第10話 愛する女と
「ドカ……何ていったっけ? ドカなんとかっていうバイク」
二人は渋谷の喫茶店にいた。
先週、DVDコンポを買った後、正志はそれを一週間近く、子供のようにいじりまわしてはしゃいでいたが、もう効力が切れていた。
「ドカなんとか? ああ……ドゥカティか」
「それって、高いの?」
正志は眉をひそめた。だが、口のあたりに表れた期待は隠し切れていなかった。
「まあ、二百万くらいだけどな」彼は、自分のタバコの煙に目をしばたせた。
「それ、買ったら、私も乗せてくれる?」
「くれる……って、今でも乗せてるだろ」
彼の鼻の根元がヒクヒク動いた。欲を出すと正志はこうなる。最近わかってきた。
「そのドゥーカティーっていうのにも、乗せてくれる?」
「基本的にはひとりで乗るバイクだから、乗り心地良くないぜ」
「そうなの……」
じゃあ買ってあげない、って言ったらどうするだろう?
敬子はわざと話をそこで終わらせた。
正志は顔を洗うように両手でこすり、睫毛の長い瞼をぱっちりと開けて喫茶店の中を見回した。頭の中では、バイクのことを考えているにちがいない。
「そんな金、あるのかよ?」と正志。
食いついて来た。「え?」敬子は一瞬とぼけてやろうと思ったが、それでこじれるのもいやだった。「……余裕ってわけじゃないけどさ」こっちに痛手がないと思わせるのはよくない。
「そうか」ぼそりと言って、彼は、火をつけたばかりのタバコを灰皿に押しつけて消し、黙り込んだ。
何も言ってこない。
「欲しい?」と敬子。
彼は薄笑いを浮かべ、
「何たくらんでんだよ?」
と、おだやかに言った。
「何もたくらんでなんか、いないわよ」
「じゃあ何で、急に、俺に物買い与えるようになった?」
「物、買い与える?」敬子の気持は沈んだ「何よ、その言い方。今まで、そんなふうに思ってたの?」涙が出て来た。
「嬉しくないことないさ」正志は慌てて言った。
「じゃあ何で買い与えるなんて言うのよ」
「なんで、って……お前のやりかたは、そういう気にさせるやり方だからだよ」
さんざんもらっておいて何を言う。「どこがよ?」
「どこがって……まあいいよ。もういいよ、そんなことはどうでも」
「そんなふうに思ってたの?」
「もういいよ、それはどうでも」
敬子はバッグからティッシュを出して、涙を拭いた。
「ねえ……映画見に行かない?」
ドゥカティを買った。二百三十万円には悩んだが、結局、敬子は、二百万あった自分の貯金のうち百万をくずして頭金にし、残りは月々十万のローンにした。
新しいバイクは、オレンジ色のガソリンタンクの形が少し変っていた。後ろに乗せてもらうと、今までより重たいエンジンの振動が、敬子の尻に伝わった。正志に突かれている時の感じを思い出した。
正志は人が変わったようにいきいきとし始めた。敬子とここで暮らし始めた時によく見せた、口元が少し微笑んでいるような顔に戻った。それは、敬子が一番好きな顔だった。
不満があるとすれは、正志が新しいバイクに入れこみすぎることだった。時間さえあれば、明け方までバイクをいじっていて、その間敬子は部屋でひとりにされる。あっちがうまくいけばこっちが……まったくなかなかうまくはいかない、と敬子は思ったが、バイクの二百三十万円は満足できる買い物だった。
洗濯した正志のTシャツを干していると、敬子の携帯が鳴った。
店の客だろうと思って出たが、女の声だった。
相手はあらたまった口調で「茜さんですか?」と言った。
源氏名を呼ぶということは、やはり店の関係者にちがいない。
「はい、そうですが」
「大久保正志さん、他の店でいろんな子に手を出してますよ」
「失礼ですがどちら様ですか?」
「お店のウエイターなんかと仲良くしてるより、自分の彼をちゃんと見ておいたらどうですか」
「どういうことでしょう?」敬子はていねいな口調を崩さずに言った。ここで取り乱したら負けだ。
「相手かまわず誰でもっていうのは、最低ですね」
相手がこちらの言うことを聞かずに、自分だけで喋っているのが頭にきた。一呼吸置いてから、「あんたねぇ、何だかしらないけど……」
相手は電話を切った。
「切」ボタンを押した敬子は、着信番号を調べたが表示されなかった。
私が店のウェイターと仲良くしている? 一体、誰としてるっていうのよ。……それに、正志が他の店の子とどうにかなってるって? そんなこと言ってくるあんたこそ……正志と何かあったんじゃないの?
そう考えた敬子の頭のなかに、一瞬のうちに図式が組み上がった。その女と正志が寝た。それで女がここに電話をかけて来た。自分の存在を知らせるためにだ。他人の男をとったことが、誇らしいのだ。
だいたい、誰なのよ?
三月になって、アルバイトの子がどっと入店して来た。その子たちの顔を思い浮かべようとしたが、全員は無理だった。だが、あの声は知っている。
それにしても、うちの店の子が、別の店で働いている正志とどうやって知り合ったのか?
ようし……絶対探し出して、白黒はっきりさせてやる。新入りの分際で、私に直接電話かけてくるなんて、上等じゃないよ。
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