壱1
あと一刻もしない内に日が沈むようなそんな時間に、真紅郎は一人傾きかけた日の光を背に受けて曲がりくねった田んぼ道を進んでいた。
「さて、ただ遊びに来ただけでいきなり依頼を引き受けたは良いが今回の対象の正確な場所は分からないからな。
一体、どうしたものか」
周囲の者が藁草履を履いて地味な着物を着ているのに対して、下駄を履き、着物に目が覚めるような白い羽織を着ている真紅郎はその腰に差している大小の刀もあって農作業を終えて家へと帰っている百姓たちの目に否応なく留まっていた。
流石に普通の人に自らの赤い髪を見せるわけにもいかないので、真紅郎のその特徴的な赤い髪が百姓たちの目に留まることはなかったのだが。
母を亡くしたあの時からもうすでに三年の月日が経った。
あれ以降、土佐高知に父宗紀による刺客が真紅郎の前に姿を現すことはなくなったが、宇和島藩士が土佐藩のお膝下である高知城下で刃傷沙汰を起こすような事態は普通であれば許されることではないのだ。
あの件は、人々の間で噂にはなっても当事者である真紅郎はもちろん山内家の分家である豊信や宮司でさえも藩に黙っていたこともあって大事には至っていないのだ。
それもあって宇和島藩の宗紀では現状真紅郎に対して手を出せないということもあるのだろう。
とはいえ、こうしてあの時から潮江天満宮の宮司の下で厄介になりながら、神主としてもそして妖祓いとしても宮司の手伝いなどをしていた三年間であった。
そういうわけで今日も宮司の手伝いで来たのかといえばそれは間違いであり、実はただ単に暇つぶしにと真紅郎は高知の港町である種崎にやってきているのであって、さあ帰ろうかとしたところを今回の妖魔の仕業と思われる事件にあれよあれよと関わっていくこととなってしまったのであった。
そうして一人で目的の村にまでやってきた真紅郎であったが、周囲の奇異の視線を気にするわけでもなく彼は自分を見ていた一人の百姓の男に声をかけた。
「ちょっといいか。
この村で大蛇が出ると噂の場所を教えてくれないか」
今さっきまで自分が奇異の目で見た刀を差しているいかにも上士のようないでたちをした真紅郎に話しかけられたことで何を言われるかと顔を引きつらせていた気の毒な男は、新九郎のその話を聞いて嫌そうな顔が驚愕に染まり、さらに恐怖へと変わっていった。
真紅郎が言ったこの村で大蛇が現れたという噂はつい最近のことではあるが、この村の者ならば誰も知らない者がいないくらいのことだった。
もちろん真紅郎が言ったようにその噂の場所はこの村では言われるまでもなく近寄ろうなどとは思いもしないが、立ち入りが禁止されていることもあって知らないわけではないのだ。
実際に、この噂によって死人が何人も出ているとあってはこの男が真紅郎から噂について聞いただけで恐怖するというのもおかしなことではないだろう。
「まさか、その場所へ連れて行けとでも?」
「そうだな。
俺は長浜屋の旦那にその噂になっている大蛇をどうにかしてくれと言われてこの村に来たんだ。
報酬もあるというのだから何もせずに帰るというわけにもいくまい」
真紅郎は目の前の顔を恐怖で引きつらせながらも自分に訪ねてくる男に対して苦笑を浮かばせながらもそう答えた。
今回真紅郎がこの村に来たのは、米問屋を商っている長浜屋という商人からの依頼のためだった。
突如、春先にもかかわらずため池が枯れてしまったのかその村の田んぼにひくための川の水量が少なくなってしまったのだ。
それを憂慮したある百姓がとりあえず一人でそのため池を確認しに行ったのだがいくら時間が経っても帰ってこない。
何かあったかもそれないとそれで今度は五、六人くらいの人数でそのため池に向かった際に、とんでもなくでかい大蛇がため池のある水の枯れたその場所に居座っているのだと唯一帰ってきた男が言ったのだ。
以降、そんなことは信じないとため池に向かった者の悉くが帰ってこなかったことからそのため池には大蛇がいるのだと噂になったのだ。
そして、そろそろ田植えの時期ということもあってため池の大蛇を何とかしてくれと村の人々が頼み込んだのがその村の庄屋で、その利権で米問屋も営んでいる長浜屋でもあった。
今回の件に際して長浜屋は、その村のためというのはもちろん庄屋としてそしてその土地から得た米を使って米問屋として商っている長浜屋の利のためにも種崎にいる浪人たちに対して巨額の報酬を餌に、あわよくば高知の実力者にでも届いてくれればと大蛇退治を昨日から触れ回っているところであった。
そんな中で偶然種崎に来ていた真紅郎が自分は高知の潮江天満宮の神主であると身分を明かして、自分がその大蛇退治を請け負うと一人で向かったのだ。
そもそも真紅郎はいつものように海を眺めるためというように何とも緩い理由で高知の港町でもある種崎へと何となくやってきただけだったのだから、こんな大蛇退治に偶然出くわすなど普通であれば運が悪い気もするが真紅郎にとっては運がよかったとでもいうべきだろう。
「そうですか、お武家様は庄屋様からの大蛇退治を請け負っていただきありがとうございます。
しかし、昨日から同じようにその場所に向かっているお武家様がいるのですがその者たちはいまだに帰っておりません。
その、それでもよろしいのですか?」
「ああ、問題ない」
真紅郎はその男の言葉を聞いて恐らく金に目のくらんだ浪人者たちがこぞってこの村に大蛇退治に来たのだろうことは考えるに難しくはなかった。
そして、真紅郎が思っている通りその大蛇がもし妖魔の類であればただの浪人であれば手に負えないであろうことは予想できた。
(話を聞く限りこの村に現れた妖魔は普通は妖魔が見えない者でさえその姿が見えてしまうほどの強大な妖魔なのだろう。
これでは並みの妖祓いでも難しいだろうが、俺ならばどうにかなるだろう)
男は自分はその場所まで案内したくはないからとその場所の詳細について話すだけに留めた。
さて、それでは教えてもらった大蛇のいる場所に行こうかというところで真紅郎はその場で立ち止まり、わざわざ勘違いされたままでいるというのも気持ちが悪かったため訂正した。
「一応言っておくが、俺はお武家様などではない。
高知の潮江天満宮の神主をしている鷹家真紅郎という者だ」
その言葉を聞いていた男や周囲にいた数人の百姓たちは、目の前にいる人物がただの浪人ではなく神社の立派な神主様だと聞いてもしかしたらあの化け物を倒してくれるかもしれないと今までやってきた浪人たちとは違って期待の視線を向けるのであった。
こうして目的地を男から聞いた真紅郎は一人でその場所へと向かって行った。
まだ日が沈んだわけでもないのに夕日の鮮やかな赤い光がなかなか届かないような暗い林の中を真紅郎は進んでいた。
普通ならば提灯などの明かりを持たなければ躓いてしまいそうなほどに薄暗い林の中を夜目の利く真紅郎はスイスイと目的地へ向けて歩いていく。
しかし、ヒリヒリと痛む肌にかすかに表情をゆがませる。
「この辺りに瘴気が集まっているということはやはり大蛇というのは瘴気溜まりから生まれた妖魔だったようだな」
どうせいつものことだというように火傷を負ったような皮膚の痛みを無視しながら前へと進んでいく。
真紅郎は、何故か普通の妖祓いでも特に問題のない瘴気でも体に触れると火傷を負ったようなけがを負ってしまうのだ。
なぜ自分だけこのようになるのかと宮司に聞いた時、そもそも半妖という存在を知らない宮司は理由がよくわからなかったため恐らく普通の人よりも尋常でない量の霊力を体に宿すためではないかということになった。
普通ならここで瘴気の塊ともいえる妖魔を退治する妖祓いになるのはやめるものだろうが、この膨大な霊力は妖魔に対しても有効であり、尚且つ自分自身についてを知るためにもやめるわけにはいかないと頑なに今もこうして妖祓いを続けているのである。
そうして真紅郎が痛みを背負いながらも辿り着いたその場所は、林の中とは違って夕日が差し込んでもおかしくないほどの広さのくぼ地だったが、真紅郎はまるで遮光カーテンでもされているかのような黒い幕で覆われているのが見てとれた。
「なるほどな。
これじゃあ、ただの浪人が何人挑もうとも帰ってこないはずだ。
まさかこんな土佐の田舎に中級どころか上級の妖魔が現れるとはな」
真紅郎の目の前にいたのは頭部だけで人の三倍もあるような尋常でない大きさの大蛇だった。
その体は神秘的な銀色に輝くうろこに覆われていたものの、その体の周囲には風情の欠片もない黒い霧が纏わりついていた。
その黒い霧こそ妖祓いにとっても敵となる妖魔を生み出す瘴気なのである。
そして、上級というのは天災のように人にはどうしようもない存在という意味で格付けされた特級の一段下の位であり、一流の妖祓いにしか退治できないような存在だ。
真紅郎に遅れてこの自分の居場所ともいうべき場所に現れた不届き者を認めた銀の大蛇はその小さな生物に対して口を大きく開けて威嚇する。
しかし、その威嚇に対して不敵に笑った真紅郎を見て大蛇は疑問に思った。
今までここまでやってきた者たちはすべてこの威嚇によって怯んだところで簡単に自分の餌となったのだ。
そのため、銀の大蛇はこの普通ではない者に対してようやく本当に警戒心を示した。
「とはいえ、上級といってもせいぜい中級でないという程度だ。
これだけの妖魔なら立派な遺物を残すだろうな。
さ、とっとと遺物だけおいて消えてなくなれ!」
「ギシャーーーーッ!!」
銀の大蛇は真紅郎の嘲り交じりの言葉に怒りを覚えたのか大口を開けて向かってきた。
真紅郎は大蛇がその身に纏う瘴気から逃れるように大きく大蛇の攻撃を避けた後に、妖魔を斬るために霊力を籠めた刀を抜き払って大蛇の銀の鱗に叩きつける。
その場に金属同士が衝突したような音が響き渡った。
「クソッ!」
真紅郎は刀を大蛇に叩きつけた反動を受けながら予想だにしない反応に驚愕を示した。
しかし、真紅郎がその反動を利用するように後ろに飛び去ると一瞬の油断も許さないとでもいうかのようにさっきまで真紅郎がいた場所に樹齢何百年の木の幹のように太い尻尾が叩きつけられていた。
さらに真紅郎が後ろに振り返りながら横薙ぎに振るった刀のその先には大蛇の人の身長ほどもある二本の牙があった。
「なるほどな。
流石は上級の妖魔ということか。
ただの妖魔にしては頭が回るようだし、それに鱗の硬さが尋常でない」
「グルルルゥゥゥ」
その言葉を聞いた大蛇はまるで獅子のように凶悪に地に響くような低い声を上げた。
ただでさえ巨大なその体にもかかわらず大蛇は真紅郎の小さなその体をそれ以上力押しすることはできなかったのだ。
そして真紅郎は瘴気を纏う大蛇に接近しているため、焼けつくような痛みが真紅郎を襲い、皮膚が黒く変色していっているのでそれが見て分かるほどに痛々しい。
しかし、真紅郎はそんな痛みなど感じていないかのようにニヤリと笑って口を開いた。
「しかし、残念だったな。
確かに俺以外の土佐の妖祓いが相手をしていればどうなったかわからないが、お前にとって俺を相手にしたのが運の尽きというやつだな」
そういうが早いか真紅郎の周囲には春先の冬でまだ寒いというのにユラユラと夏の昼間のような陽炎が揺らめいていた。
その様子を見てこのままではただでは済まないと直感した大蛇はすぐさま真紅郎から離れようとしていたが、彼はその大蛇の巨大な牙をつかんで離さなかった。
そして、その瞬間ほとんど太陽も沈んでしまったこの暗い林の中に小さな太陽が顕れた。
明るい輝きを発しながら発現した炎が真紅郎のいる場所を中心に大蛇の顔を焼いていた。
その尋常で無い熱さから逃れるように身をよじる大蛇から離れた真紅郎は、ついさっき収めたばかりの刀に手をかけて大蛇のほうを見ていた。
さっきまで黒く染まっていた真紅郎の髪はまるで暗い雲を払って出てきた輝かしい太陽のように赤く映えていた。
いまだに大蛇が暴れ狂うなか、抜き払った刀は先ほどとは打って変わって金色や黄色や赤が混じったような不思議な色合いの炎に覆われていた。
そして、赤い軌跡が一閃すると、その場に残ったのは人間の丈ほどもある巨大な牙が二つと鞘に刀を収めた真紅郎だけだった。
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