第6話 ナウマン教団

 風の谷は、かつての三王国、水の森、火の丘、土の里に囲まれた谷に位置している村落共同体だった。水の森から流れてくる水が巨大な川となり、谷の真ん中を横切って、大陸の端から海へとつながっている。一年を通じて谷は湿気が多く、他国に比べて薄暗く陰気な土地である。寒冷地でないとはいえ、谷は作物が育ちにくく、家畜の飼育にも適さない。川や海で取れる魚が貴重な食糧となっている。物質的に決して豊かとはいえないが、それでも人々は共同で土地を管理し、わずかながら小麦や野菜を栽培して生活していた。

 更生不可能とみなされた犯罪者たちが、他国から流刑として送られてくることがしばしばあった。谷の人々は、そういう彼らにも温かく接して仲間として迎え入れた。風の谷では相互扶助の精神が根付いていたからだ。そのため、貧しい村であるが、排他的ではなく、社会階層もなく、社会的弱者も存在せず、ひずみのない社会で人々は日々を過ごしていた。

 しかし、そんな人々の暮らしも今は昔のことだ。15年ほど前に自然災害が何度か谷を襲い、その結果、田畑や住居など生活の基盤が失われ、大勢が命を落とし、住人たちの生活はより過酷になった。そして、困っている者に手を差し伸べる余裕が、人々から失われていった。今では、風の谷に長い間受け継がれてきた概念はなくなり、社会はがらりと変わってしまった。風の谷は村落共同体ではなく、宗教集団が統治する国へと変化したのだ。

 ナウマン教、教祖ウマシカが始めた新興宗教であり、遺伝子研究によってナウマン象を復活させ、その力をもって世界を征服しようと企む宗教集団である。その理念は教団幹部から一般信者まで浸透している。風の谷の住人の大半がこの教団に属している。信者たちは皆、教団の理念に賛同し、自ら望んで入団した者ばかりだ。他方で、信者ではない谷の住人たちは、ごく平凡に生活している。住人も教団もお互いに干渉し合うことなくである。

 安全網がしっかりと機能しなくなった結果、谷では浮浪者や孤児が増えた。ナウマン教団が独自にそういう者たちを救済してはいるが、それも完全ではない。教団に救われたからといって入信しなければならない決まりなど教団にはないし、教団もそれを強制しない。だが宗教から距離を置きたい浮浪者もいるし、宗教を怪しむ孤児もいる。何にせよ、谷から、あたたかみが感じられなくなってしまった。


 そんな風の谷の外れに、ナウマン教団の本拠地がある。そこの最深部に、2500㎡くらいの大きなプールがある。その脇に大掛かりな実験装置が並んでおり、数名の教団信者が何かの実験に従事している。太い何本もの管が装置からプールの中へとつながっている。水中から空気が上がってきてゴボゴボと音を立てている。装置の前の一段高くなった所から、白衣を着た若い男がプールの中を覗き込んでいる。そこへ教祖ウマシカがやって来る。

「どうだ、ドクター?」

「順調ですよ、ウマシカ様。どうぞご覧ください。心臓の動きが活発になってきました。血液の循環もすこぶる順調です。牙にあったひび割れもほぼ回復していますね。なんと美しい牙なんでしょう。思わず見とれてしまいます。あ、これは失礼を」

 ドクターと呼ばれた男はたくさんある機械のレバーやボタンを触ったり、何かメモを取ったりしながら教祖に応対している。

「もうすぐナウマン象が復活するのだな」

「はい、あと数週間もかかりますまい。いや、早ければ数日で復活するかもしれません。世界中がナウマン教にひれ伏す時が来るのは、もうすぐですよ、ウマシカ様」

 この男、やせ形で背が高く、すっとぼけた顔つきをしている。眼鏡をしていてよく見えないが、教養のある目つきをしていることが知的な雰囲気からうかがえる。しかし、すっとぼけた感じの、いわゆるマッド・サイエンティストである。

「もうすぐか……われわれは、ナウマン象の復活をずっと待ってきた。ナウマン象こそがわれらナウマン教の象徴。ナウマン象の復活こそが、ナウマン教の全ての信者を結びつけてきた。もうすぐか……」

「はい、私は身震いがしてきましたよ、ウマシカ様。では、信者へのご報告を」

「うむ。もうひとつの研究のほうもよろしく頼むぞ」

「おまかせを」

 ウマシカはほんの少しうなずいて、その場から去って行った。

「おい、実験用モルモットの選別は終わったのか?」ドクターが信者に尋ねた。

「はい、すでに終わってます」

「では、今から会いに行こうか」

「はっ」

「活きのいい奴はちゃんとそろってるか?」

「はい、若くてのいい奴を数人選んであります。年寄りにも怒りのレベルが高い連中がいましたが、そいつらは除外しました」

「ふむ、強靭な肉体に越したことはないからな」

「ただ、一人だけ女を選びました。四六時中叫びまくってまして、怒りのレベルは最高でしたので――」

「そうか、見てみよう。土の里の近衛師団長だった男はどうだ?」

「私たちも期待していたのですが、あの男は完全に戦意を喪失しておりまして、抜け殻みたいになってます。使いものになりません」

「ほう。そういえば、自分のことを王族だと言っていた男がいたが、どうだった?」

「全くの期待外れでした。その男には怒りが全くありません。怒りよりもむしろ、悲しみや後悔の度合いのほうが強かったので、除外しました」

「ふむ、わかった。できる限り早く実験に使いたい。会ってみて、私が三人選ぶ」

「はっ」

 ドクターと信者は話しながら、ウマシカとは別の通路へ歩いて行った。


 ウマシカがある広い空間に着くと、そこにはすでに数百人の教団信者が整列していた。皆きれいに並び、教祖が来るのを待っているようだった。ウマシカは壇上に上がり、信者らをゆっくりと見渡し、そして語り出す。

「皆の者、ナウマン象への最後の遺伝子注入が先ほど完了した。早ければ後数日で、ナウマン象は覚醒する。そうなれば、われわれの願いがいよいよ現実へと近づくのだ……」

 ウマシカは一呼吸おき、歯を食いしばり、唇をかみしめてからまた話を続ける。

「忘れてはならぬぞ……。われらの恨み、今は亡き谷の者たちの恨み……。必ずや晴らすぞ!」

 やや感情的になり語尾を強めて言い切った。聴いていた信者たちの表情が引き締まる。

「おおおーーーーー!」

「ウマシカ様、万歳!」

「ナウマン教、万歳!」

 地響きが立つような大きな声で信者たちは繰り返し何度も叫んだ。

 ウマシカは高ぶる気持ちをあらわにし、信者たちを見つめていた。その瞳は一点の曇りもなく澄んでいた。

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