挑戦のための挑戦

#1 眠れぬ夜にて

 暗闇の中で天井からぶら下がった円形の蛍光灯と傘が、風もないのに揺れた。そう見えただけかもしれない。ゆらりゆらりと揺れて彷徨うのは、わたしの目線の方か。

 布団に寝転んだわたしの頭上に見えるのは、板張りの天井と蛍光灯。周囲に目を向ければ四方は襖と障子で囲まれている。体を預ける布団は畳の上。いぐさの匂いが、寝ているだけで鼻に入ってくる。

 この家で、この部屋で四年は生活しているからもう慣れた。それなのに時折、眠りから覚めたときにふと、ここが自分の部屋ではないような気を起こしてしまう。どうしてだろう。ここ以外に、自分の家はあるはずがないのに。

 それともわたしは、まだあそこを自分の家と認識しているのか。あんなところを。

 体を起こして、畳の上に置いた目覚まし時計を覗く。暗がりの中ぼんやりと、三時を示しているのが分かる。この暗がりでまさか午後ではないだろうから、午前の三時だ。眠れない日はとことん眠れない。入院中や療養中だったときはそれでも一向構わなかった。夜眠れないなら昼に眠ればいいから。しかし学校という組織に生活を縛られる今、昼に寝ていたら額にチョークである。

 まだ残暑が厳しい。寝ている間に少し汗をかいて喉が渇いた。水でも飲もうと思って、起きて縁側に続く障子を開いた。むわっと、べたつく外気が途端に体を覆う。今日――もう昨日だが――は一日雨だったせいで湿度も高い。

 縁側を進むと、部屋のひとつに明かりが灯っているのが見えた。この家に住むのはわたしを除けばひとりだけだから、明かりの消し忘れでなければ部屋にいるのは師匠に違いない。僅かに障子を押し開いて、部屋の中を見た。

 中にはやはり師匠がいた。熊のように大きい体を着流しに包んでいる。頭頂部の髪は豊かだが白髪交じりで細く、相応の歳を感じさせる。四年前、わたしが初めて会ったときから徐々に変化し老いを感じさせるのは髪だけだった。他の、顔や体に特段の変化はないが髪だけは年を経るごとに白く細くなっている。禿げ上がらないだけまだ若々しいと言うべきか。

 師匠は卓袱台の前に陣取っていた。卓袱台には緑色のマットが敷かれ、麻雀牌が散らかっている。何をしていたのだろうか。

「おう、白羽か。何してる?」

 わたしに気づいたのか、部屋の中から師匠が声を出す。わたしは障子を開いた。

「いえ、眠れなかったもので。水でも飲もうかと」

「水か。それならここに水差しがある。入ってこいや」

「はい」

 部屋に入って、麻雀卓を挟んで師匠の正面に座した。先ほどは麻雀卓に遮られて見えなかったらしいが、卓の隣に花瓶が置かれているのが目に入る。それは小さい白磁器で、そこに白い花が挿してある。白くて小さい花がいくつもひっついた植物。タンポポの綿毛が大きくなって花になったかのようなみょうちくりんな外見をしている。師匠が言うところによるとカスミソウというらしい。師匠は麻雀でも将棋でもチェスでもオセロでも、なにか遊戯をするときは決まってこのカスミソウを花瓶に挿して隣に置く。理由は聞いても教えてもらえなかったが、愛でるためならわざわざ遊戯の度に隣に置く必要はない。何かのルーティンなのだろう。

 花瓶の隣にはお盆に載せられたコップと水差しがあった。水差しを取ってコップに水をそそぐ。師匠は麻雀牌を混ぜ始めた。

「体の方はどうだ? 調子はいいか」

「ええ。まあ、いつ体調が悪化してもおかしくないことに変わりはありませんが」

 わたしが水を飲み終わってコップをお盆の上に戻す間に、師匠はあっという間に麻雀牌を揃えて山にした。普通四人でせっせとする作業だが、たった十秒くらいで全部終えてしまうから、毎度のことながら驚きだ。

 師匠――黒鵜白刃くろうはくじんといえば数十年前に将棋界の中では超一流の棋士だったらしい。師匠はどうも自分のことは語らない(そのくせこの人はわたしの事情をほぼ知っている)が、調べればそれくらいのことは分かった。かつて『黒鵜一家』と称して門弟を多く抱えていたらしい。それがどうして今、わたし以外に誰もいないこの家に住んでいるのか。仕事をする気配もなく昼行燈なのかはよく分からない。プロの棋士って、定年とかあるのだろうか。師匠はおそらく、一般的サラリーマンなら定年している年齢のはずだが。

「師匠は棋士ですよね。どうしてそんなに麻雀牌の扱いが上手いんですか?」

「一芸に秀でるやつは万芸に秀でるんだよ。ところで中学はどうだ? 通い始めて二週間になるがもう慣れたか?」

 万事この調子である。師匠が何かを教えてくれるときは自分から勝手に口を開くけど、それ以外はこう。それなのにこっちのことは聞いてくる。

「慣れました。最も、わたしは学校に通ったことがなかったので何をもって慣れたとしていいのかいまいち分かりませんが」

「学校での生活に困らなければ慣れたってことじゃねえか? 勉強はどうだ? 療養中も俺がみっちり教えてやったから不自由はないだろう」

「将棋やチェスが教科にあれば、確かに不自由しなかったんですけどね。師匠から教えてもらって精々役立っているのは国語くらいです」

「いやお前……それ俺がこれ読めあれ読めって勧めただけだぞ。教えたの範疇に入らないだろ」

「つまり師匠の教えはまるで役に立っていないということですか」

「マジで? 師匠的にけっこうショックだぞ」

「六十過ぎたおじさんが目の前で『マジ』とか『何とか的』みたいな言葉使っている方がショックです。若作りですか?」

「若い世代の言葉を取り入れることで、若い世代の思考を理解する一助になるんだよ。形から入るというやつだな。思考形態を知りたい相手の真似を何でもいいからすることで、とっかかりとする。白刃流三の見習い『共鳴り』だ。覚えておけ」

 突然出て来たなあ白刃流。かつて師匠の門下に教えていた技の総称らしい。口伝のみなのかメモ書きの類すら師匠の書庫からは発見できなくて、わたしには白刃流の実態が不明瞭だ。結構な数の技を今まで教えられてきたけど、見習いというのは初耳だ。初耳なのに通し番号三番出てきちゃったし。

「そもそも師匠が若者の思考を理解する必要はないのでは?」

「もし若いやつらと一戦交えることになったとき、連中の考え方が分からんようじゃ困る」

「相手の思考を理解することが勝つためには必要と」

「ああ。相手を罠にはめようにも、相手が何を考えているか分からなければ動きは読めないだろう」

「でも、ゲームでは状況に応じて大抵合理的な動きが決まっていますよね。赤ドラありの東風とんぷう戦ならじっくり手を作るより早上がりを重視した方がいい、みたいに。相手の思考は読めなくても、その場の戦況を見れば相手が取りうる合理的な動きは読めるのでは?」

 勝つために取りうる行動には限りがある。相手が勝ちに来ているという前提に立てば、相手の動きなどおおよそ読める。行動パターンなど片手で数えれば足りるくらいの多様性しか示さないだろう。将棋の初手が7六歩か2六歩しかないのと同じようなものだ。

 それは罠を張る側の動きを読むことに対しても同じである。攻め手であるこちらの合理性に乗って相手が罠を張るのだから、その多様性も多くはないはずだ。もっとも、師匠と何かしらゲームをすると、いつも合理性をあざ笑うかのような手を打たれるのだが。

「お前、案外に優等生気質だよなあ。だから俺に勝てないんだよ」

 師匠はニヤリと笑った。

「問題はその合理性だ。『赤ドラありの東風戦は早上がり』。それはあくまでお前にとっての合理性でしかないんだよ。他の連中が同じように考えているとは限らない」

「じっくり上がることに合理性があると?」

「さあな。別個の事例は知らねえや。だがそもそも前提となる『勝利』って部分からしてお前と他の誰かじゃ全然違う場合もある。麻雀においてお前の勝利は『半荘はんちゃんないし東場で一位になる』ことだったとして、俺が『他の局では負けてでも一局だけは上がる』ことを勝利条件としてたらどうだ?」

「その勝利条件に意味が?」

「あるんだよなあ。俺の生きてきた世界じゃこんなのはしょっちゅうだ」

 少し考える。麻雀は半荘戦にしろ東風戦にしろ総合点で順位が決まる。だから一局だけに集中するというのは考えにくいが……。あるいは、集中しているのは勝つ必要のある一局だけではない? 負けることも、意図的にしている?

「わざと負けて弱いフリをして、その一局に別の何かを賭けている? つまり麻雀そのものの勝敗を度外視にして、その一局だけで何かをやりとりするため?」

「そんな感じだな。ま、単なるバカって場合もあるが。要するにだ、お前の見ている世界と俺の見ている世界は違う。お前にとっての勝利や合理性と、俺にとっての勝利や合理性は違う。だから相手の思考を捉えるんだ。場合によっちゃ、目の前で行われているゲームなんて霞んじまうほどの大勝負が盤外で行われていることだってある」

「目の前の盤面だけが、すべてではないと」

 見ているもののスケールが、わたしと師匠では違っていたのかもしれない。そりゃ、盤面だけじっと見ているところに視界の外から腕を伸ばされても気づかないし、それを合理的とも思わないわけだ。

 それにしても、見ている世界が違う、ね。

「でしたら師匠。わたしはギャンブラーのよく言う『ツキ』というものを否定しているのですが、それもわたしと彼らでは見ている世界が違うからわたしには『ツキ』がわからないのですか?」

「そうだな。だが『ツキ』ってのは存在しないぜ。俺の門下にも信じてるタイプはいたがな。まあ基本『ツキ』ってのが理解できないお前が普通で正しい」

「『ツキ』……運と言い換えてもいいですが、結局のところただの確率ですよね。確率に流れも満ち引きもあるはずはないのですが」

「連中はいろいろ理屈こねるぜ。一度連中のロジックを漁ってみるといい。疑似科学の見本市みたいになってるから。そうそう、麻雀と『ツキ』と言えば変なこと言ってるやつと昔戦ったな。ほら、麻雀ってのは自分の欲しい牌を手元に引き寄せて、いらない牌を捨てるだろ。つまり卓上において牌の種類と位置ってのはけっこう偏るんだよな。もし俺が萬子の清一色チンイツを目指して萬子ばかり手に加えていたら、萬子が偏って俺の手前に来るわけだ。それをいくら人の手で混ぜても混ざり切らず、結果、俺が次に積む山には萬子が大量に残る。この偏りが『ツキ』の正体だってそいつは言ってた」

「それ、本当ですか?」

「ばーか。そんな訳あるか。仮にそんな偏りがあったとしても考慮に値しないな。いいか、『ツキ』を信じている連中が組み立てる論理は『ツキ』があることを結論ではなく前提にしているんだよ。ある現象や論理から『ツキ』の存在を論証しているわけじゃない」

「警察がある容疑者を犯人と決めつけて冤罪を生み出すようなものですか」

「そうだな。結論ありきだ」

 師匠は山を崩す。ジャラジャラと、深夜に立ててはいけない程度の音量で山が雪崩を起こす。

「このまま何かゲームでもしたい気分だが、今は寝ておけ。『ツキ』ならぬ月が沈んで太陽がこんにちわする前にせめてもう一眠りしておくことだ」

「はい、師匠」

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