第13話 愛する女とつき合って男としての自信がつくと

 木村の彼女から話を聞いた夜、敬子は朝まで飲み続け、自宅マンションに帰ったのは朝の八時過ぎだった。

 マンションの駐車場に、オレンジのドゥカティはあった。建物の玄関を入り、いつもの習慣でポストを開けると、ピンクチラシが一枚入っていた。敬子はそれを取り、媚びた笑いを浮かべた下着姿の女の写真に向かって、ペッ、と唾を吐きかけた。それをゴミ箱に捨てると、エレベーターに乗った。頭がぐらぐらする。まだ酔いが残っている。

 バッグの中の鍵を探しながら、部屋には正志がいる、と思った。寝ているだろうか? まさか起きているだろうか? 今日は初めて、無断で朝帰りだ。ひょっとして、玄関で待ち構えていて、私を叱るのではないか? 怒鳴った後、淋しそうな顔をして「俺には敬子しかいないんだ」などと言ってくれるのではないか? 「俺は一生、おまえ一人だ」と言うのではないか?

 胸に甘い痛みが走った。……そんなはずない。

 扉の前に来た敬子は、入らずにどこかに行ってしまいたくなった。扉の向こうには息苦しい空間がある。正志の体臭に満ちた空間。うっとうしくてたまらない、だけど、好き。だけど耐えられない。今ではいろんなことが、ゴチャゴチャになり過ぎてしまった。いつか解決するのだろうか? ……解決? だいたい何を解決すればいいというのか?

 鍵をそっと差し込み、音をさせないように扉を開け、体を滑り込ませると、スウェットを着た正志が奥から出て来た。

「起きてたの?」

「どうしたんだよ? 何かあったのか?」と正志。

「ううん、別に。店のね、新しく入った女の子と、ちょっと飲んで来たの」

「なら電話しろよ。ずっと待ってなきゃいけないだろ」

「寝ててもよかったのに」

「おまえ、遅くなる時は連絡取り合おうって、約束したろ」

「そりゃ言ったけど……ねえ、それって、私たちにとって、大事なこと?」 

 敬子はそう言った後、正志の表情の変化を見逃さないようにした。

「決まってんだろ、オレたち、一緒に暮らしてんだぜ」

「じゃあ、嘘の電話でもいいの?」

 正志はポカンとしている。

「何が言いたいんだよ?」

「嘘の電話でも、電話すればそれでいいの?」

「オレは嘘の電話なんかしてねえよ」

「嘘!」敬子は一気に続けた。「早上がりの日に、忙しくて上がれないとか言って、他のキャバクラに行ってたでしょ」

「行ってねえよ」正志の視線がふらついた。

「本当に?」

「だから行ってねえよ」

 敬子は信じたかった。

「一度も?」

「だから……」彼は小さく舌打ちし、「お前とつきあう前は別だろぅ? その後は、一度も行ってねえよ」と言って、真剣な眼差しで敬子を見つめた。

 ……お願いだからそんなふうに見ないで。全部嘘だと分かってるんだから。

「めぐみっていう娘と今日話して来たのよ。顔も体も小さい、八重歯のある娘。知ってるでしょ?」

 正志は一瞬ひるんだ。

「他にもあっちこっちの店に行ってるんだって? 寝た娘も何人かいるって、言ってたよ」かまをかけた。

 正志は、顎を持ち上げた。が、否定はしない。

「どうして?」と敬子。「どうしてなの? だいたいそんなお金、どこから出たのよ?」

「いいじゃないか、キャバクラのひとつやふたつ、行ったって」

「そんなこと聞いてない。どうしてそんなお金があるの?」

「オレだって、貯金くらいある」

「ううん、ない」預金通帳は前に調べてあった。

「……バイク売った金だよ」

「バイク? ……古いやつ?」

 彼はうなずいた。

「廃車にしたって言ってたじゃない」

「知り合いに売ったんだよ」

「いくらで?」

「いくらだっていいだろ」

 敬子は悲しくなった。そんな小細工をして金を作ってまで、正志は女遊びがしたかったのか?

「ちょっとぉ……バカにしないでよね。あたしを何だと思ってるの?」

 彼は平然としている。

「ひょっとして、都合のいい資金源だとでも、思っているでしょう、え? 他には何を売ったのよ? 財布は、時計は、え?どうなのよ?」

「何も売ってねえよ」

「私のお金で女遊びして、どういう気持よ? どう? 面白かった?」

「売ったのはオレのバイクだろ」

 ……バカ。私がドゥカティを買ってやったから、オマエのバイクがいらなくなったんだろ、そんな簡単な理屈もわかんないのか。「そんっなにしてまで、女の子のいるところに行きたいの? 私じゃ何か不満だっていうの?」

 そう言って、敬子はヒヤリとした。そうだ、と言われたらどうすればいいのか。

「おまえに不満なんかないよ」

 敬子が黙っていると、

「敬子は、今のままで充分だよ」と正志。

「うそ……この際だから、はっきりさせようよ。隠してないで何でも言いなよ。私の何が不足なのよ? 色気がないこと? 家であぐらかくから? セックスが上手じゃないってこと? 他の娘はもっと上手なの? ねえ? 他の娘はどうだったの? もっとよかったの?」

「おまえ、何でそういうふうにしか考えられないんだ?」正志は顔をしかめた。

「答えて」

「おまえは今のままで充分だよ。オレは、今の敬子が好きだ」

 敬子の膝から力が抜けた。それさえ聞ければあとはどうでもいい、という気になった。だが、騙されてはいけない。

「証拠は?」

「証拠ぉ?」

 長い沈黙の後、

「オレ」と正志は言った。「オレ、ちょっと考えるワ」

「考える……って、何を?」

 正志は答えず、冷たい目で敬子を見下ろす。

「何を考えるのよ? ……別れること? 別れたいの?」言わなきゃよかったと思った。言ってしまえば、それだけ現実に近くなっていく。

「とにかく……、考えるワ」

「どういうこと?」

「寝るから」正志はぷいと後ろを向いて、奥の部屋へ戻った。

「何よ」敬子はカラ笑いした。「全然わかんない」

 敬子が後から入って行くと、彼は布団に入って背中を向けていた。敬子はしばらく見ていたが、あきらめてバッグを置き、洗面所へ行って化粧を落とした。そのまま服を脱ぎ、シャワーを浴びた。

 正志は、何を考えると言っているのだろう?

 シャワーから出て体を拭いていると、バスルームの外で物音がした。慌ててバスタオルを巻きつけ、出てみると、玄関に、ジーパンに革ジャンを着込んだ正志がいた。下駄箱の上にはヘルメットとグローブが置いてあった。

「どこ行くの?」

 正志はヘルメットとグローブを取ると、扉を開けた。「友だちんとこ行って来る。言っとくけど、そいつ、男だからな」

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