第4話 ただ一緒に居るだけで男に自信を植え付ける
水曜日、正志は早番で、いつも家を早く出る。彼が出て行った後、敬子は彼の持ち物をチェックした。服のポケットや小物入れはもちろん、タンスの中まで調べたが、ピンクチラシも、新しい会員証も、女の子の名刺も出てこなかった。新しい財布の中も、彼が風呂に入っている間を狙って調べたが、怪しいものは入っていなかった。
二月に入って雪が降った。台風の日もバイクで出かける正志だったが、その日ばかりは電車で仕事に行った。
彼がいないのに、バイクのヘルメットだけが家の中にゴロンと置いてあるのが珍しく、その様子を見ているうちに、ふと気になった。まさかと思ってヘルメットの中を見ると、黒いスポンジの内張の一部が剥がれていた。もう一度、まさかなぁ、と思いながらそこをめくると、ピンクチラシとテレクラの会員証が出てきた。会員証は、この前と同じ店のもので、新しく作ったばかりだった。
敬子の体から力が抜け、床にへたり込んだ。
……どうしてよ。………わざわざヘルメットの中に隠したりして……。
手に持ったチラシとカードを見つめながらしばらく考えた。どうしよう……正志に突きつければ、彼は不機嫌になるに決まっている。それに、私は、ネチネチと男を追いつめるような嫌な女になりたくはない。
それをヘルメットのスポンジの中に戻した。
このまま知らないふりをしていればいい。
知らないふりができるだろうか?
……きっとできない。
敬子は、こんな所を調べようという気になった自分が憎らしかった。
その日の夜、正志が帰って来たのを玄関で出迎えた敬子は、ふいにそうしたくなって、彼に抱きついた。
冷たく硬い革ジャンパーの皺が、彼女の頬に突きささった。
「あー、疲れた」と言って正志は、敬子の体を横へ押しやり、スノーブーツを脱いで玄関を上がった。大股で奥に行くと、部屋で革ジャンを脱ぎ、ハンガーにかけた。
「それ、中に入れないでね。濡れてるでしょ」と敬子。
彼はぶつぶつ言うと、革ジャンをクローゼットの取っ手に掛け、テレビの前に座ってスイッチを入れた。深夜の音楽番組が流れ始めた。
「お茶でも飲む?」と敬子。
「ああ」正志はタバコの箱から、一本をくわえて引き出すと、ライターに向かって首を伸ばした妙な恰好でタバコに火を点けた。浮き出た喉仏を見て、敬子はなぜか腹が立った。身をひるがえして台所に行き、やかんを火にかけて、お湯が沸くのを待った。彼の顔を見たとたん、疑いが命を持ったように胸の中で鼓動し始めていた。
敬子はやかんを見つめ、お湯が沸き始める音を聞き、気持を鎮めようとした。二つの紅茶を持って部屋に入ると、床の隅に置いてあったヘルメットの位置が変わっていた。確かめたな、と敬子は思った。
正志は背中を向けて、テレビに見入るふりをしている。
敬子は紅茶を持ったまま横に動き、ヘルメットに近づいた。カップを持っていた指が滑り、紅茶がこぼれた。
「あっ」と声を上げて、すぐさまヘルメットを取り上げた。正志が立ち上がる気配がしたので、自分の体をヘルメットと正志の間に入れた。「ごめん! つまずいちゃった。いま乾かすから」
「いいよ」正志は乱暴に言い、ヘルメットを取り上げようとする。
敬子はそれを腹にかかえて守り、内張りに手を当て、偶然を装って、例の場所をひょいとめくりあげた。ピンクの紙が現れた。
「何これ?」
「触るなよ」
「なんでこんなところに入ってるの?」
それをじっと見ていた正志は、不意に手を伸ばしてチラシとカードを抜き取り、敬子に投げつけた。
「そんなに欲しけりゃ、やるよ。バーカ」
敬子が手を離したヘルメットと、バイクのグローブを拾い上げた正志は、そのまま玄関へ向かった。
「どこ行くの?」敬子は追いかけた。
彼は扉を開けていた。
「ねえ! どこ行くのよ」
彼は開けかけた扉を閉めた。敬子を睨みながら押しのけて奥の部屋に行き、ハンガーの革ジャンを取ってまた玄関へ戻った。
それを見た敬子は、二度と戻らない、という気がした。
すれちがいざまに言った。「ごめんなさい。怒ったならあやまる」
正志は驚いたような顔でしばらく敬子を見たが、すぐにぷいと顔をそむけた。
敬子はその体にかじりつきたくなった。だが、自分にはできないと分かっていた。
やっぱり出て行くんだ。
正志が扉を開けると、深夜の凍った空気が流れ込んだ。ほこりくさいような雪の匂いがした。
閉まった扉は、敬子を跳び上がらせるほど大きな音を立てた。
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