壱4

 真紅郎が種崎で大蛇の妖魔を退治してから数日が経った。

 あれ以来心なしか高知城下でも下級とはいえ妖魔の類いがよく出現するようになってきた。

 大事となる瘴気溜まりの出現はまだいつも通りで特に変わりがないように見えるが、真紅郎のは今のこの状況がまるで嵐の前の静けさであり、暫くしたらあの時の大蛇のような妖魔かそれ以上の妖魔が出現するような気がしてならなかった。


「おや、真紅郎さん。

うちの菓子でも買っていかないかい?

宮司さんだってケンピはお好きだろう」

「そうだな。

小腹も空いてきたことだし貰おうかな。

けど、一人分ね」


 この高知城下でも町人や下士たちの居住区である上町でも南西に位置するこの場所で、真紅郎は昼食を食べてまだあまり間もない中で顔見知りの菓子屋に声をかけられて丈夫な和紙に入れられた一人分のケンピを買い上げる。


 真紅郎は、この高知の城下町において町人などの庶民の多く住む上町や下町だけではなく武家町である高知城下の中心地である郭中でも顔を知られている。

 それは真紅郎が高知でも多くの信仰を集める潮江天満宮の宮司の元で手伝いをしている神主であると言うこともあるが、真紅郎自身が町人はもちろん下士や上士にまで気さくに話しかけるだけのフレンドリーさと豪気さを持ち合わせているからだろう。


 この土佐では特に下士と上士に大きな隔たりがありはするものの、真紅郎自身は身分としては特殊な神主という身分であり、更に彼自身が藩主の息子として少なからず上の者として育てられたこともあり、そもそも土佐山内家の分家である南邸山内家の豊信と友人のように接する真紅郎にとっては上士も下士もないのだ。


 そういう理由で、真紅郎は高知城下の氏子とは宮司とともに面識があり、特に高知城下の豪商とも呼ばれるような者たちとも新九郎にとってはそのほとんどが顔見知りなのである。

 とはいえ、先のケンピを売っていた菓子屋は宮司のお気に入りの店という意味で顔見知りな訳ではあるのだが。


 宮司が特に好いている菓子であり、真紅郎自身にとっても好物であるケンピを菓子屋が出してくれた茶を飲みながら店先で味わって食べる。

 おいしそうに食べながら店先から見えるいつもと変わらないような上町の人々の賑わっている様を眺めている真紅郎だったが、その目は決して笑ってなどおらず周囲へ何かあったら見逃しはしないといったような視線を向けている。


「どうしたんですか、真紅郎さん。

もしかして神社を抜け出してサボってるってんじゃないでしょうね」

「馬鹿を言うなよ。

別にそう言うんじゃないさ。」


 宮司と年の頃が同じくらいの男に対して気軽に声を掛け合っているが、それでも真紅郎の気が緩むことはない。


「じゃあ、今日はどうしてこの辺に来たんだい?」

「何となく……だな」


 真紅郎がこうして贔屓の菓子屋でのんびり茶を飲んでいるのは、決して以前のように神社での宮司の仕事が嫌でサボっているなんて事はない。

 むしろ、神主としていや、妖祓いとして周辺の見回りをしているところなのだ。


 大蛇の件で真紅郎が今後の高知において何か嫌な予感がすると言ったことで宮司は真紅郎に対していつもの朝の日課をさせた後は自由にさせていた。

 それもすべて真紅郎の勘に従って自由にさせた方が騒動が起きたときに素早く対応できるかも知れないと思って、宮司が真紅郎の未来予測のような勘を信頼したためである。


 そして、真紅郎はその勘に従ってこの上町に来たわけでがこうして半日散策してもこの町はいつもと変わり映えはしなかった。


 そのままどこか周囲の変化に対して緊張感を持ったままにケンピを食べて茶を飲んでゆっくりした後に真紅郎はその菓子屋を離れて再び町を散策しようとしたその時、後ろからこっそり近づいてくる人影に気がついた。


 真紅郎が自分の存在に気付いていると言うことを知らないその人物は、そのまま手が真紅郎の肩に触れようとした瞬間、機先を制するように真紅郎の方から声をかけた。


「何をしているんだ」


 こんな風に自分に対して小賢しいいたずらを仕掛けてくるような人物に心当たりがあった真紅郎は気が抜けたようにそう後ろの人物に顔を向けた。


「うわ、気付いちょったか。

そんなら教えてくれてもよかったに」

「はあ、龍馬か」


 後ろを振り向いた真紅郎の目の前にいたのは龍馬、つまりは後の世でも知られることとなる坂本龍馬だった。


「なんちゃ、その言い方は。

せっかく人のこと心配して声をかけたというに」

「後ろからこっそり脅かそうとしてたお前が何を言う」

「ははは、それはそれちゃ。

気にすることはないき」


 はははと声を上げて笑っている龍馬を見て真紅郎は呆れつつもどこか楽しそうな龍馬を見て自分も心が浮き立つようなそんな感じがした。


 歴史のことをあまり知らない真紅郎でさえ坂本龍馬という人物のことは知っている。

 勝海舟という幕府の要人と関わりがあり、有名な薩長同盟の仲立ちをして、最後には夢半ばで暗殺された人物だ。

 正直、真紅郎はどうして土佐の者が薩長同盟なんかの仲立ちをしたのか、幕府の敵となったのか、そしてどうして暗殺されたのかというのが全くと言っていいほど分からなくて最初に坂本龍馬と名乗るこの龍馬と出会ったときに混乱したが、真紅郎にはいくら未来のことを知っている自分でも分からないことはあるのだと言うことはこの三年間で十分に思い知っていたのでこれ以上気にすることはなかった。

 しかし、藩の重臣として江戸や京、国許を移動することはあっても藩士が簡単に国許から出ることができないこの時勢で、どうして土佐藩の下士である龍馬がそんなにも自由に日本中を渡り歩いたのかということについては同じ土佐で生きる者として甚だ疑問に思ったのだが。


「にしても、随分と周囲を警戒しとったねや。

何かあったがか」


 まだ13歳だというのに小さいながらも武士らしくどこか鋭い雰囲気を向けてくる龍馬に対してどうにかつくろいつつ真紅郎は何もないのだと装った。


「いや、別に何もないさ」

「……そうか。

まあ、ええか。

ところで、真紅郎はこの後時間はあるがか?」


 さらっと話題を変えてきた龍馬の切り替えの速さに苦笑しつつも真紅郎は今後の予定と言われても何かが起らない以上特に何もすることはなかったので頷いた。


「そうかえ。

それがの、収二郎の奴が郭中に道場を構えちゅう麻田様ゆう人のところに剣を教えて貰いたいゆうてわしも連れて行かされることになってしまったがぜよ。

どうやろうか、真紅郎も一緒に来てくれんか」


 麻田様というのは誰だか知らなかったが、真紅郎は収二郎という人物については龍馬と同じくよく知っていた。


 もともと、真紅郎は神主であっても武士ではなかったがそれでも元は武士の身分であったことには違いがなかったため、宇和島では特に何も出来なかったが土佐に来てからは武士の子らしく最低限の剣術を磨くために一人でも鍛練を重ねていたのだった。

 そんな中で宮司の元で神主となってからは名字帯刀を未だに許されているということで宮司からの助けもあって剣を習うようになったのだ。

 特に収二郎、いや平井収二郎や坂本龍馬とはこうして剣を習い、更に宮司と一緒に出かけることで以前と比べて城下町へと向かうことが多くなった真紅郎はこうして城下町の中でも下士の子供たちと仲が良くなったのだ。


 真紅郎は下士や上士という身分に縛られていない状況にあることでこの土佐で非常に自由な身分であることに違いわけで町人や下士たちとは非常に積極的に関わってきている訳なのだが、上士に関しては宮司と一緒に上司の多く集まる武家町である郭中へと向かうことはあるのだが上士にとって上士でも下士でもないのに真紅郎が名字帯刀を許されているという状況を快く思っていない者がそれなりにいるのだ。

 そして、真紅郎も上士とは特に関わろうとせず下士の子供たちと仲がいいこともあって上士の一部などからは下士の子供たちと同じように格下に見下されるというような状態にあるのだ。


 真紅郎は別に上士に見下されようが特に気にしていないというのも事実なのでそのまま友人たちと共にあるのだが。


「来てくれって言ったって何だって俺を誘うんだよ」

「なんちゃ!

友がこうも頼み込んじゅうというに断ると言うがか」


 龍馬のその必死さに真紅郎はひいてしまうもこの件が収二郎が中心であるということで龍馬の心を察することは難しくはない。

 収二郎は武士らしく更なる剣の練達を望んでいるが龍馬は違う。

 別に剣術などそれなりに出来ればいいだろうと言うのが龍馬の言葉だが、これで龍馬が剣が苦手だというのなら言い訳として分からなくはないがまだ本格的に始めたわけではないにしても見て分かるほどに龍馬は剣術に関して才がある。


 真紅郎はそんな不真面目な龍馬を高知でも名が知れているという麻田なる人物のもとで鍛錬させようといううざったらしい熱意が伝わってくるのを感じた。


「分かったよ。

ちょっと顔を出すだけな」

「そうかえ!

いやあ、良かった。

そんじゃ、一緒に行くぜよ」


 了承しながらも面倒くさそうな顔をしながら頭一つ小さな龍馬に引っ張られていくその様に周囲にいた者たちが苦笑しているのを真紅郎は感じていた。


 そんなに嫌ならばいくら懇願してくる龍馬とはいえ断れば良かったではないかとも思うが真紅郎はそうするわけにもいかない理由があった。


 “何となく”龍馬について行ってみようと思ったのだ。

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