#3 専制の意味

 筆記試験の会場は、ごく普通の教室だった。義務教育を受けた人間が『学校の教室』と聞いてイメージする平均的なそれ。試験会場は高等学科の教室で、一年前にできたばかりなので真新しさはあるが、特に奇妙なところは感じない。あくまで学校生活の拠点だから、ここを凝る必要は無いのかもしれない。

 試験官の指示に従って、各自席に着く。宇津木はわたしの前だった。どうやら受験番号は五十音順ではないらしい。さすがの彼も試験直前となると、話しかけてこなかった。

 筆記具を準備する間、とにかく気になったのは机に置かれた紙の束だった。一〇〇ページ以上は絶対にあるそれは、表紙に『試験問題』と記されていた。この段になってわたしは、ちょっとまずいのではないかという気がしてきた。

 平均点が満点の半分なのは、試験の難易度によるものだとばかり考えていた。試験問題が難しくて、二五点しか取れないのだとばかり。

 しかし実際は、違う。これは、試験問題が多すぎて、二五点分しか解けないのだ。

 もちろんそれでも、満点を叩き出すだけの自信はある。でも、難しいのと量が多いのでは根本的な問題が異なる。

 座っているにも関わらず、足元がふらついた。

 試験官の人が机を回って、ひとりひとりに解答用紙を配っていく。解答用紙も何十枚に及ぶものをファイリングしたものだった。ただでさえ問題が多いのに、一問に対する回答もそれなりのものを求めているということになる。

「試験開始まであと五分。試験開始は一三時一五分。試験時間は四五分で、終了は一四時となります」

 無情にも、スタートは近づいてくる。

 まあいい。

 ここまで来たら、やるしかない。

「試験開始」

 教室中を一斉に、紙の捲られる音が満たした。

『以下の問題を解け。ただし、一問だけ正答すれば本試験を満点とする特例問題が存在する(五〇点満点)』

 へ?

 思わず喉の手前から声が出そうになって、慌てて唾をのみ込んだ。

 特例問題?

 一旦落ち着く。三回通り問題文を読んで、自分の誤読ではないことを、パニックが作り出した幻覚ではないことを確認した。それくらい、この特例問題はわたしにとって渡りに舟だったのだ。

 しかし……。

 問題文を見る限り、問題は五一問に及ぶらしい。その中から唯一の特例問題を見つけ出すことができるだろうか。ノウ。現実味がない。もともと筆記には自信があるのだから、普通に全部解いて全問正解。これでいい。

 特例問題を頭から追い出したわたしは、とにかく第一問を読むことにした。

『十二角館で一九八六年三月二六日に起きた連続殺人事件において、館に暮らす中村一家の長子紅司が両親と妹を殺害した咎で逮捕された――』

 『十二角館殺人事件』! この事件は知っている。確か、犯人は最後まで無罪を主張していたけど、証拠が揃って死刑判決になった。

 どうやら、戦後実際に発生した事件から出題するというのは本当らしい。なら、問題数が多くてもどうとだって……。

『――後に、それは冤罪であることが警察の捜査で明らかになったが、既に起訴寸前だったため、紅司はそのまま裁判にかけられることとなった。ここで当時の捜査資料と容疑者の一覧を最低限開示する。真犯人を明らかにしろ』

 …………え?

 冤罪? どういうこと? 『十二角館殺人事件』は戦後の事件史でもかなりメジャーで、どの参考書でも必ず取り上げるほど。犯人が無罪を訴えていたために弁護士が捜査資料の大部分を公開していて、それにもわたしは目を通している。でも、冤罪だったなんて事実は……。結局、犯人は独房で自殺して、それきりになっているはず。

 ストップ。まずは飛ばそう。分からないところは飛ばすのが、試験では鉄則。詳しく知っているはずの事件だけに、未知の情報が出てきて混乱しているだけ。そうに違いない。

『愛知県の南にある架空島(現在個人所有)に建つタロット館で起きた殺人事件について――』

 『タロット館殺人事件』。こっちも知っている。あの宇津木博士が殉死した事件であり、宇津木博士の正統後継者である猫目石瓦礫が公に現れた最初の事件。情報が氾濫しすぎているきらいがあるから、わたしはこの事件をほとんど調べていない。だからこそ、さっきのようなことには……。

『――事件当時、島に集まっていた人間の内ひとりに、別人が名前と姿を偽り入れ替わっていたとされている。持ち物一覧と各人に宛てて送られた招待状の写しから、偽者が誰であるか指摘せよ』

 これ、駄目かもしれない……。

 この事件に関わった人間の内、誰か一人が偽者なんて話は聞いたことが無い。

 さっきの第一問もあわせて考えるに、もしかしてこの問題は実際の事件を改変したものなのだろうか。

 もしそうだとするなら、時間が足りない。既に知っている答えを書き出すのと、一から答えを導き出すのではかかる時間があまりにも違う。満点どころか、平均点に届くかどうかすら……。

 周囲から、紙に文字を書く音は途切れない。引っ掻くようなその音が秒針を刻む歯車の音のように聞こえてきて、少しずつ、視界が暗くなってくる。

 カリカリカリカリ――。

 カリカリカリカリ――。

 音に支配される。このままだと、何も考えられなく……。

 鋭い痛みが指に走った。驚くとともに、視界が開ける。見ると、左手の人差し指から血が出ていた。口の中も錆臭い。どうやら、気づかない間に自分で指を強く噛んでいたらしい。解答用紙に血をつけるわけにはいかないから、適当にしゃぶった。

 痛みのお陰で少しだけ、冷静になれた。クール。頭だけが取り柄なら、考えるのを止めてはいけない。

 正面を見る。背中だけで判然とはしないけど、どうやら宇津木はまったく筆が止まらないらしく、右腕がちょこちょこ動いている。あの軽薄を塗り固めてできたような彼が実はわたしより上なのかと思うと指の痛みが増すけど、すぐにひとつの可能性に行き着く。

 もしかしたら、この問題は公表されていない情報からしか作られていないのかもしれない。第一問なんてまさにそうで、実は冤罪で真犯人を警察が知っていましたというのはあからさまに隠されていそうな情報だ。

 そう考えると宇津木が筆を一切止めないのも理解できる。わたしにとっては思考問題だけど、彼にとっては知識問題なのだ。考える余地が彼には無い。筆を止める必要が無い。探偵の家系に生まれた宇津木は、非公開情報だろうが入手し目を通すことができるのだから。

 試験直前にした宇津木の発言にも説明がつく。彼は知っていたのだ。筆記試験が非公表の情報から作られていることを。だから彼は、わたしに「力を貸してやる」なんて物言いができた。

 なるほど……。Dスクールの合格者が探偵の身内ばかりという噂は、この筆記試験からか。

 現状を確認してみると、だいぶ冷静さを取り戻すことができた。ゲームを戦う駒ではなく、プレイヤーの目線。混乱を極める戦場を、俯瞰してみることができる。

 整理してみよう、この盤上を。

 まずは自軍から。黒の軍勢――わたしは実技試験を受けていない。これは前衛のポーンをすべて失った状態からスタートしているに等しい。ギャンビット――すなわちポーンの犠牲を利用した作戦はできない。

 そして筆記試験。腕時計を見ると、既に一五分を過ぎている。思考に使える持ち時間は残り三〇分。こちらのクロックは今も動いている。裏を返せば、今はわたしの手番ということになる。どうせわたしに残された手は一発逆転しかないのだから、この三〇分をフルで使って考えればいい。

 筆記試験の内容は、戦後実際に起きた事件から。わたしは高をくくってルークを前進させて、ふたつとも不意打ちでさらわれた。実のところ、試験内容は実際の事件とはいえ、非公開の情報をもとに作られていた。こちらの駒は相手に見えるのに、向こうの駒は配置どころか勢力すら見えないというのが現状になる。化けの皮を剥がしてみれば、全部クイーンという末路すらある。

 しかし、相手の戦力は実のところ関係ない。なぜなら、相手はわざとこちらに付け入る隙を与えている。それが特例問題。本来あり得ない五一問目。つまり相手は、わざとこちらの勝ち筋を残している。

 だとすれば、この現状は対人戦ではない。

 ソリティア。

 あらかじめ仕込まれたルールと盤上を、わたしがどうするかという問題でしかない。イレギュラーなどもう起こらない。

「………………」

 ここまで分かれば、チェックメイトは目前に迫っている。

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