#2 過去が迫りくる
結局、あまり眠れずに朝を迎えた。師匠の作った朝食を食べて、わたしはいつものように中学校へ登校した。
いつものように……まだたった二週間しか通っていなくても、そう思えるようになっていた。つまりこれが慣れたというやつだろうか。
中学までは多少距離があるが、歩くことになる。少しは体力をつけないと健康に悪いと主治医には言われているが、この移動が一番しんどい。クラスメイトからは自転車を使って移動する距離だと言われたから、相応に遠いのだろう。しかし自転車は乗れないから仕方がない。たった二輪でどうやって自立しろというのだ。
わたしが生あくびを噛み殺しながら歩いていると、後ろからエンジン音が聞こえてきた。音の大きさからして、車ではないらしい。振り返ると、一台のスクーターが滑るように走ってこちらに向かってくる。乗っているのは、ヘルメットを被った男性。年は三十代くらいと見える。ポロシャツにジーンズと随分ラフな格好だが、首から下げた大きいカメラが注意を引いた。
そのスクーターは徐々に速度を落として、わたしの前でぴたりと止まった。これがワゴン車あたりなら師匠から言われていた通り拉致誘拐を警戒してとっくに逃げていた。しかしスクーターがあまりにも自然にわたしの隣に停車したのと、自転車でさえ乗れないわたしとしてはより速度の出るスクーターが自立する仕組みに興味が移ってしまって、つい逃走するタイミングを見逃した。
一度逃げる機会を失うと、なかなか距離は取りづらい。ヘルメットを外した男は柔和な笑みを浮かべていたが、その笑みはわたしの脳内に黄色信号を点灯させるのに十分だった。それなのにわたしの足は動かない。
「その制服、額縁中学の生徒だね?」
男はスクーターに乗ったまま、わたしに話しかけた。下りる気はないらしい。万が一に逃走できるようにだろうか。いや、それならヘルメットを脱ぐのはおかしい。単に面倒がっているだけか。
「……誰ですか?」
わたしが着ている制服はどこにでもありそうなセーラー服なのに、わたしの所属する中学が分かるものなのだろうか。ハッタリか。まあ額縁中学で合っているんだけど。しかしここで首肯すれば相手へ一方的に情報を与えることになる。
「知らない人とは話せないので」
「これは失礼。僕はルポライターで
男はポケットから、多少ひしゃげた名刺を取り出して渡してくる。確かに『ルポライター 柳場竜蔵』と書かれていて、住所や連絡先もばっちりである。
「ルポライター?」
「要するに、事実をありのまま記す記録作品の作家と思ってくれていい。新聞や雑誌に記事を書くだけじゃなくて、ある事件に関する事実や記録をまとめた本も出版していたりするんだよ」
当人はそう言ったが、それが確かである証拠はない。名刺を見る限り、どこかに所属しているという風ではない。自称、あるいは別の仕事の隠れ蓑か。本を出しているということなので、後で図書館などで調べれば分かるだろう。
「それで、そのルポライターとやらが何の用ですか?」
「君は額縁中学の生徒だろう? 君の学校の生徒会についてなんだけど……」
「失礼します」
わたしは頭を下げて歩き出す。男はスクーターから下りて手で押しながら、わたしの隣に並ぶ。
「君の中学の生徒会について聞きたいんだよ。随分有名だからねえ」
「何も喋るなと教えられているので」
今の中学に編入する際、いの一番に教えられたのが『生徒会について誰かに何かを聞かれても、絶対に答えるな』ということである。どういうことかと不審には思っていたが、こういうことか。
「額縁中学の『探偵生徒会』! 大人顔負けの中学生探偵五人組については僕たちもよく聞いているよ。なんでもそれぞれ、有名な探偵から指導を受けていたという話もね」
「それだけ知っているなら、わたしから聞くことは何もないでしょう」
探偵生徒会。だいたいは柳場という人の説明で事足りているこの集団が、わたしの通う学校にはいる。警察絡みの事件すら解決したのは一度や二度ではないらしく、その功名は地元のみならず外部にも漏れているらしい。生徒会についての箝口令はつまりゴシップ狙いの連中に下手な記事を書かれるのを恐れてのことだろう。わたしが編入二週間で記者に遭遇したくらいだから、他の生徒や教員は日頃から記者に突撃されているのかもしれない。
「そもそも、わたしとしてはただの中学生にそこまで固執するあなたの行動が不可解ですけどね」
「そりゃ固執もするさ。二年前に制定された『探偵基本法』に基づく『Dスクール』の高等学科設置計画。早くて来年には初の探偵養成高校の誕生。今、探偵業界に明るい日本中の記者たちは未来の名探偵をマークしている」
探偵……? 探偵基本法? 初めて聞くワードが次から次へと飛び出して、どうにも理解が追いつかない。柳場はそんなわたしを気にしていないのか、まだ喋り続けている。
「なにせ今でさえ、探偵はアイドルやタレントみたいな立ち位置だ。難解な事件が起きれば探偵は現場に赴いて、その様子をテレビが伝える。スタジオではこれまた探偵がコメンテーターとして事件の分析をする。事件とその解決がバラエティと化しているんだよ」
「…………」
テレビを見ないから分からないが、推理小説の世界がそのまま現実に浸食してきているようなものと考えていいのだろうか。推理小説は師匠に勧められて随分読んだけど……。そういえば、師匠はこういう探偵業界の話を知らないのだろうか。
「探偵連合のトップ猫目石瓦礫、探偵派遣会社の女社長七色七、暗号解読専門探偵の睦月雨水、探偵基本法設立の立役者たる榎本泰然翁も忘れちゃいけないな。世はまさに群雄割拠の探偵戦国時代みたいなものだ。そうそう、探偵生徒会の五人を教育しているのが例の榎本翁だな」
探偵基本法の立役者、ね。具体的なところは分からないが、探偵基本法によって警察以外に捜査権限を与えられた個人捜査官とも言うべき人間が探偵なのだろう。そして生徒会の五人が教育を受けたのがその立役者たる榎本泰然。立役者ということはその人も探偵なのだろうか。それとも法律を整備できる政治家や官僚のポジション? ともかく、案外スケールの大きい名前が身近に出て来るものだ。
柳場はわたしの顔を覗き込んだ。相変わらず柔和な、人懐っこそうな笑みは崩していない。一種のポーカーフェイスなのだろう。表情からこの男の内心は読めない。
「僕は探偵生徒会に興味を持っているが、もちろん君にも興味は尽きないさ。ねえ、黒鵜白羽ちゃん」
「……名前、知っていたんですね」
「そりゃそうさ。あの有名人、黒鵜白刃が四年前から女の子の世話をしているのは知っていた。あの偏屈なじいさんがどういう経緯で君を引き取ったのか、興味を持つ人はたくさんいた」
偏屈? それは師匠のイメージからは程遠い。また、一世を風靡した棋士だったとはいえ今は無職の師匠に現在も好奇の目が付きまとっていたという事実も驚く。師匠は本当に、何者なのだろうか。
少しだけ、この男と話す必要が出てきたのかもしれない。こいつが何者かはさておき、師匠について何かを知っているのは間違いない。
「師匠は棋士でしょう。探偵業界に詳しいあなたがどうして師匠を気にかけるんですか?」
「いやね、僕も黒鵜白刃を中心にマークしていたわけじゃないんだよ。実は探偵生徒会について調べている内に黒鵜白刃の名に行き着いたというだけだ。探偵生徒会に手ほどきをしているのは榎本泰然と言ったろう? だけど榎本翁も忙しいからね。普段は別の人が教えているのさ。その人が黒鵜白刃のかつての弟子だって話さ」
「師匠の弟子?」
「君の兄弟子にあたるんだろうね。まあ、僕も最初は『黒鵜白刃? だれそれ?』って思って知り合いの詳しい人に聞いてみたんだ。そしたら将棋界では表沙汰にこそなっていないけど、知る人ぞ知るトラブルメーカーだったというじゃないか」
トラブルメーカー。偏屈、よりはイメージが近づいた気もする。それでも普段わたしの知る師匠のイメージから、まだ遠い。
「トラブルメーカー、と言いますと?」
「さてね、詳しい話は君にしても仕方ない」
知りたがっていることが、顔に出ていたのかもしれない。柳場はさっと矛を収めてしまった。
だが、一応想像はできた。なるほど、今の師匠が暇人なのはトラブルメーカーなのが原因だろう。おそらく、業界を干されたのだ。それならば、わたしがいくら師匠について調べても、棋士だったという事実以上の何ものも出てこないのも納得だ。
「君の師匠の話より、僕は君の話を聞きたい」
柳場はそういえば、わたしに興味があると言っていたのだった。
「どうしてわたしなんですか? 探偵生徒会へ蠅のようにまとわりついていればいいでしょう」
「言っただろう? 探偵生徒会は有名なんだ。つまり僕の同業者がもう何人もついている。そこに僕が入っても旨味はないよ。だから大穴を狙いに来たんだ」
「わたしはただの一般人ですよ?」
「黒鵜白刃の弟子だ」
「師匠は棋士ですが」
「門下が探偵生徒会を指導している。つまり黒鵜白刃が教えた技術は探偵に応用できる。それに、黒鵜白刃としても名誉挽回の機会は欲しいだろうからね」
名誉挽回? わたしの推測は正しかったということか。だが、将棋業界を干されたから次は探偵業界にチャレンジというのは、どうもしっくりこない。
「それに……」
わたしの肩に手が置かれる。いつの間にかわたしも柳場も、立ち止まっていた。
「君は自分を一般人だと言ったけど、そうじゃないだろう。ねえ、木野哀歌ちゃん」
脳内に点灯していた黄色信号が、赤色に切り替わる。今すぐにここから離れなければならない。そう思っても、足は言うことを聞いてくれなかった。
「どうしてその名前を……」
視界が明滅を繰り返す。ただわたしは柳場の足元を見ることしかできない。
「だから調べたんだよ。今は探偵業界のルポが中心だけど、これでもちょっと前は校内暴力とか児童虐待とか、そういう方向性で仕事をしてたんだ。ちょうど君がまだ木野哀歌ちゃんだったころはまだそっちだったから、君の事件も詳しく知っている。あれは大きな事件だったなあ。戦後少年犯罪史を塗り替えるくらいにはね。それなのにちょっと目を離した隙に君は社会から姿を消していた。まさかここでぶつかるとは思わなかったな。ルポライターとして、君のような逸材を逃す手はないんだ。黒鵜白刃の警戒が厳しくて今まで手は出せなかったが、ようやく殻から出てきてくれて助かっているよ」
四年。四年経っている。わたしはともかく、社会は、世間はもう忘れているものだと思っていた。そう甘い話は、なかなかないのか。
網膜の裏側に、あの時の光景と体感が影を纏って現れる。暗い部屋。鼻孔を抜ける生暖かい臭い。じっとりと全身を濡らす、命の澱。
「…………わたし、学校に」
声が上手く出せなかった。もう少し上手い切り抜け方もあるはずなのに、頭が真っ白になって何も思いつかない。
肩に置かれた柳場の手に、力が籠められる。
「ちょっと、何してるの!」
突然、女の子の声が響く。さっきまでの重苦しい空気がかき消される。瞬時にわたしは柳場の手を振り払って、声のした方へ下がった。
声を上げたのは、わたしと同じセーラー服の女子生徒。白い半袖のセーラーに赤いスカーフが目立つ。確かスカーフの色は学年ごとに違っていて、赤はわたしと同じ二年生だったはず。気の強そうに釣りあがった両目が柳場を睨みつけていた。
「大丈夫、黒鵜?」
顔はこちらに向けず、その女子生徒がわたしに話しかける。わたしの名前を知っているということはクラスメイトだから、ええっと。
そうだ、彼女は杉谷景子という。クラスの学級長という役職で、件の探偵生徒会のひとりでもある。
「あー、うん。一応」
「そう。ならよかった」
一方、探偵生徒会当人を前に柳場は眉をしかめて頭を掻いた。そしてヘルメットを被ると、すぐにスクーターに乗って逃げてしまった。
「なんなのあいつ? 新手の記者? あまりこの辺じゃ見ない顔だけど」
「逆によく見る記者がいるんだ……」
「ま、どうせ生徒会絡みでしょ。近頃また増えたみたいね」
……あの男の目的はあくまでわたしだったのだろうか。探偵生徒会は話の導入として出しただけなのか、それとも探偵生徒会にも目をつけているのか、そこは判然としなかった。ただ少なくとも第一目標がわたしなのは確からしい。そのことを素直に話したら話したで、どうしてわたしが狙われたかを杉谷に話さなければならなくなる。それが嫌だったので、わたしはもらっていた名刺を胸ポケットに隠す。
「何を聞かれたの?」
「生徒会について」
「それは分かってるわよ。具体的に何を聞かれたの?」
「さあ? わたし自身、生徒会について詳しくないからあんまり」
「ふうん」
気になるのは、杉谷がどの段階からわたしと柳場の話を聞いていたか、ということだ。わたしたちを見つけてすぐに声をかけたのか、それとも……。『木野哀歌』の件に関しては、聞かれていないことを祈るしかない。探偵生徒会とやらがどれほどの実力かは知らないけど、さすがにあの名前をとっかかりにされると簡単にあの事件に辿り着いてしまう。
杉谷には、特にそれ以上探りを入れるような様子もない。記者が現れて自分たちの周辺を嗅ぎまわることなど日常茶飯事なのだろう。まあ、お陰でこっちも柳場と話したことについて詳しく探られないから楽だけど。
「夏休みも明けてしばらくしてるってのに、この時期に新手の記者が現れるなんて変な話ね。また見つけたら今度は話も聞かずにさっさと逃げなさいよ」
「はいはい」
「はい、は一回」
「はーい、と」
探偵……。探偵基本法、Dスクール。なぜだか、そのことについて一番詳しそうな彼女に、それを聞くのをわたしは躊躇った。ここら辺は直感的なものだ。どうしてか今は、探偵絡みの話題を彼女に差し向けない方がいいと思ったのだ。わたしが探偵について持っている知識量の底、あるいは限度のようなものを開示しない方がいいと。
杉谷景子というクラスメイトが敵になる。そのシュミレーションがわたしの脳裏では現実味を帯びていた。どうして? と聞かれると返答には窮するのだけど。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます