第6話 ただ一緒に居るだけで男に自信を植え付ける生まれながらのいい女

 玄関で物音がしたので、敬子は小さく飛び上がった。廊下に出ると、玄関で正志が靴を脱いでいた。

「おかえり」敬子は小さく言った。

 正志はそれを無視して部屋に入り、革ジャンとセーターと綿のシャツを脱ぎ、クローゼットを開けて新しいシャツを取り出した。裸の背中を見て、敬子はむしゃぶりつきたくなった。彼は青いシャツをはおり、姿見の前に立って、まるで敬子がその場にいないかのように、落ち着いてボタンをとめた。

「どこ行ってたの?」と敬子。つい責めるような口調になる。

 正志は黙ってボタンを留め続ける。

「これから仕事?」バカなことを聞いている、と思った。仕事に決まっている。

 正志の唇に、軽蔑の笑いが浮かんだ。敬子は、反応してくれたことがうれしかった。

 髪をなでつけた正志は、革ジャンをはおって玄関に向かう。敬子は、部屋の出口に立ちふさがった。彼は、目で「どけよ」と言った。が、敬子は動かない。だが、正志も動かない。敬子が動かないかぎり、彼は何千年でもそこに立っている気だろう。

 敬子は横によけた。正志は肩で敬子を押しのけて玄関に行き、下駄箱から皮のブーツを出して履き、ヘルメットとグローブを取った。

 敬子は何か言いたかったが、言葉が出てこない。

「正志!」

 やっとの思いで声を出した時、バタンと扉が閉まり、彼はいなくなった。


 その日、正志は、いつもの時間に仕事から帰った。明け方に、敬子の布団にもぐり込んで来たので、敬子は受け入れた。

 終わった後で正志の裸の胸に耳を当ててじっとしていると、胸騒ぎがした。敬子は急いで顔を起こし、彼の表情をうかがった。目をつむっている顔からは、何を考えているのか分からない。おそらく、敬子のことではないだろう、と思った。

 それから二人の生活は、何事もなかったように元に戻った。敬子は、ピンクチラシとカードのことに二度と触れなかった。だが、財布だけは機会を見つけて覗き見た。中からは何も出てこなかったが、それは何の保証にもならなかった。

 やがて敬子は、正志が自分以外の女を求める理由を考え始めた。

 私というものがありながら、ほかに何を求めているのか?

 答えは見つからなかったが、ただ一つ確かなことがあった。

 ……わたしじゃダメなんだ。わたしじゃ満足できないんだ。それだけは言える。ナイスボディじゃないし、足も短いし、顔だってそんなに美人じゃない。スッピンの時はまるでむき卵のようなのっぺらぼうだ。でも、それじゃあ、正志は何でそんなわたしと一緒に暮らす気になったのか?

 女遊びを繰り返して来た彼が、初めて一緒に暮らした相手は私だ。それは正志にとって、大事な決断だったはずだ。それを決めさせたのは、私の魅力……と言えるかどうかはわからないが、とにかく私の持っている何かがそうさせたはずだ。なのに、なぜ、私以外なの?

 ……私じゃあ、期待はずれだった?

 敬子の心臓がドクンと打った。思い出したくないあのことを、思い出したからだった。

 それは、見捨てられる人間の痛み。

 酒に酔った義理の父は、よく小学生の敬子に添い寝して本を読んでくれた。ある時、父の声が途切れたかと思うと、ごつごつした手が背中から尻に下がり、尻の割れ目から股間に入り込んだ。敬子は、父の頭がおかしくなったのだと思い、終わるまで我慢しようと決めた。父はパジャマに手を差し入れ、敬子の平らな胸に触れると、ピタリと動きを止め、しばらくしてから小さく舌打ちをした。そのあと、背中から温かみが消え、冷たい空間ができた。父は黙って電気を消し、部屋から出て行った。敬子は暗い天井をじっと見ながら、自分の何がいけなかったのだろうと考えた。「チッ」という舌打ちの音が耳に残った。体を触られたことは、それほど嫌ではなかった。それよりも、捨てられたように取り残されたのが嫌だった。私の何かが、父親を満足させられなかったにちがいない、と思うと、悲しかった。

 正志も出て行くのだろうか? 途中で私に興ざめして。

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