第2話 ただ一緒に居るだけで

 別に見てやろうと思ったわけではないが、掃除をしていてクローゼットを開けると、正志の小物箱の中にある古い財布が目に飛び込んできた。彼はさっき早番に出たばかりだった。

 どうしよう。

 財布はくしゃんとしていたが、中に何か入っている気がする。

 敬子は掃除機を止め、財布を取り上げた。彼の長年の汗が染み込んでいて、湿っぽかった。

 何も入ってないんだから、別にいいじゃない……。

 中の物を移し替えた時、彼は財布を逆さにして、何も残っていないことをデモンストレーションしていた。空の財布の中を見たって、何も悪いことはない。

 財布のカード入れはどれも空だった。小銭入れの裏にあるポケットを広げると、紙のカードが何枚か入っていた。最初の三枚は、出張マッサージのチラシ。郵便受けによく入っている、女の子の写真の載ったやつ。次はテレクラの会員証。白くツルツルした厚紙に、薄紫の文字で『RinRin』と印刷されていた。裏を返すと住所があった。

 豊島区曙町……正志の店の近くだ。

 その下に、キャバクラの女の子の名刺があった。三枚とも同じ店のものだった。……みか、ちえみ、ゆうな。敬子は名前を覚えた。

 それらを元に戻し、念のため札入れを広げて中を見たが、空だった。財布を元通りの位置にさりげなく置き、クローゼットを閉めた。


 その日から敬子は、正志の小物箱をちょくちょくのぞいた。財布は同じ場所に、同じ角度で置かれたままだった。つまり、中のものに手をつけてはいない……もう古いからいらない、ということだろう。

 三日ほどして、仕事から帰った正志が革ジャンを脱ぎ、クローゼットの扉を開けた時、中に小物箱が見えた。

「ねえ」

 そう言ってしまってから、敬子は、自分で何を言い出したのかわからず驚いた。

「んー?」正志は面倒くさそうに答え、背の高い体をかがめて、革ジャンをハンガーにかけた。

「そのお財布の中、何が入ってんの?」

「その財布? ……どの財布?」

「そこにある古い方のお財布」

 正志は革ジャンをクローゼットのバーに吊るしながら、脇の下をのぞくように自分の小物箱を見た。

「何って、別に何も」

「入ってるのは知ってるよ」敬子は口元に薄笑いを浮かべた。いい趣味じゃないが、止められなかった。

 振り向いた正志は、恐い目で敬子を睨んだ。

「病院に行こうと思って保険証探してたら、お財布がそこに開きっぱなしになってたから……端の方から何か見えてたから、何かと思って見ただけよ」敬子は、すらすらと言った。

「それで、人のもん勝手に見たのか」

 ……だから、見た、って言ってんじゃない。敬子は、口には出さず、うなずく。

「ふうん」彼は皮肉っぽく言い、扉を閉めた。

「待ってよ」

「何をだよ? 開けっ放しにしとくのかよ?」

 敬子は、体を、閉めかけた扉の隙間に滑り込ませ、財布を素早く取った。

「一つだけ聞きたいことがあるの」敬子は財布を両手で持ち、正志の前に差し出す。「この中のものって、全部……昔のもんだよね?」

「昔のもん、って、どういうことだよ? そんなもん、何だって昔のもんに決まってんじゃないかよ」正志の彫りの深い顔の、眉間に皺が寄った。色気のある唇の端が、今は下に向いている。

「そうだよね? 全部、私とつき合う前だよね?」

「全部って、どういうことだよ? 中に何が入ってんだよ? そんなもん、俺だって覚えちゃいないよ」

「ほんと?」覚えてないようなものを、わざわざ私から隠そうとするの?

 敬子は財布を広げた。正志の視線がそれに貼りついた。

 やっぱり何かあるんだ。

 小銭入れの裏のポケットに指を差し込み、中の物を取り出した。空になった財布を、わざとぞんざいに床の上に放り投げ、取り出したものを一枚ずつめくって見せる。出張マッサージのビラ、テレクラの会員証、キャバクラの名刺。それをまとめて、彼の胸に突きつけた。

「これは何?」

「そんなの、そこらへんにいくらでも落ちてるだろう」彼は、一番上の、出張マッサージのビラを見て言った。

「なんで拾って、とってあるの?」

「だから、お前と知り合う前のことだよ。ひとりで淋しいこともあるから、いつか呼ぼうかと思って取ってあったんだよ」

 実際に呼んだのか、と思ったが、聞くのをやめた。どちらにしても、私と知り合う前のことだ。

「じゃあこれは?」テレクラの会員証を見せる。

「それもずっと前だよ」正志はうんざりしたように言う。

「もう行ってないの?」敬子は気づいて、裏返して見た。入会日は去年の十月となっている。それは二人がつきあいはじめて間もない頃、一番盛り上がっていて、所構わず抱き合っていた頃だ。「これ、どういうこと? 何で、去年の十月に入会してんのよ」

 正志は、一瞬顔色を変えたように見えた。だがすぐに、いつもの面倒くさそうな顔に戻った。

「それ、間違ってんだよ。店員が間違えたんだろ。ああいう所なんて、テキトーにやってっからさ」

 日付けの文字は、ボールペンでていねいに書かれていた。間違ったとは思えなかった。

「じゃあ、これは?」敬子は三枚の名刺をトランプのように広げた。

「そんなもん、どこだって配るだろう? お前だっていろんな客にバラまいてるじゃないか。もらう方だって義理でもらってんだよ。そのくらい分かってんだろ? ずーっと前のやつを、入れ忘れて、そのままにしてあったんだ」

 敬子は、正志の目をじっと見た。正志はまっすぐ見つめ返した。

「わかったわよ。じゃあ、これ、捨てていいよね」と敬子。

「もういらないんだから、決まってんだろ」

 敬子は広げたカードをまとめ、洗面所に持って行った。洗面台の脇のゴミ箱に捨てようと、体をかがめ、後ろを見て正志の姿が見えないのを確かめると、台の上にあった化粧ポーチにチラシも会員証も名刺もまとめて押し込み、ジッパーを閉めた。

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