第8話 誘惑
二
忠興は宿の部屋で一人、考え事をしていた。
暗闇の中、宿屋の窓からじっと王宮を見つめながらガラシャの事を考えていたのである。
窓から入る風が、肌に心地いい。
ここは、ギルドから程近い、アルト一行の馴染みの宿である。二階建てのこの建物の内、四部屋をアルトらは、ひと月単位で借り切っているそうだ。
冒険者とは、中々実入りが良い仕事らしい。魔物の脅威が増えることは、依頼が増える、報酬が上がることにも繋がるのだった。
「遠慮はいりませんよ」
そう言ってアルトは自分の部屋に忠興を招いた。
部屋の中には、武具や衣類が散乱していた。それをアルトが手早く片付ける。
「いやー、散らかっていてすいません」
「ここは下宿兼倉庫みたいな物で……」
「もうちょっと、金が溜まったら……家でも買いたいんですけどね」
独り言を呟きながらも、アルトはテキパキと部屋を片付けた。何とか、一人分の寝床を確保することができた。
「ヨイチさんはベッドをどうぞ。俺は床で寝ますんで」
アルトがベッドを勧めたが、忠興は断った。
「いや、床でいい」
そう言って、床に毛布を敷く。
「ヨイチさんも、武具を外してそこら辺に置いておいて下さい」
「服も、着替えは俺ので良かったらどうぞ」
そう言って、平服を用意してくれた。
確かに、ずっと甲冑を着たままというのも変な話だなと、忠興は甲冑を外した。
白襦袢の上に紺色の直垂姿、足は草鞋である。
「その服も、仕立て屋に頼んだら作ってくれますかね」
「いや……でも、それ高そうですよね。流石に同じのは無理か……」
アルトが、直垂の細かな縫い目に目を見張る。忠興は、この世界に来るまで丹後田辺、豊後杵築合わせて十八万石の大名だったのである。
いわばこの世界での王であった訳である。服も庶民の物と比べられるはずがない。
その時、ドアをノックする音が聞こえた。
「おーい、アルト行くぞぉ」
サイモンが、やけに楽しそうな声を上げた。
「……」
不審がる忠興をよそに、アルトがいそいそとドアを開ける。
そこには、サイモンとコエンがいた。二人とも武装を解き、平服に着替えている。
「どこに……」
忠興が聞いた。
「飲んで、騒いで、女ですよヨイチ殿」
サイモンがその大きな声ではやし立てる。
「ああ……」
忠興は納得した。
生き死にの付きまとう冒険者稼業である。生きて帰ってきたなら盛大に楽しもうという人の在り方に、どこの世界も違いはないなと思ったのである。
「ヨイチ殿も行きますか。何、お金の心配は要りませんよ」
アルトが忠興を誘うが、忠興は首を振った。
「ヨイチ殿は聖女様にご執心だからな」
コエンが冗談を飛ばした。
そして、忠興はぞれからアルトの部屋で一人、王宮を見ているのである。
三人は、酒を存分に食らい、どこぞの娼館で女を抱いているのだろう。
「ヨイチさん、いるんでしょ」
ドアの向こうで女の声がした。
忠興がドアを開けると、そこにはユリィの姿があった。寝巻なのか薄いワンピースを羽織っただけの姿である。
手にはグラスを二つと、酒の入ったビンを抱えている。
「アルトたちはどうせ飲みに行ったんでしょ、ヨイチさんは行かないの」
そう言いながら、ユリィは部屋に入ってきた。
「よっ」
ユリィはそのままベッドに座ると、ビンの酒をグラスに注ぎ、忠興に差し出した。
「そんな事ばっかりやってるから、お金が貯まらないのよね」
ユリィは、自分のグラスにも酒を注ぎ、それをグイッと飲み干した。
忠興も受け取ったグラスの酒を飲む。
「お前は……」
忠興がユリィの顔を見た。
「何故、冒険者をやっている」
率直な疑問であった。何も女が好き好んでやるような仕事には思えなかったからである。
ユリィが意外そうな顔をした。
「私はね……小さな街の農家に生まれたの」
「そこそこ裕福だったんだけど、つまらなくてね」
ユリィがベッドの上で足をプラプラさせた。白い足が忠興の前で揺れた。
「それで、十歳の時に親に頼んで魔法の修行に出させてもらったの」
「近くの街に住む、引退した冒険者のところ……」
「その人に、色んな話を聞いたわ。凶暴な魔物を、魔法でなぎ倒すの」
ユリィは、さらにグラスに酒を注いだ。
「それで、私も冒険者になりたいなぁって思ったの」
「今は、楽しんでやってるわ」
グラスを掲げ、ユリィがほほ笑んだ。
忠興も、グラスを上げて応えた。
忠興も、朴念仁ではない。ユリィがやってきたことの意味は分かっていた。
(話し相手が欲しいとかではあるまい)
ユリィが立ち上がり、忠興の傍に来た。甘い香りが忠興の鼻をくすぐる。
そして、忠興と窓の間にその身体を差し入れてきた。
「何の真似だ」
我ながら愚問だなと忠興は思った。
「ねぇ、私とパーティーを組まない」
そう言うと、ユリィはその右足を忠興の足の間に入れた。二人の身体が触れ合った。柔らかな胸の感触が、忠興の鳩尾辺りに伝わる。
忠興は、あえて視線を下には向けず、ユリィの目を見た。
忠興は、美男子で知られた男である。
忠興と珠の結婚は、それぞれの父親である細川藤孝、そして明智光秀の主君であった織田信長が決めた物であった。
そんな二人を見て、信長は
「これはお似合いの二人じゃ」
と喜んだ。
ユリィの右手が、忠興の頬に触れた。
「私……アナタとなら、もっとすごい冒険ができると思うの」
囁くように言う。すでにその顔は、忠興の胸元にピタリと寄り添っていた。
「……」
忠興は困っていた。
すでに、ユリィの左手は忠興の腰に回されていた。
忠興は、下げた自身の両腕をどこに持っていくべきか悩んだ。
彼自身、正妻である珠以外にも側室はいた。その点においては、他の男と同じである。
ただ、彼は珠にだけは驚異の執着を見せた。
身体は、他の女も抱けるが、心は珠にだけ捧げていたのである。
「ねぇ……」
ユリィの指が優しく、忠興の顔を撫でた。頬から鼻に触れる。
忠興には、顔に二つの傷があった。額と、そして鼻の上の真一文字の傷である。
額の傷は、忠興自身が誇った武功の傷であった。
忠興が初陣の折、怯む味方の先陣を切って敵の城壁をよじ登り、その際に敵方の投石により受けた傷であった。
しかしその結果、戦は大勝、主君の織田信長は喜びのあまり、自ら筆を執り感状を書いたのである。
「これが、その時の傷じゃ」
忠興は、その傷を誇り、それを人に自慢していた。
しかし、もう一つの傷、鼻の傷を受けてからというもの、忠興の前では顔の傷の話は禁句となった。
この鼻の傷は、戦で受けた物ではなかった。
実の妹である伊也に斬りつけられてできた物であった。
丹後攻略に手を焼いた忠興の父藤孝は、娘の伊也を敵将一色義定と結婚させることで分割統治の話をまとめた。
しかし、本能寺の変の後に再び両者は対立、忠興は講和を持ちかけて、やってきた義定をだまし討ちにしたのである。
その後、実家である細川家に戻った伊也であるが、亡き夫の仇とばかりに、忠興の顔をみるや小刀でいきなり斬りつけたのである。
咄嗟に忠興は躱したが、鼻の上を真一文字に切り裂かれたのであった。
「女に付けられた傷」
ということを忠興は気にし、以後、忠興の前では顔の傷の話はタブーとなったのである。
「勇ましいわ……」
ユリィは勿論、そんな事情は知らない。
忠興の鼻の傷を、名誉の負傷の物と捉えたのだろう。ゆっくりとその傷を撫でた。
「うぬっ」
忠興に突如、振り払われてユリィは驚愕の顔を見せた。
「出て行け」
忠興は、本来は女にも容赦のない男であるが、一宿一飯の恩は分かっていた。
「部屋に戻れ」
もう一度言った。
ユリィは、髪をかき上げると
「お堅いんだから」
と、妖艶な笑顔を見せた。
「聖女さまが奥さんだなんて確証もないのに……でも、一途なのね」
「私なら、いつでも待ってるわ」
ウインクをして、部屋を出て行ったユリィを見送りながら、忠興は
(何か心得違いをしているな)
と、感じていた。
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