第15話 愛する女とつき合って男としての自信がつくと他の女で試してしまう

 次の日、敬子が目を覚ますと、正志はいびきをかいて寝ていた。時間は十一時。まだ早い。

 いつものようにもぐり込んで行こうかと思った瞬間、昨夜のことが思い出され、布団をかぶってもう一度寝た。二度目に目覚ましの音で起こされたのは、午後五時だった。正志は仕事に出た後で、いなかった。目覚ましは正志がかけてくれたのだった。敬子は大急ぎで身支度をし、店に出た。

 終礼が早く終わったので、その日はいつもより早く家に帰った。

 部屋の扉に鍵を差し込もうとすると、扉は内側から開いた。

 正志だった。

「ああ、ビックリした。どこ行くの?」

「あ、ああ……」彼は目を逸らせた。肩に、バッグの太いベルトが食い込んでいる。

 それは旅行用のバッグだった。

 やはりそういうことか……

「どうして?」と敬子。

 正志は、敬子の体を押しのけて外に出た。

「待ってよ」

 正志は廊下を歩いて行った。敬子は追った。

「待ちなさいよ!」

 敬子は、彼のバッグを鷲づかみにして引き止めた。「待ってったら!」

 彼は敬子に背中を向けたまま、ずんずん歩いて行く。

「どういうことか説明しなさいよ!」

 エレベーターの前で止まった正志の前に回り、敬子は、彼のズボンのベルトを握った。それを見て彼は、バカにしたように笑ったが、敬子は構わなかった。

「行かさないからね」

「勝手にしろ」彼はそのままエレベーターに乗り込んだ。

 敬子はベルトをつかんだまま、正志に押されて、後ろ歩きで一緒に入った。

 一階に着くまでの間、彼女は正志の顔を睨みつけたが、彼は顎を突き出して上を向いていた。

 一階に着くと、正志は言った。

「じゃまだからどけよ」

「じゃまなの? ……ねえ、じゃまなの? ねえ、いつから? いつからじゃまなの?」

 敬子はベルトを離さなかった。それでも正志はエレベーターを出て、ゆっくりと玄関に向かった。敬子は後ろ歩きで一緒に歩いたが、転びそうになり、手を離した。

 駐車場に置いたドゥカティのそばまで来ると、正志はバッグとヘルメットを地面に置き、バイクのカバーを取った。

 敬子は素早く、置いたヘルメット取り上げ、胸に抱いた。ヘルメットなしではバイクに乗れない。隙があればキーも取ってしまおうと思った。

 正志は取りかえそうとしたが、すぐにあきらめた。

「メットなしだって、乗れるからな」そう言うと、キーを差し込んだ。「どうせお前のだろ、それ……返すよ」

 敬子の頭がカッと熱くなった。

「そのバイクだって、私のじゃない」

「金は払うよ、後で。あと、お前が買った物は全部置いてあるからな。これもな」正志はすり切れた革ジャンの襟をつまんだ。

 古い方を着ている理由が、今わかった。

 彼はバックシートに荷物を括りつけ始めた。

「待ってよ……」敬子は微笑んだ。こんな時になんで笑ってるんだろう、と思った。「行かないでよ」

 正志は手を止め、振り向いた。

 敬子は、抱えていたヘルメットを足元に落とした。カン、と乾いた音がして、どこかに転がっていった。

「このまま行かれたんじゃ、わたし、立ち直れないよ」

 正志は驚いた顔になった。

「だいじょうぶだよ、お前なら」

「だいじょうぶなわけないよ。このまま行かれたんじゃ、わたし、ただのクズじゃない」

「クズ……?」正志の目が優しくなる。

 敬子の胸が痺れた。……わたしが欲しいのはこれだけなのに、どうして叶わないのだろう?

「クズじゃないよ、おまえは」と正志。「おまえは……とにかく……いいものがあるよ」

 敬子は、眉をひそめて彼を見た。

「おまえは」彼は続けた。「オレが、一緒に暮らしたいと思う、たった一人の相手だよ。今でもそうだ」

「今でも? じゃあどうして行こうとするのよ?」

「そういうことじゃないんだ……。おまえのことは、今でも一番だよ。その証拠に、オレは、これから誰かと暮らすわけじゃないからな。これだけは言っとくけどな、しばらくひとりでやる。もちろん、もっと先はわからないけど……。でも今は、誰のところに行くわけでもないからな。お前を捨てて、誰かのところに行くわけじゃないんだからな」

「その方がもっと悪いよ」と敬子。「誰かに取られた方がまだマシだよ。誰もいないのに、それでも出て行くってことは、ただ捨てるってことじゃない」

「バカか? おまえには捨てるとか、捨てられるっていうのしかないのか?」

「そうよ、バカよ。バカで悪かったわね。バカが嫌いなら、嫌いって、はっきり言えばいいじゃない」

「だからそうじゃないって……」

「どこが違うのよ? わたしのこと嫌いだから、他に遊びに行くんでしょう? 隠れてバイク売って、お金まで作って」

「おまえには……」

 正志はそう言いかけて、敬子に背を向け、荷物を縛り直した。バイクを後ろ向きに押し、駐車場の出口に向けた。スタンドを立ててバイクから離れ、コンクリートに転がったヘルメットを取った。それを持ってバイクにまたがり、敬子に向かって「じゃあな」と言った。

 敬子はもうあきらめていたが、二三歩進み出た。

 正志はエンジンをかけた。バイクは憎らしい音を立て始めた。正志はヘルメットをかぶろうとした手を止め、エンジンをそのままにしてバイクを降り、敬子のところに来た。

「今まで、ありがとう、な。おまえはずっと、オレに、自信をくれてた。モノなんかどうでもよかったんだ。おまえといるだけで安心できたし、何でもやれるっていう気になった。それで……他の女にも試してみたくなっただけなんだ。オレの……何ていうか、自信をさ、試してみたくなったっていうか……。浮気っていうのとは絶対に違うぞ。でもな、早い話、おまえがいると、他の女と遊びたくなるのは確かなんだ。こんなんで、うまくいくわけないだろ、オレたち」

 敬子は口をポカンと開けた。

 彼はバイクにまたがってヘルメットとグローブを着け、二、三度エンジンを吹かすと、敬子の方を向いた。

 フルフェイスのヘルメットの下の表情はわからない。

 彼はバイクを発進させた。

 敬子は、内臓のひとつが抜き取られていくように感じた。

 彼は駐車場の出口で一時停止し、ウインカーを出す。

 事故にでも会えばいいのに、と敬子は思う。

 バイクは、エンジン音を響かせて車の流れに入った。

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