で玄関のドアが開いた。中から二人出てきて、こっちへ歩いてくる。メガネをかけてる人と、かけてない人。二人とも女の人、かな。パジャマにカーディガンを羽織った感じの姿。外へ出て分かったけど、寒い。上着を着たくなってきた。
「お疲れさま。大丈夫?」メガネをかけてないほうの人が言った。
「うん、大丈夫」イリカさんが答える。「電話で話した、ツクモトさん」
イリカさんが僕のほうに手を向けたので、パジャマ姿の二人に自己紹介。
「ツクモトシロウです。初めまして」お辞儀。
「初めまして、イズミキヨミです」
「イズミキヨナです。よろしく」
二人とも笑顔でお辞儀を返してくれたけど、どうしよう、名前が区別できない……。
「あ、姉妹なんですか?」
「うん」メガネの人が答えた。「ごめんね、似たような名前で。覚えにくいでしょ?」
「いや、あの、実は、すいません、もう既にこんがらがってて……」
イズミさんたちが笑う。イリカさんも笑ってる。
「私がキヨ『ナ』。妹ね」
よし、メガネの人がキヨナさんか。妹さん。髪が長くて、メガネかけてるから分からなかったけど、言われてみれば、お姉さんよりも顔がだいぶ幼い。僕よりも年下だろうな。
「私はキヨ『ミ』です」
お姉さんのキヨミさん。妹さんと同じくらいの髪の長さだけど、メガネかけてなくて、大人な感じ。僕よりも年上かな。目鼻立ちがものすごくはっきりしてるから、余計大人びて見える。
「キヨミさんに、キヨナさん……」二人に手を向けながら最終確認。だけど、馴染むのに時間がかかりそう……。「すいません、ありがとうございました」
「わんちゃんは車?」お姉さんがイリカさんに訊いた。
「うん。ほんとごめんね、こんな遅くに」
「こっちは全然平気。それより、明日も仕事なんでしょ? 休めないなら、早く帰ったほうが良くない?」
「そだね。じゃあ――」
と、イリカさんが言ってる途中で、突然、玄関のドアが開いた。
「イリカぁ、キヨナぁ」
男の子が、泣きながら顔を出した。
本当に辛そうな泣き顔。
こっちの心まで締め付けられる。
妹さんが男の子に駆け寄って抱きしめた。
「また怖い夢見ちゃったか。怖かったね。大丈夫、大丈夫。もう大丈夫」男の子の頭を撫でながら、妹さんがこっちを振り返る。「イリカもいるよ。安心して」
「あ……」男の子は、こっちを見て、少し泣きやんだ。「ご、めん、な、さ……」
イリカさんが男の子のそばへ行く。
「大丈夫だよ。キヨナもキヨミもちゃんといるから、安心して」
男の子の頭を撫でるイリカさん。
「部屋に戻ろう」
妹さんはそう言って、男の子と一緒に建物の中へ入っていった。
「ごめんなさい、驚かせてしまって」お姉さんが僕に言った。
「いえ……。児童養護施設、なんですよね」
「はい。今の子は、最近ここで暮らすようになったばかりで。ここに来る前に受けていた虐待を、夢で見てしまうみたいなんです」
「そうですか……。本当に、辛そうでした……」
「はい……。私たちができることは、そばにいてあげることくらい……。自分の無力さを感じます」
「そんな、無力だなんて――」
「いえ、心の傷というものは、時間でしか治らないんです。どんな言葉も行動も、その傷をほんの少しのあいだ忘れさせることしかできません。傷自体を治すことはできないんです」
お姉さんの声はとても静かだった。
この森の静寂を全部背負ってるみたいだった。
「でも、無力だとしても、言葉と行動を尽くすことを諦めちゃいけない、でしょ?」
イリカさんが元気良く言った。
「その通り」お姉さんが笑顔で応える。
「そういう意味では、実は私、わん太郎にものすごく期待してるんだ」
「わんたろう?」
「あぁ、ごめん、犬の名前」イリカさんが車を指さす。
「わん太郎って、あなた、相変わらずのセンスね」
お姉さんが吹き出した。
「違う、私がつけたんじゃないよ、もう。シロウ君、その辺の説明お願い」
イリカさんは、ふてくされた様子で車のほうへ歩いていった。
ふてくされるイリカさんも可愛いなぁ……。
「犬って、言葉は喋れないけど、行動を尽くすでしょ? だから、もしかしたら子供たちにいい影響があるんじゃないかなって」
玄関の明かりの下。イリカさんが、わん太郎に首輪を付けながら言った。首輪といっても、布を帯状にしたのを首に巻きつけてるだけだけど。布は、お姉さんが持ってきてくれたのを使ってる。ちゃんとした首輪は、近いうちにお姉さんが買ってきてくれるらしい。
「そうね。わん太郎、賢そうだし、子供たちの大事な存在になってくれるかもね」お姉さんが言った。「わん太郎はもらっちゃっていいの?」
「うん。ごめんね、無理言っちゃって」
イリカさんが首輪を付け終わる。首輪を付けてる間、わん太郎が暴れないようにと思って僕が押さえてたけど、わん太郎が暴れる様子はまったくなかった。お姉さんの言うとおり、わん太郎、結構賢いかもしれない。やるな、わん太郎。
玄関のドアが開いて、妹さんが戻ってきた。
「寝たよ」妹さんが言う。お姉さんが頷く。
「それじゃあ、帰るね」イリカさんが言ったので、慌てて反応。
「あ、すいません、サアラちゃんに写真を送ってあげたいと思うんですけど、わん太郎とイズミさんたちが並んでる写真……」
「おー、いいね、サアラちゃん喜ぶね。ねぇ、写真撮ってもいい?」
「いいけど、やだー、パジャマよ」お姉さんが笑いながら答えた。
「ほんと。これでも一応女の子だよ」妹さんも笑ってる。
「すいません、ほんと急に来て、こんなお願いまで……」
「ほらほら、ちゃっちゃと撮って帰んないと」イリカさんも笑ってる。
イズミさんたちがわん太郎の両脇に立つ。
僕はポケットからデジカメを取り出して、設定をいじくり、少し離れてレンズを向ける。
「はい、撮りまーす」
フラッシュ。
「はい、ありがとうございました」
「ツクモトさんとイリカも撮ったら? 撮ってあげる」お姉さんが言った。
「んー、じゃあ撮ってもらっちゃおうか」
イリカさんがこっちを見たので、はい、と返事をして、お姉さんにデジカメを渡す。
イリカさんとツーショット! やった!
まぁ実際は、ツーショット、プラスワンだけど、わん太郎のおかげで写真が撮れるんだから不満は無い。むしろ、最高級ビーフジャーキーをあげながら撫で回したいくらいだ。
イリカさんと二人で、わん太郎の両脇に立つ。
「じゃあ撮るよー」お姉さんがカメラを構える。
フラッシュ。
「うん、撮れた。どう?」
「ありがとうございます」お姉さんからデジカメを受け取って、画面を見る。「バッチリです」
「写真のデータって、今もらえる?」隣にいた妹さんが言った。
「あ、はい。パソコンとかあります?」
「うん、家の中に。お願いできる?」
「はい」
「じゃあシロウ君、ちょっと連れてくよ」
妹さんがイリカさんに言った。
妹さんってすごいフレンドリーだな。喋り方もそうだけど、初対面で下の名前を呼ばれたのは、イリカさんに続いて人生二人目。類は友を呼ぶってやつか。
妹さんと二人で建物の中を歩く。廊下に明かりは無くて、妹さんの持ってる懐中電灯だけが進む先を照らしてる。
建物の中は、外観通り、学校みたい。たぶん、廃校になった建物を再利用してるんだろな。訊こうと思ったけど、子供たちを起こしちゃうかもしれないので、黙って歩く。
廊下の突き当たりにある部屋に入った。宿直室みたいにこぢんまりした部屋。二つの机の上にノートパソコンが一台ずつ乗ってる。
「じゃあ、SDカード貸してもらっていい?」
「はい」
デジカメからSDカードを取り出して、妹さんに渡した。妹さんはノートパソコンにSDカードを挿し、マウスを動かす。
「お、写真いっぱい。全部今日撮ったの?」
「はい」
「警察の悪事を暴くんだってね。イリカから聞いてるよ。大変そうだね」
「あ……はい」
「大丈夫だよ。誰かに喋ったりしないから。イリカとは家族みたいなもんなんだ」
「そう、なんですか」
「うん。イリカから聞いてない?」
「そう、ですね……そういう話は、したことないかもしれません」
妹さんはマウスをカチカチ。
そういえば、僕はイリカさんのプライベートなことを全然知らない。訊いたこともない。そういうこと、あまり気にならないから。でも、今の妹さんの話し方を聞いて、少し気になってしまった。今度聞いてみようかな。
妹さんがSDカードを引っこ抜いて、僕に差し出す。
「イリカを、大切にしてあげてね」
まったく脈絡の無い言葉に戸惑いながら、SDカードを受け取る。
「たい、せつ……?」
妹さんは僕を見つめ続ける。
その視線を真正面から受け止める。
とても柔らかな表情。
喜んでるように見える。
悲しんでるように見える。
怒ってるように見える。
祈ってるように見える。
もしかしたら、神様はこんな表情をしてるのかもしれない。
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