壱8
上士の二人が去った後に真紅郎は後ろを振り返ったが、そこにいた者たちの多くは真紅郎の顔を見たままに呆けていた。
ただでさえ収二郎に弥太郎と武知が上士に斬り殺されようとしていたところでどうにか助かったという安心感もあるのだろうが、真紅郎が刀を素手で受け止めてしまったり、いくら分家とはいえ下士の身分では雲の上の存在とも言える山内豊信との関わりを持つのだということを聞いて、どこから理解すればいいのやらと自身が理解できる許容量を超えた事態の数々に頭が回らなくなっていたのだ。
しかし、そんな中で唯一冷静に対処できた武知は周囲が呆けている中で一人立ち上がり真紅郎に向き直った。
「真紅郎殿と申されたねゃ。
何はともあれ助かったちゃ。
ありがとう」
そう言って武知は殺されるはずだった自分の命を救ってくれた事に対するお礼を素直に真紅郎に示した。
「あ、ああ、そうちゃ。
真紅郎、まこと助かったぜよ。
……いやぁ、よかった。
うん、よかったぜよ」
武知ほどにはあまりのことに理解が追いついていないものの、弥太郎はさっきまで上士に斬られるところだったのは事実であり、それを自分は真紅郎に助けられたのだということはようやく理解した。
理解したからこそその他諸々のよく分からないことは置いておいて自分がまだ生きているという実感をひしひしと感じていた。
そうして年上の弥太郎や武知らが真紅郎にお礼を言ったことでようやく龍馬たちも当初心配していた収二郎や弥太郎、武知の三人は殺されずにすんだのだと理解が及んできてホッと一息ついていた。
「そうじゃ、助かったんじゃ。
収二郎や弥太郎さん、武知さんは助かったがぜよ……。
よかったねゃ、収二郎。
弥太郎さんに武知さん、それに真紅郎に礼を言っときや」
そうやって龍馬が収二郎に対して声をかけながら近づいていくものの、収二郎は地面に崩れ落ちたまま立ち上がらずにいた。
決して未だ腰が抜けて動けないなどということではない。
龍馬たちもそうだが、収二郎ほど今回の件で上士と下士の違いというものを思い知った者はいない。
「どういて下士はこうも虐げられんといかんがぜよ……」
それは子供らしい現実を知らない言葉だった。
いや、知らなかったというべきか。
少なくともそれを口にした収二郎は、今は十分に理解している。
それは収二郎の後ろでさっきまで収二郎たちが斬られなくてすんだということを喜んでいた龍馬も同じだった。
どうして土佐にはこうも理不尽なことがまかり通るのだろうか。
それを収二郎と龍馬は身にしみて理解していた。
しかし、他の下士の子供たちは収二郎や龍馬とは違ってそこまで強烈な疑問を感じることはなかった。
まるでそんなことは当たり前ではないかとでも言うように。
確かにこの土佐では下士は上士に虐げられる存在だと言うことはみんな子供の頃からこうして教えられている。
そうでもしないと今回の収二郎のような目に遭ってしまうからである。
だからと言って収二郎や龍馬の目には上士が下士に虐げられるということに悔しさをにじませているものの、疑問に思っているようではない他の子供たちの姿が異様に見えた。
ついさっきまで自分たちもそんなみんなと同じように感じていたというのに。
「そうちゃ。
確かに下士は上士よりも身分が下の存在。
けんど漫然とそれを受け入れるだけじゃいかんがぜよ。
受け入れるのではなく疑問に思わんといかんがじゃ」
そう小さな声だが強い意志をもって武知は口にした。
それに対して周囲にいたみんなが無意識にそう口にした武知を見た。
「収二郎。
聞けばおんしらは土佐一の剣豪と言われる麻田先生の元で剣を学びたいち言いよったけんど、下士が上士の道場で学ぶいうがは並大抵の覚悟ではいかんぜよ」
そう真剣な表情で言った武知に対して、いつも知り合いの前ではのんきな雰囲気の弥太郎までもが真剣な表情を見せていた。
収二郎や龍馬たちは、そんな自分たちのいつもとは違う兄貴分を見て吸い寄せられるように武知の言葉を聞くことに集中する。
「この道場は見ての通り上士の町にあるきに下士が剣を学ぶような場所でもないぜよ。
こうしてわしや弥太郎がこの道場で学びゆうがはそれぞれここの麻田先生とは縁があるきに出来るがぜよ。」
「でも、弥太郎さんや武知さんは下士であってもここの麻田先生は構わないち言いよったじゃないですか。」
収二郎は下士の現実というもの押しつぶされそうになりながらも懇願するように武知に尋ねた。
「そうぜよ。
確かに収二郎の言うように麻田先生は下士であっても受け入れてくれるがじゃ。
けんどそれはこの道場が受け入れてくれる言うわけではないぞ、収二郎。
わしらは下士じゃ。
いくら先生が許したとしてもわしらがこの道場で虐げられん訳ではないがやき」
それでも弥太郎はまだ厳しい現実を知らない収二郎たちに対して言い聞かせるようにしてこの道場の現実を教えていく。
この道場は土佐一の剣豪の元で剣を学んでいくという利点だけではない。
それどころか下士にとっては不利なことばかりである。
この道場は上士である麻田勘七が剣術師範として治めている。
そして、この道場も上士の町である郭中にあるがために土佐一の剣豪の元で門人として剣の鍛錬を積んでいるのはその多くは上士の生まれの者たちである。
下士なんていうのは本当に弥太郎や武知くらいしかいない。
決して麻田勘七が下士を嫌っているというわけではない。
事実、指導に関しては上士であっても下士の弥太郎たちであっても変わりなく指導する。
それに、上士の中でも下士である弥太郎たちを嫌うわけではない者たちもそれなりにいる。
しかし、この道場にいる多くは土佐において下士が虐げられることは何の疑問も抱かない事実であるという風に考えている者なのだ。
弥太郎や武知はそんななかで日々剣の鍛錬に励んでいるのだ。
「どういて弥太郎さんたちはこんな道場にいるがですろうか。
こんな道場やめてしまえばいいやに」
それは剣の鍛錬をするということを厭う龍馬らしい疑問だった。
それを分かっているからこそ収二郎たちが龍馬に対して符抜けていると言わんばかりの視線を向けている中、弥太郎は苦笑を浮かべ、そして真剣な表情に戻して毅然として言った。
「それはの、龍馬。
この道場だからこそ自分の芯のようなものが磨かれるような気がするきじゃ」
その言葉に対して武知も似たようなことを感じていたのか同意するように頷いた。
それを見ていた収二郎は武知に対して尋ねた。
「それは武知さんもかえ?」
「そうぜよ。
別に苦境に在って己を鍛えるというのとは違うがやき。
当たり前の状況の中で常に疑問を持ち続ける。
それによって自らの剣もさらに磨きをかけていく。
そういうことが出来るががこの道場やち思うちょる」
「確かに、この道場はそれが出来る道場ちゃ。
江戸で学んだことのあるわしが言うことちゃ。
間違いないきに」
それを聞いていた収二郎は暫く下を向きながらじっと考えていた。
龍馬たちが黙りこくっている収二郎を心配する中、弥太郎や武知たちはそんな収二郎をただ見ていた。
そして収二郎が顔を上げるとそこには今までの収二郎ではなく志を持つ武士のような強い眼をして武知に向けていた。
「武知さん……。
わしにここの麻田先生を紹介してくれんですろうか。
わしは、武知さんらと一緒にこの道場で学びたいがです」
剣を学びたいというわけではなくこの道場で学べるすべてを学びたいというそんな強い意志を持って言った言葉だった。
「言ったはずぜよ。
下士がこの道場で学ぶには並大抵の覚悟ではいかんぜよ」
「覚悟はあるかは分からんですき。
けんど武知さんらみたいな強い武士になるためにはどんな苦境でも耐えてみせるという気概はあるがです」
そんな武知と収二郎が黙って見合っている中、龍馬たちは二人の気迫に押されていた。
「分かった。
収二郎やったな。
ついてくるぜよ。
麻田先生におまんを紹介しちゃるきに」
「はい!」
そう言って収二郎は嬉しそうに武知の背を追いかけていった。
それを見て一瞬遅れて収二郎についてきた子供たちもついて行こうかとしたが、それを弥太郎は止めた。
「やめとけ。
おまんらがただ友人の後を追いかけていくだけのつもりやったらやめとくぜよ。
もしそれでもと思うがやったらもっと何か自分が本当にやりたいことを見つけてからくるがいいぜよ」
そう言われた子供たちはただただ困惑するばかりだった。
何やら心の中で先を越されたというもやもやとした感情を抱く龍馬を除いて。
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