壱6
真紅郎と龍馬、そして収二郎たちが辿り着いたのは上士たちの多くが住む郭仲でも上町にほど近い西南の方に建てられた道場だった。
「本当にここなのか?」
「そうぜよ。
ここが土佐一の剣豪である麻田勘七先生の指南しているという道場ちゃ」
訝しげな表情を隠しもしないでその道場を見ながら独り言をつぶやいた真紅郎だったが、それに対して収二郎はどこか興奮気味にそう答えた。
麻田勘七。
流派は小野一刀流であり、江戸では土佐でも少しは聞いたことのある士学館という道場でも剣術を学び、そしてこの高知城下で道場を構えて小野一刀流の剣術師範をしているのだという。
(確かに収二郎の言うようにこの道場の師範は結構すごい人みたいだな。
学問もそうだが剣術にしたって鍛錬を怠らないでみんなよりももっと強くなろうという気概のある収二郎のことだ。
こんな大層な人の元で剣術を学べるのではと考えて後先考えずに行動することに関してはすごいと思うが……
大丈夫なのか?)
真紅郎は、無理矢理連れてこられた龍馬の心配よりもここまで来てしまった収二郎のことが心配になった。
ここは立地的に見てどう考えても上士の町だ。
そんなところに道場を構えられるということは当然その麻田勘七とか言う人物も上士なわけであって。
「なあ、やめておいた方がいいんじゃないか。
その麻田勘七先生というのは上士なんだろう。
俺たちがわざわざこんなところまで来ることはないだろうよ」
「そうちゃ、真紅郎の言うとおりぜよ。
どうして収二郎がこんな上士の町に連れてきたがは分からんけど余計な騒動に巻き込まれる前にここから離れたがいいぜよ」
新九郎の言葉に対して龍馬もわざわざ道場になど行きたくないという気持ちもあるのだろうが、それに加えて収二郎たちを心配して早くこの場から離れようと言う。
しかし、そんな自分の邪魔をするようなことを言っている二人に対して収二郎は、別に怒るでもなくむしろ二人に対して心配は無用だというように笑って言う。
「二人の言うことも分からんでもないけんどそれに関しては大丈夫やき。
ここの道場は確かに場所は上士の町にあるけんど、上士も下士もなく誰であっても受け入れるという剣術道場やき。
心配することはないぜよ」
そんなことを言いながら収二郎とその他の同じ年頃の下士の子供たちも一緒になって道場へと入っていく。
彼らはただ単純にすばらしい師範から剣術を学びたいというだけなのだ。
だから下士であっても受け入れるというこの道場の噂を聞いて、剣術を学びたいというその気概だけで何の気負いもなくこうしてやってきたのだ。
確かにこの道場は下士であっても受け入れているのだろう。
真紅郎も龍馬もこうしてここまでやってきたのは収二郎の知り合いの年上の下士がこの道場で土佐一の剣豪の元で学んでいるのだというそんな話を聞いたのだと収二郎が語っているのを聞いたからである。
しかし、今真紅郎と龍馬は二人で顔を見合わせてどうしようかとこの道場の中に入るのを迷っていた。
龍馬は単純に、ただでさえ来たくもない道場までやってきて、更にはその師範が上士と聞いて尻込みしていたのである。
そして、真紅郎もまたこの道場の師範は上士でありながら下士でも入門を許してくれるということを収二郎から聞いてもなおその不安は収まることがなかった。
真紅郎だってこの土佐の上士と下士という非常に大きな身分差別というものは十分に理解しているつもりである。
そして、藩主山内家の分家である山内豊信とも知り合いであり、下士や町人に対しても別段彼らを蔑視しているわけでもないというのを知っており、上士の中にも下士を相手に普通に接する者たちがいるのだということも知っている。
だからこそ、自分が何となく不安に思っていることに関して真紅郎は道場の中に入って行った収二郎たちに関して嫌な予感を感じずにはいられなかった。
「龍馬、行くぞ」
「え?
いや、でも、仮にも上士の道場だぞ」
「だからこそだ。
収二郎たちをそのままにはできないだろう。
何もなければいいけど、何かあったらすぐに連れ出さないとな」
そんな真紅郎の言葉を聞いて龍馬は諦めのため息を吐いて真紅郎の後ろについて道場の中へと入っていくのだった。
「どういてここに来たのぜよ、収二郎。
お前にはまだ道場は早いと言っちょったやいか」
「でも、弥太郎さん。
団蔵の奴が言っちょったぜよ。
弥太郎さんは土佐一の剣豪の元で剣術を学んじゅうて。
それやき、わしやて弥太郎さんみたいに強うなりとうてここに来たちゃ!」
真紅郎と龍馬が見たのは、道場に入ってすぐのところで足踏みしている収二郎たちの姿だった。
それ以外にも真紅郎たちよりも幾分か年上の男が二人そこにはいた。
その二人はちょうどこの道場での稽古を終えてこの道場を出ようとしているところのようだった。
その証にその二人は汗に濡れており、その手に手荷物を持っていた。
「はあ、団蔵の奴か……。
あいつは自分のことでもないと言うにどういて此奴らに話したがかの。
……龍馬に真紅郎まで来ちょったがか」
そこでようやくその男は真紅郎と龍馬の存在にも気が付いた。
真紅郎は目の前にいる二人の年上の男のうち片方は知らなかったが、もう片方はよく知っていた。
「弥太郎さん……」
「よう、真紅郎。
まさかお前たちも……いや違うねゃ。
龍馬がわざわざ剣を学びに道場まで来るはずもないきの。
真紅郎も収二郎たちにまきこまれたがか」
その人物は大石弥太郎だった。
龍馬たちと同じように下士の身分であるが、商家才谷屋の分家で普通の下士よりも裕福な生活をしている龍馬と似たような感じで、下士でありながら裕福な身の上なのである。
その才覚は文武に優れ、国学を高知でも名の知れた国学者に学び、剣術に関しても彼の家が下士でありながら裕福であったおかげでこの道場の師範である麻田勘七と同じく江戸の士学館まで出向いて学んできた男なのである。
その兄貴分的な人柄のおかげで高知城下の下士の中でも特に年下の者たちに慕われているそんな存在なのである。
ちなみに先ほどから弥太郎や収二郎が言っている団蔵というのは、大石弥太郎の従兄弟である大石団蔵のことである。
真紅郎よりも少し年上だったりする。
まさか真紅郎や龍馬も慕っているようなそんな人物がこの道場で学んでいるとは思わずに驚いた二人であったが、真紅郎はこの道場に弥太郎がいると言うことで自分たちでも問題ないのかも知れないと思った。
「まあ、収二郎に連れて行かれそうになった龍馬に巻き込まれてな。
それにしてもまさか弥太郎さんがこの道場の門人だったとは思いもしなかったが。
やっぱりその人もここの道場の門人なのか?」
「まあ、そうぜよ。
麻田先生は確かに上士だけんど先生とはちょっと縁があったき。
ほんで、この武知半平太ゆう奴もわしと同じちゃ」
そんな風に語る弥太郎に対して収二郎たちは尊敬のまなざしを向けている。
それもそうだろう。
自分たちのよく知る尊敬すべき兄貴分の弥太郎が、下士でありながら上士の町に道場を建てている土佐一の剣豪である麻田勘七の元で学んでいるというのだ。
実際、さっきまで道場に行くのを渋っていた真紅郎や龍馬でさえ弥太郎のことを誇りに思っていた。
「なるほど。
じゃあ、弥太郎さんがこの道場の門人として迎えられているのもここの師範が弥太郎さんと同じように江戸の士学館の門人であるという縁からなのか」
とりあえず門前で話し合うのは他の人たちの邪魔になるということで真紅郎と龍馬、収二郎たち、そして弥太郎と武知半平太と名乗る人も一緒に自己紹介も兼ねて道場の隅の方で話し合うこととなった。
真紅郎が聞く限り、この武知半平太という男も弥太郎の同い年であり、高知からそれほど離れていない南東の方の村の生まれの下士だということだった。
それもあって収二郎たちにとっては自分たちの尊敬する弥太郎と同じように下士でありながらこの上士の町の道場の門人である武知にも興味を持った。
「そうちゃ。
ちなみにこの半平太も似たようなもんぜよ。
なあ?」
そうやって弥太郎はさっきからあまり話さない武知に対して促すように声をかける。
武知のことも知りたいと思っていた下士の子供たちはみんな武知の方を向いて何を話すのかと期待する。
「何ちゃあないぜよ。
ただわしの剣の師である千屋伝四郎先生に言われてここに来ただけぜよ。
この道場の麻田先生は千屋先生の門人でもあるきにの」
こうして、たまたまこんな場所で久しぶりに会ったと言うこともあって真紅郎たちや弥太郎たちは当初の目的も忘れて自分たちのことについて話し合っていた。
そうしているところで話を戻そうと最初に声を上げたのはやはり収二郎だった。
「弥太郎さん、武知さん。
わしはお二人の話を聞いちょって決めたぜよ。
わしもこの道場で弥太郎さんや武知さんみたいに学びたいがぜよ。
どうかここの麻田先生に話を通してもらえんやろうか」
この道場で学ぶ二人の話を聞いていて、自分ももっとこの二人のように強くなりたいという沸々と心の奥底から湧き上がる衝動を抑えきれずに収二郎は衝動のままに叫んだ。
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