壱7
収二郎がこの道場で鍛錬を積むことが出来ればもしかしたらこの二人のように立派な人物になれるかもしれない。
そういう輝かしい未来の自分を想像しながら言ったその言葉は辺りへと響き、そして嘲笑された。
「何を言っちゅうぜよ、この下士の子は。
下士のくせに生意気やか!」
弥太郎が夢見る収二郎に向けて痛ましげな顔をして、優しく諭そうとして口を開いた瞬間にそのような言葉が何ともおかしいとでも言うような笑い声と共にその場に響いた。
その声を聞いた瞬間、頭が回らなかった収二郎はその言葉しか聞こえなかった。
ついさっき、目の前にいる弥太郎と武知というこの二人が収二郎に対して下士であっても上士に負けず強い武士となれるのだという夢を見せてくれた。
そして、そんな希望を胸に抱いて大きく声を上げて夢を叫んだ瞬間に、その夢は馬鹿なことだと唾棄され、足蹴にされ、そして粉々に踏み砕かれたようなそんな感覚を味わわされた。
だからこそ、その誇りを傷つけられた収二郎がやることは一つしかなかった。
「貴様ァ、何を言うたぜよ!
このわしに謝れ!」
収二郎は自分の夢を嘲笑したその上士に対して怒り、声を荒げた。
それを見た周囲の者たちは、特に上士と下士というその身分差別を毎日のようにこの道場で身にしみて思い知らされている弥太郎と武知の二人は目を見開いて驚いた。
それはもちろん相手の上士も同じだった。
相手は二人でその二人とも上士のようである。
しかし、上士にとっては犬猫も同然のそんな畜生の下士に刀は抜かずともかみつかれた男にとって何が起こったのか理解するのに少々時間を要した。
そしてすべてを理解した瞬間、相手の上士の一人が怒りにまかせて腰にある刀を抜き払った。
「き、貴様ァッ!
畜生同然の下士の分際でこのわしに対して謝れとはなにごとぜよ!
そこに直れ。
わし自らが貴様を斬ってくれるわ!」
事ここまで及んでしまえば下士である者たちにはどうしようもなかった。
このままでは恐らく収二郎は上士に斬られてしまうだろう。
もちろん、上士といえどもそう簡単に人を斬るなど許されることではない。
それでも許されうる存在というのがそんな上士なのである。
怒りのままに叫んだ収二郎は、目の前に突きつけられた刀を見て、それを持つ者が上士であることに気がついて、ようやくその怒りに染まったその頭が冷えていった。
自分が怒りにまかせて叫んだ相手が上士であって、その上士が自分を斬るのも待ったなしの状態であることが分かったのだ。
もっともあまりの状況に顔は真っ青で幾ら武士の男子といえども恐怖で力が抜けてしまったためか、地面に膝をついてしまったのだが。
「ほう、潔いやか。
良かろう。
そのまま大人しくしていれば貴様のその態度に免じて首を差し出すだけで許しちゃろうやいか」
刀を抜き払っていた上士の一人は顔の横に刀を構える八相の構えをとって目の前に絶望に身を任せて座している収二郎を見る。
「お待ちください、晴之丞殿。
どうか!」
「待たん!
貴様ら下士の分際でこのわしに刃向かったのは事実ちゃ!
この童の首を差し出すぜよ。
それとも貴様まで一緒に斬られると言うがか」
このままでは収二郎の身が危ないと思い立った弥太郎がすぐさま崩れ落ちていた収二郎の前に出た。
「や、弥太郎さん……」
「心配するなや、収二郎……。
晴之丞殿、まさか先生の道場の門前を穢しても良いとお思いながですか。
確かに収二郎は晴之丞殿を刃向こうたがです。
しかし、それもまだ元服もしていないの子供の戯れ言。
どうか、ここはお引き下されんやか」
さっきまで威風堂々とした姿を真紅郎たちに見せていた弥太郎が収二郎の前に立って自分から地べたに座って頭を下げた。
そして、それは弥太郎だけではなかった。
「晴之丞殿、どうかわしからもお願いするがです。
どうか、刀を納めとーせ」
そう言って武知も収二郎の前にいた弥太郎の隣で頭を下げた。
自分たちよりもかっこいい尊敬するべき年上の弥太郎と武知が頭を下げた。
弥太郎が弱いなどということはないのは龍馬たちも知っている。
その強さを何度も見せてくれていたのだから当然だろう。
それはつまり武知だって同じくらい強いのだろう事を龍馬たちに想像させた。
そんな二人が刀を抜かずに無防備に頭を下げて、むしろ無防備に頭を差し出している。
龍馬たちだって自分たちが上士よりも下の身分の下士だということは小さい頃から親に厳しく教えられて知っているつもりだった。
上士が偉いから道を譲るし、頭も下げる。
けれども、今回は収二郎が悪いのは事実としても斬られるほどのことはしていないはずだった。
その上、自分たちが尊敬する弥太郎や武知が地べたに座って頭を下げている。
そこまでする必要はあるのか?
どうして収二郎や弥太郎さんや武知さんがこんな目に遭わなければならないのだ。
こんなの理不尽ではないか。
それでもまだ上士は刀を納めやしない。
下士という身分の龍馬たちはみんな自分の身分と上士という身分の理不尽さを思い知らされた。
「ふん。
何をするかと思ったけんど……。
貴様らは下士の分際でいつも生意気ぜよ。
下士やき刀を持つことを許されちょるが決して貴様らは武士などではないき。
下士の分際で道場で剣を嗜むなど生意気ぜよ。
貴様らは刀を鍬に持ち替えて田でも耕しておればいいがぜ!
貴様ら下士がこの道場に入るがは言語道断!
いいぜよ。
そんなに死にたいがやったら望み通り三人まとめてわしが斬っっちゃろうきに」
そう言って上士は手に持つ刀を再度持ち替えて前にいる弥太郎と武知をまとめて袈裟懸けにしてやろうと意気を籠める。
それを見ているもう一人の上士は止めることなくじっとその様を見ていた。
このままでは理不尽に弥太郎と武知は殺されるだろうということは分かっていても龍馬たちには何もすることも出来なかった。
「あ……」
誰の声だったか。
そんな声が真紅郎の耳に聞こえた。
「弥太郎、さん……」
自分のせいで弥太郎が殺されてしまう。
それを自覚した無意識に出てきた収二郎の声が辺りにシンと響く。
誰も止める者などいない。
そのはずだった。
「刀を納められよ、晴之丞殿」
真紅郎の声がなければ。
「何だ、貴様は」
邪魔をされたとその顔に怒りの感情を込めて睨まれながらも、真紅郎は地に倒れ伏す収二郎の前に出て、更に地面に膝をつく弥太郎や武知の前にも出て、そして上士の正面へと出た。
「潮江天満宮の神主、鷹家真紅郎である」
「し、真紅郎!?
何をしているがか!
すぐに下がりなや、真紅郎!」
弥太郎が真紅郎の身を案じて声を荒げているものの、真紅郎はそんな言葉を柳に風とばかりに受け流す。
横で弥太郎が声を上げている中、武知は顔を上げてそんな度胸のある真紅郎のを後ろ姿をじっと見ていた。
そして、刀を抜いていない上士もまた真紅郎のことをじっと見ていた。
「きっ、貴様ァ!
上士どころか下士でもない神主の分際でこのわしを侮辱するがか!
いいだろう。
望み通り貴様もその後ろの三人同様この刀で……」
「俺を斬るというのか……
確かにこの土佐において上士とは下士よりも明らかに身分の上の存在。
無礼討ちというのもあるかもしれない。
しかし、今回はまだ弥太郎さんが言ったように元服前の子供の戯れ言。
まさかその戯れ言だけでこの三人を斬ろうなどとは言いますまいな」
真紅郎はまさに身分が上だの下だのそんなことはどうでもいいと言わんばかりの強気な態度で目の前の上士晴之丞に迫る。
「黙りや!
ほんなら貴様は何ぜよ。
神主の分際で上士にいや、武士に口答えするなど斬られてもいいというがか!」
これ以上自分の意思を覆すような無礼者は許しておけないと言わんばかりに刀を振りかぶり、そして鋭い刀の切っ先が真紅郎の体を切り裂こうとしたその瞬間、その刀は急に真紅郎の目の前で止まった。
それを見た周囲の者たちはみんな驚きの表情で真紅郎を見た。
決して真紅郎は刀を抜いて自分の身に迫る凶刃を受け止めたわけではない。
自分の体一つ、右手のひら一つで傷の一つどころか冷や汗の一つもなくその振り下ろされた刀を受け止めてしまったのだ。
それに対して冷や汗をかいてしまったのは真紅郎に対してその刀を振り下ろした張本人だった。
それも当然だろう。
誰が大人の本気で振り下ろされた刀を受け止められるというのか。
真紅郎は目の前の上士の刀を持つ手の力が緩んだのが分かったところで刀から手を離した。
もちろん真紅郎のその手に傷など一切ない。
少しズルをして膨大な霊力をもって手のひらに霊力を高めてその防御力を高めたのだ。
普通の妖祓いであれば使用する霊力が多すぎてそんな芸当など出来はしないが真紅郎にとってはむしろ自分の身体能力を高めることなど朝飯前なのだ。
上士が刀を持つ手を緩めたままに真紅郎が刀を離したことでその刀の重さで体が前に傾き蹈鞴を踏んでしまう。
「き、貴様。
何をしたのだ……。
こ、この俺を相手に刃向かうなどと」
すべてを理解した上士は真紅郎という未知の恐怖におののくものの、それでも武士ならば恐怖を感じて引き下がるなど許されないとばかりに再び刀を持って向き直る。
しかし、今度制止の声を上げたのは真紅郎でも下士の面々でもなく、さっきまでじっとしていたもう一人の上士だった。
「やめろ、晴之丞。
この下士らの言うことも最もぜよ。」
「な!
しかし、此奴らは下士のくせにわしを侮辱したがやぞ!」
「そうちゃ。
じゃけんど、この真紅郎ちゅう神主は普通でない。
いや、見たまんま普通ではないけんどこの者は南邸山内家の豊信様とも関係があるものちゃ。
今回は元服前の子供のただの戯れ言。
やき刀をしまいや、晴之丞」
真紅郎は元よりわざわざ豊信の関係者だなどと言うつもりはなかったが丁度よかった。
目の前の上士はもう片方の上士のその言葉に驚き、そして特に真紅郎を睨みながら刀を納めた。
「幾らお前が豊信様の関係者やとしてもこれで許すわけではないきにの」
そう言い残して上士二人は真紅郎たちの前から去って行った。
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