壱2

 四方を山々で囲まれたような風景を眺めながら真紅郎は船に揺られて浦戸湾を鏡川のほうへと向かって行く。

 見た限り何時間かけても海に出るなど不可能のように思えるこの景色からは考えられないことに、今この場所から一時間もかけずに南へ船を下ると太平洋を望む大海原に出るというその面白さがあるのがこの土佐湾から高知城下へと続く浦戸湾なのである。


 真紅郎もこの面白みのある景色を眺め続けているが、高知城下から桂浜のほうに何度も行ったことがあるがこの景色の移ろいはいまだに飽きることがない。

 それに、いつもとは違って浦戸湾のから見える岸には桜の木々が疎らながらに鮮やかな春の色合いを見せてくれている。


「一応朝帰りってことになったが、まあ、宮司のことだ大丈夫だよな。

それにこの手土産だってあるんだからな」


 どこか希望をはらんだ言葉を呟いた。

 朝どころか太陽はほとんど真上に近いところにある中を進む船は、種崎の港から高知城下へと向かうための渡し船にしてはずいぶんと大きい。

 それというのもこの船の上には人の見の丈ほどの大きな大蛇の牙を積んでいるのだ。

 そのせいかこの船を漕いでいる船乗りたちはそのよく分からないが普通でない牙を見て戦々恐々としている。

 いや、この船乗りたちも港で一昨日から村に大蛇が現れたという噂は聞いていたのでもしかしたらそれが関係しているのかもしれないとまでは思っているのだが、いかんせんその牙が大きすぎるのだ。

 その牙の大きさから実際の蛇の大きさまで想像してしまったらそうなってしまうのも仕方ないというものだろう。

 それに真紅郎の痛々しいまでの包帯姿もまたその想像に拍車をかけたことだろう。


 昨夜、真紅郎は村に現れた大蛇の妖魔を倒した後は、この二つの異様に大きな牙を持って日が暮れてしまった後に村の方へと戻ってきた。

 今まで村の人々もそして腕の立つ浪人でさえ一度行けば帰ってこれない場所が大蛇が出るとして噂になっている場所なのだ。

 そんな場所から帰ってきた真紅郎を見て最初は村の人たちもそれはもう驚いて、その後大蛇は倒されたのだと聞いてみんな喜んだ。


 しかし、その後に当の大蛇の妖魔が残した大きな牙という形の遺物を見た瞬間、まさか自分たちの住んでいる村にこんなのがいたなんてという想像をしてしまって恐怖で固まってしまったのだが。


 しかし、真紅郎もまたあの大蛇の妖魔がこんなにも大きな遺物を残していくなんて思えなくて最初こそは相当驚いたことも事実だ。


 普通、妖魔という存在は基本的にそこら辺にいる動物の形を基本としているものの、実際はそこに存在しているわけではなく瘴気が形作る幻影のように普通の人間には決して見えない存在なのだ。

 だからこそ基本的に妖魔を倒した後は、その妖魔は元の瘴気へと戻り、そしてその瘴気でさえも自然へと帰っていくのだ。

 しかし、ごくたまに例外的に瘴気から生じた妖魔が倒された後もその一部が実体として現れることがあるのだ。

 それこそは妖祓いの中でも遺物と呼ばれている妖魔の体の一部なのである。


 この遺物は簡単に現れないようで実は弱い妖魔であっても生じることもあるというようによく分からない存在なのだ。

 しかし、上級の妖魔であればあるほどに遺物が生じやすくなり、そしてその遺物としての質も上であるということは知られている。


 今回、真紅郎が手に入れた大蛇の牙もそんな遺物のうちの一つなのだ。


 そして、真紅郎はその村で一夜を過ごした後に種崎の長浜屋へとこの大蛇の遺物を持っていき、今回の報酬である米俵20俵をもらった後でこうして潮江天満宮まで戻ってきているのだ。

 もちろん、今回は真紅郎もこうして大きめの船を使って大蛇の遺物を載せており、当の長浜屋も20俵もの量の米俵を渡すには少し時間がかかるとしてあとで潮江天満宮まで持ってくるようにと言づけてから帰ってきた。

 まさかあれだけの大きさの牙を持つ大蛇を倒した御仁に対して報酬を支払い損ねるということはないだろうということは、最初にこの大蛇の遺物を見た時の村の人たちと同じような長浜屋の表情を見ればわかっている。


 そう考えるともし大蛇の遺物がなかったりこれよりも小さなものだったときはどうしたのかは分からないのだが。




「神主さん、潮江天満宮までもう少しでございますよ」

「そうか、じゃあ、神社の正面より奥の方に進んでくれ」


 しばらく高知城下の方へと船を漕いで行って種崎から一時間ほど経った頃、真紅郎の目の前に高知の城下町と潮江天満宮のある筆山のある所とを結ぶように架かっている天神橋が見えてくる。

 真紅郎が三年前から厄介になっている潮江天満宮はこの天神橋のすぐそばにあるのだ、

 しかし、今回はこの荷物を神社の方ではなく神社の裏の方にある宮司の屋敷の近くに下ろすために少し奥の方へ進むように真紅郎は船乗りたちに伝えた。


「じゃあ、悪いがここでもう片方は見ていてくれないか。

まあ、まさか盗むやつはいないと思うけど」


 真紅郎の乗っていた船が屋敷の裏手の入り口とそう遠くない場所に着いたところで真紅郎は大蛇の遺物の片方を持ち上げて船乗りの二人にそう言った。

 どこからかやってきた盗人がもう片方を取らないようにという意味で言ったことに対してまるで脅されているかのように何度も首を振って了承していた二人の様子を見て真紅郎は少し疑問思いながらも遺物を持って屋敷の方へと向かって行く。


 真紅郎はこうして普通に持っている大蛇の遺物だが、確かにその大きさは長さにして大人の男性の身長には届かない程度の長さでしかないが、実はその重さは大人の男性にしておよそ五人分近い重さだというのだからそんなものを軽々と持っている真紅郎がどれほどの怪力を持つのかということがよく分かる。


「裏手の方が少し慌ただしいと思っていましたがやはり真紅郎殿でしたか」


 真紅郎が大蛇の遺物を持って屋敷に着いたところにいたのはこの潮江天満宮の宮司を任されている樺山廣幸だった。

 しかし、その口調とは裏腹にその言葉には随分と怒りの感情が込められていたのだが。


「あ、いや、宮司……

どうしたんだ?

まだ午前中だというのにもう屋敷に戻ってきたのか?」

「もうお昼時ですよ、真紅郎殿」


 完全に墓穴を掘ってしまった真紅郎。


「仕方なかったんだよ。

ほら、これ見てくれよ。

種崎の近くの村にな、なんか妖魔らしき存在が悪さしてるって聞いてだな、退治したんだから怒ることないだろう」

(まずい。

やっぱりだめだったか。

宮司はいつも毎朝の境内の清掃は欠かさないようにって口酸っぱくいってるもんな……)


 真紅郎はこの潮江天満宮にやってきた頃はいくら元服の年だといってもまだ子供だったこともあって毎朝境内の清掃だけはやるようにと言われていたのだ。

 たまに寝坊したり、清掃を忘れたりしたときは相当怒られていたのだった。

 だからこそ、今日も何も連絡を入れずにこうして朝帰りしたんじゃ怒るだろうなとは思っていたのだ。


「ええ、そのような妖魔の遺物を持って帰ってきたのですからただの中級の妖魔というわけではなかったのでしょう。

それに関してはよくやったと言う他ありませんな」


 思わぬ誉め言葉にその通りだと言おうとした真紅郎だったがその柔和な表情では考えられないほどの怒気を感じてさしもの上級妖魔を倒したばかりの真紅郎であっても怯んで声も出せなかった。


「真紅郎殿、勝手に妖魔を退治しに行くようなことはしないようにとこの神社に世話になったときに最初に行ったはずですな。

それなのにどんな妖魔なのかもわからず向かって行くなど言語道断」


 ここにきてようやく真紅郎も宮司が自分が勝手に危険にもかかわらず妖魔を退治しに行ったということで起こっているのだということに気が付いた。


 真紅郎も別に長浜屋の報酬が欲しくて大蛇退治に向かったわけでもない。

 しかし、普通の人に見えるほどの妖魔とは一体どれだけ強い妖魔なんだろうかと興味本位で村に向かってしまったのは否定できないことだった。


「確かに真紅郎殿はお強い。

普通の妖祓いと比べても強すぎるほどに強いために余程の妖魔であっても大丈夫でしょうな。

しかし、今回はその遺物を見る限り上級にも届きうるほどの強大な妖魔。

何の情報も得ずに向かうのは不用心極まりないですな」

「……そうだな。

俺が悪かったよ」


 二人の間で沈黙が訪れる。

 その緊迫した空気を破ったのはやはり宮司だった。


「さあ、中に入りなさい。

それにその手当の様子から随分と瘴気にやられたようで。

早く体を清めなさい」


 真紅郎はそれに頷き、頭を切り替えてもう片方の遺物も持ってきたのだった。

 再度同じような遺物を持ってきたのを見た宮司はまさか二つも持ってくるとは思わずに驚愕で顔を引きつらせていたが。

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