ほぼ愛
ブリモヤシ
第1話 ただ
あっ、と足を上げた敬子が、何を踏んだのかと思って床を見ると、正志の財布だった。拾い上げて調べると、財布の角に直角に打ってある金具のひとつが歪んでいた。どう見ても、今、踏んづけてしまったせいだ。敬子は、悪いことをしたと思ったが、仕事に遅れそうだったので、財布をテーブルの上に置いて家を出た。
店でお客の相手をしている時も、彼女は、財布のことを思い出した。金具が曲がっていることに、正志が気づけば、気を悪くするに決まっている。あいつは、普段だらしないくせに、妙な部分にこだわり屋だ。
いつまでも気にしているのがいやだったので、敬子は新しい財布を買ってやることにした。仕事が終わるのは朝4時だったので今日は無理。今度の休みにデパートへ行こうと決めた。
自宅のマンションに帰ると、正志はいつも通り、先に帰っていた。スウェットに着替えて、片膝を立ててテレビの前に陣取り、缶ビールを飲んでいた。敬子が入って行くと、気がついてゆっくり振り向き、
「おう、お疲れ」と言った。
「それ、やめて」
店の従業員同士のあいさつではないか……。確かに、二人が知り合った時は同じ店で働いていた。正志は新入りのウエイターで、敬子は高校を中退して勤めはじめたばかりの新人ホステスだった。だが、今は別々の店にいる。仕事の雰囲気を、そのまま家に持ち込んで欲しくなかった。客の目を盗んで店のトイレで抱き合うような、スリリングな関係を楽しむ時期はもう終わったのだ。
昼間テーブルの上に置いた財布は無くなっていた。
正志はサッカーの録画を見ながら、柿の種をぼりぼり噛んでいた。
敬子は、脱ぎちらかしてある正志のズボンとシャツを拾ってハンガーに掛け、床にちらかった紙くずを拾い、漫画本を壁際にそろえて寄せた。
財布のことを聞こうかと迷い、やめた。
次の日、出勤前にカルティエのショップに寄って、渋い煉瓦色の財布を買った。帰ってから、それを正志に渡し、理由を説明した。
「ふーん」と言って、正志は、薄紙に包まれたカルティエの財布をしげしげと見、特に嬉しそうな様子もなく「サンキュー」と言った。そしてポケットから古い財布を出し、その場で中味を移し替え、古い財布をクローゼットの中の自分用の小物箱に放り込んだ。
財布のなかに何か残っているように、敬子には見えた。
正志はテレビの前に戻り、柿の種をガリガリ食べると、ふと敬子の方に顔を向け、
「仕事、どうだった?」
「今んとこ順調」入店して三ヶ月になるが、同僚にイジメられることもなく、うまくやっている。指名も徐々に増えて来た。「そっちは?」
正志は「ふーん」と答え、またテレビに見入った。
敬子は洗面所に行き、化粧を落とした。古い財布の中味が気になった。
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