第8話 磁石のプラスとマイナスは永遠に一体
次の週、二人で銀座のティファニーに行き、小さなダイヤをあしらったリボン形のリングを買った。値段は三十万円だった。
正志の給料ではキツイことを、敬子はわかっていた。ボーイの給料は、ホステスの三分の一以下だ。貯金はおそらくパアだろう。ひょっとしたら、少しは借りたのかもしれない。だが、敬子にはそれが嬉しかった。それに、貯金がなくなるということは、テレクラやキャバクラで遊ぶお金もなるなるということだから、好都合だった。
数日の間、敬子は指輪を見ると幸せになった。正志と離れていても、指輪のリボンでいつでも結ばれている気がした。
二、三日して指輪を見飽きると、正志の態度が以前とは変わっているのに気がついた。指輪を買った後、何かが変だった。二人で言い争うようなことがなくなったのはいいことだが、それは、正志が敬子に対して前より無関心になっているからだった。言葉で突っかかってくるようなこともなくなった。敬子が小さな頼み事をすると、今までのように面倒臭がることはなく、しらけたような顔でさっさと用事を済ませてしまう。それが、敬子には気持悪かった。
ある晩、出勤途中の電車の中で、敬子は溜め息をついた。
……変なふうにこじれちゃったな。指輪を買ってもらった時は、これで収まった、と思ったのに、あとから正志がこんなふうになるなんて……思ってもみなかった。やっぱり三十万は高すぎたのか? 私なら、どうってことないけど、正志には負担だったのだろう。
店の暇な時間に、従業員用の非常階段に行ってみると、いつものように、蝶ネクタイをした木村が、踊り場の手すりに寄りかかってタバコを吸っていた。ビルの隙間から、餃子の油の匂いが吹き上がっていた。
「あ、いたいた」と敬子。
ぼんやりしていた木村君は、気づいて敬子の方を向いた。「お、いちゃまずいっスか?」
「ちょっと私も、一服していい?」
「どうぞどうぞ」彼は横にずれて場所を空けた。
敬子は自分のタバコを控え室に置いて来たことに気づいた。「ね、一本くれない」木村と並んで、手すりに寄りかかった。
彼のワイシャツの肩は、敬子の目の高さくらいで、正志よりずっと低かった。
彼は自分のタバコを一本振り出して敬子に抜き取らせると、ジッポのライターで火をつけた。正志もジッポを持っていたはずだが、今は小物入れの中で眠っていた。
「どうかしたんスか?」と木村。
「えっ、そんなふうに見える?」
「こ、このまえの、テレクラの……続きっスか?」彼は吃りながら言った。
「ああ、あれはどうもありがとう。助かった」
「結局、どうなったんスか? いや、聞いちゃいけない、かな」
「うん、あれはもういいんだ。けりついたから」
「そうっスか」彼はまだ何か聞きたそうだった。
敬子は区切りをつけるように、タバコを大きく吸った。
「ねえ、ひとつ聞いていい?」
「え、別にいいスけど」
「木村君、彼女にプレゼントあげる?」
「プレゼント……ですか?」
「ほら、男は釣った魚にえさはやらない、っていうじゃない?」
「はあ……僕の場合、針にもかかってないっスから……」
敬子は少し考え、彼女がいないと言いたいのだ、と分かった。
「ねえ、あんまり高いプレゼントをねだる女って、嫌いになる?」
「ソレのこと、っスか?」彼は敬子の左手の指輪を指した。「高いって、程度にもよりますよ。どのくらいを高いっていうんスかね」
「木村君ならどのくらい?」
「オレですか? オレは……大学生だし、金ないスから……前に五万円のバッグ、買わされそうになったこと、ありましたけどね」
「買ってあげなかったの?」
「冗談じゃないっスよ」彼は吸いかけたタバコを指で挟んだまま、手を左右に大きく振った。
「どうして?」
「どうしてって、そんな金ないっスよ。それに、そんなに価値のある女じゃなかったですから」真面目な口調になった。その女のことを思い出したようだった。「結局モノが欲しいだけの、それだけの女に、身銭切ってもしょうがないでしょう」
本当は買わされたんだな、と敬子は感じた。
「茜さんはいいじゃないっスか、それ、買ってもらったんスから。彼にとって価値がある、ってことですよ」
敬子は左手を上げ、銀のリボンを見つめた。
「その女の子、木村君にとっては価値がなかったってこと?」
「なかった、っスね」
「価値ってなあに? 体?」
彼はふいを突かれ、精悍な顔を崩してニヤニヤ笑った。
「体もあるけど、それだけじゃないっスよ」
「でも、体がほとんどじゃないの?」
「まさかぁ」彼は目を見開き、兄が妹を見るように敬子を見た。「中にはそういう男もいるとは思いますけど」
正志はどうなのだろう?
「じゃあ、体以外に何があるのよ?」
「何って言われるとなぁ」
「ほら、やっぱり体なんじゃない」
「ちがいますよ」木村君ははっきり言うと、タバコを一口吸い、暗い空中を仰いだ。
隣のビルの換気扇がカタカタと鳴っていた。
敬子は、木村の昔の彼女が羨ましくなった。
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