整備(2)

 ドアをノックする右手が一瞬躊躇した。この部屋に入る時はいつもこうだ。無意識に体が拒否する。

 ドアを二回叩く。

 「失礼致します」

 いつも通り、返事は無い。

 五秒ほど待ってからドアを開けた。

 「失礼致します」

 同じ言葉を繰り返しながら部屋に入る。

 真正面の机に父がいる。机はこちらを向いているが、いつも通り、父が私を見ることはない。

 机の前にある応接ソファーの横まで進み、父に話しかける。

 「ただいま戻りました」

 「あぁ」

 父は、PCのディスプレイを見ながら、無表情で、ほとんど聞き取れない大きさの声で応えた。

 「怪我の回復が思わしくないため、一週間ほど休暇を頂きました。療養中は、こちらで過ごさせて頂きたいと考えております。よろしいでしょうか?」

 「勝手にしろ」

 「……有難うございます。失礼致しました」

 頭を下げ、即座に部屋を出る。早く部屋から出ていけ、という父の声が聞こえてきそうだった。

 ドアを閉め、少し多めに息を吐いた。

 自分の部屋へ戻る途中、後ろから足音が聞こえてきた。走ってくる足音。この家の住人で、廊下を走るのは一人だけだ。

 後ろを振り向く。

 「お兄様!」

 廊下を曲がって現れたサアラが、こちらへ走って来る。満面の笑みだ。そのまま私の足にしがみ付いた。

 「お帰りなさいませ」

 「ただいま。元気だった?」

 サアラの頭を撫でながら言うと、サアラは足にしがみ付いたまま顔を上げる。

 「はい。元気で過ごしておりました」

 「そうか。良かった」

 言いながらサアラの顔を見る。目が少し赤い。まつ毛も濡れているようだ。

 「泣いた?」

 私が訊くと、サアラは僅かに表情をこわばらせて俯き、しがみ付く力を強くした。

 そのままサアラの頭を撫でていると、ヒラタさんが廊下を曲がって現れた。

 「お帰りなさいませ」ヒラタさんが頭を下げる。

 「ただいま。サアラ、どうしたんですか?」

 「どう、と仰いますと?」

 「いや、なんだか泣いたようで」

 「はい……実は先程、家を抜け出されまして、少々強く指導させて頂きました。私の不行き届きでもあります。申し訳ありません」再びヒラタさんが頭を下げる。

 「そうでしたか……」

 サアラは俯いたまま、ずっと私の足にしがみ付いている。動く様子がないので、話しかける。

 「勉強、イヤになった?」

 「……また、お兄様と遊びたいです」

 「そうだね、サアラはもっと遊んだほうがいいと思う」

 「では是非ご一緒に遊んでください!」サアラが勢いよく顔を上げた。とても寂しそうな表情だ。

 「……ヒラタさん、少しだけでも、空いた時間作れないでしょうか?」

 「申し訳ありませんが、私にそのような裁量は与えられておりません。ヨシヒロ様の御決定がなければ、どうすることもできません」

 「そうですよね……」

 ヒラタさんの立場は充分に理解している。それにも関わらずヒラタさんにお願いしてしまったのは、私の弱さだ。父への畏怖が原因の、私の弱さ。そんな自分を感じる度に、情けなくなる。

 「よし、じゃあ、お父様に頼んでくる」

 サアラの頭をポンポンと叩きながら言うと、サアラの表情が一気に明るくなった。

 「本当ですか? では、わん太郎も一緒にお願いします!」

 「ん? わんたろー?」

 「はい、友達です!」

 サアラが『友達』という言葉を使うのは、とても意外で、新鮮だった。同時に、とても嬉しくなった。

 「友達できたの?」

 「はい、先ほど公園で友達になりました」とても嬉しそうにサアラが話す。

 「そうか、良かったね」自分が破顔しているのが分かる。「わんたろー、って名前なの?」

 「そうです」

 「アキヒロ様」ヒラタさんが会話を遮る。「わん太郎というのは、犬で御座います」

 「いぬ? いぬって、え、あのワンって鳴く?」

 「はい。野良犬で御座います」

 「犬と友達になったの?」

 サアラに訊くと、サアラは笑顔で頷いた。

 「それで、えっと、その、わん太郎を飼うの?」

 「友達に対して、飼うという言葉は失礼です」サアラが怒った。

 「あ、ごめん」

 ヒラタさんは、私とサアラのやり取りに干渉せず、胸ポケットから名刺のようなものを取り出した。

 「この方が引き取ってくださいました」

 ヒラタさんから名刺を受け取る。

 「へぇ、王都放送……。この人が飼――じゃなくて、わん太郎と一緒に暮らしてくれるんだ?」

 「はい」サアラが笑顔で答えた。

 「いえ」ヒラタさんが淡々と否定した。「その方は、そこまでの断言をしておりません。その方へ連絡すれば、犬の状況を教えてくださるとのことです」

 「なるほど」

 「……ひとつ、アキヒロ様に相談したいことが御座います」

 驚いた。

 ヒラタさんが使用人になってから七年間、相談されたことなど一度も無い。誰かに頼る、という人物ではないのだ。先程サアラが言った『友達』という言葉もそうだが、今日は驚くことが多い。二人に何かあったのだろうか?

 ヒラタさんが淡々と言葉を続ける。

 「サアラ様が王都放送の方と連絡をお取りになるためには、ヨシヒロ様の御許可を頂かなければなりません。しかし、アキヒロ様なら御理解頂けると思いますが、ヨシヒロ様の御許可を頂けない可能性が高い」

 ヒラタさんの言葉に、サアラの表情が曇る。

 「……そうですね」

 「そこで、ヨシヒロ様の御許可が頂けない場合の相談をさせてください」

 「はい、もちろん。協力できることがあれば何でもします」

 「有難う御座います」ヒラタさんが深々と頭を下げる。「使用人に過ぎない私の立場をわきまえない発言、どうかお許し下さい」

 「いや、そんな、頭を上げてください。相談って、どんなことですか?」

 「はい……」ヒラタさんがゆっくりと姿勢を戻す。「ヨシヒロ様に御許可頂けなかった場合、王都放送の方へ御連絡して頂けないでしょうか?」

 「えっと、わん太郎の状況を訊けばいいのですか?」

 「お願いできますでしょうか? その状況を私にお伝え下されば、サアラ様にも伝えることができます。勿論、御負担になるようでしたら、直ちにおやめ下さい」

 「分かりました。ぜひ協力させてください」

 「有難う御座います。感謝の仕様がありません」再び深々と頭を下げる。

 「……それじゃあ、お父様に話してきます。サアラはもう寝な」サアラの頭をポンポンと叩く。

 「はい」サアラが元気良く返事をした。


 父に直訴するのは二年ぶりだ。二年前の直訴も、サアラに関することだった。今回も、ほんの少しでいいから認めてもらえるだろうか。

 右手に、いつもより力を込めて、ドアをノックした。

 先程と全く同じように部屋に入り、机の前にある応接ソファーの横に立った。相変わらずPCのディスプレイを見続けている父に話しかける。

 「今、サアラと会いました。家を抜け出したそうですね」

 父の様子に変化は無い。そのまま話を続ける。

 「やはり、八歳の子供に、あの勉強量は過負荷だと思います。いえ、大人でも、あのような勉強量は耐えられないでしょう。私の頃よりも多くなっているのではないですか?」

 父は何も応えない。

 「二年前よりも、その気持ちは大きくなっています。再びお願い申し上げます。どうか、サアラに自由な時間を与えてやって下さい。このままではサアラが壊れてしまうかもしれません」

 何も応えない。

 「……サアラに友達ができたそうです、家を抜け出した時に。あんなに嬉しそうに自分のことを話しているサアラを初めて見ました。どのような友達か御存知ですか? 犬です。野良犬です。サアラにとって、犬は友達なのです。優しい子供、と言えば聞こえは良いですが、野良犬を友達にしなければならないサアラの精神状態に目を向けるべきです。これは非常に大きな問題です」

 何も。

 「……その犬ですが、今、王都放送の方が保護なさっているそうです。サアラは、その方と連絡を取りたがっています。友達の様子を知りたがっています。どうか、サアラがその方に連絡を取ることを許可して下さらないでしょうか?」

 「……」

 「御返事頂けないのであれば、私の独断で許可を出させて頂きますが、よろしいでしょうか?」

 「お前はこの家の人間ではない」

 「お父様の息子です」

 「笑わせるな。親の言うことひとつ聞けない奴が。言うことが済んだら、さっさと出ていけ」

 「許可は頂けるのでしょうか?」

 「勝手にしろ。勉強時間は減らさん」

 「有難う御座います」

 深く一礼してから、足早に部屋を出た。

 サアラの勉強時間を減らすことはできなかった。しかし、サアラが王都放送の人と連絡を取る許可をもらえた。許可をもらえない可能性のほうが大きいと考えていたが、説得が効いたのか。もしかしたら父も、心のどこかでは、今のサアラの状況を良くないと思っているのかもしれない。

 明日からは休みだ。念のため、明日はまず私が王都放送の人に連絡しておこう。

 携帯電話に連絡先を登録するため、ポケットから携帯電話と名刺を取り出した。その瞬間、携帯電話が震える。職場から着信だ。

 まだ0時ではない。休日ではない。0時まではきっちり働けということか。

 頭の傷も治っていないのだが……。

 少し多めに息を吸い込み、電話に出る。

 「はい、リュウガイです」

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