第10話 外国人
早朝、尿意があり、フリーダは長屋から出て、厠へ行った。いくら屠殺場の朝が早いとはいえ、まだ寝静まった者がほとんどである。
帰り道、長屋の前で、誰かがうつ伏せに倒れていた。誰だろうと思った。髪の色は、黒ではなく、栗毛。この卑賎民地区の人ではない。
「あの、だいじょうぶですか?」
屈んで声をかけた。ゆっくりと顔を上げる。男の人だった。瞳の色も黒じゃない。緑色だった。
男性は必死でなにかを訴えていたが、聞いたことのない言葉だった。身振りでなにかを主張しようしている。
「ん? なんですか? お腹でも空いてるんですか?」
フリーダも必死で口元やお腹に手をやった。
男性は首を何度も縦に振った。やはりお腹が空いてるんだ。
フリーダは走って屠殺場へ行き、薫製肉を持ってきた。むさぼるように食べ始めたが、途中、歯を指差した。どういう意味かわからなかったが、男は最後まで食べきった。
首をあちこち振って、周りを気にしている風である。
「どうしたの? なにかに追われているの?」
とはいっても、ここには長屋やここに暮らす住人がいるくらいものだ。
「待って。今、頭領に聞いてくるから」
立ち上がろうとしたとき、裾を引っ張られた。首を横に振っている。
「やっぱり、誰にも知られなくないんだ」
だが、この男の人をここに置いておくわけにいかない。
フリーダは裏山に案内した。ここには、古代の人々が住んでいたと思われる洞窟があった。これまでの経験上、この裏山には、人々の誰一人として見かけたことがない。隠れ場所としては、最適な場所だろう。
「ごめんなさい。こんなところしかないけど、我慢してね。食べ物は、その都度、持ってくるから」
フリーダは急いで自分の寝床に戻った。
この日は、月に一度、マクマード町に市の立つ日だった。アムゼン村へ来てから初めての市ということもあり、オルヴィスとフリーダはふたりで連れ立って出かけた。
荷車は山盛りになっている。大量の薪に丸太、森で採れた果実や木の実、まだ生きているニワトリに、畑で採れたじゃがいも。それから、丸々子ウシ二頭に、保存の効く薫製肉、小分けにしたウシやブタの各種部位、なかなかの山積みなので、オルヴィスとフリーダはふたりで荷車を引いた。
「ここに来るのは、いつ以来だろうなあ」
「まだそんなに経ってないよ。ライナ村にいた頃だから」
「そうか?」
「そうだよ」
「それにしても、ここは、いつ来ても活気があるね」
「オレ、この雰囲気好きだぜ」
各町から集まった人々が、客を集めるため、大声を張り上げて口上をうたい、客の奪い合いをしている。だいたい、こういう交易は、商人がやることが多いのだが、二人の生まれ故郷であるライナ村や今いるアムゼン村は、規模が小さいので、商人という身分の者自体が少なかった。だからこうして生産者みずから売りに来ることもよくあった。
いい場所はすべて埋まっていたが、聞いたことのない村から来た商人が、すべて売値で買い取ってくれた。従者の少年は、二人よりもまだ若い年齢だった。
二人は、その後、各店を回り、米三俵と一ヶ月分はあるチーズの塊を十個と桃やリンゴなどの果物、オルヴィスはノコギリ、かんな、フリーダは、ゴムエプロン、ゴム手袋、長靴をそれぞれ仕事のための道具を買った。
荷車を引いて市のメイン広場まで来たとき、フリーダの足が止まった。
「どうした?」
「ちょっと待っててオルヴィス」
フリーダは荷車から手を離すと走っていった。
「おいどうしたッ」
ちょっと待てと言われても、道のど真ん中である。オルヴィスはゆっくり荷車を引いて、フリーダの後を追いかけた。
フリーダは、鍜治屋の前にいた。
「おばあさん。わたしのこと覚えてる?」
一人のちんまりした老婆が鍛冶屋の前で樹皮を削るような小刀を手にしていた。老婆は無言で、丸太に刃を当てて、小刀の切れ味を試している。店主は切れ味をアピールしていた。
「ほうほうほう」老婆は歯の抜けたような声でフリーダを見た。「おぬしは、いつかの親切者じゃ。わしにお金を恵んでくれてありがとう」
めずらしくフリーダは声を荒げた。
「親切者ですってッ! 置き引きしただけじゃない! お金返して!」
老婆は眉間に縦皺を刻み、小刀をじっと見ている。
「すまぬ。孫のためじゃ。病気がちでのう」
フリーダの口角が上がり、ころっと態度を変えた。
「なあんだ。それじゃ仕方ないね。お孫さんのためなら」
「仕方ないのかい」追いついたオルヴィスがツッコんだ。「どんだけお人好しなんだ、オマエは」
老婆が小刀を置いて、そのまま立ち去ろうとしたところを、今度はオルヴィスが止めた。
「待てよ。ばあさん。本当に孫が病気がちなのか、オレたちをアンタの家まで連れていってもらおうじゃねーか」
「ちょ、ちょっとやめてオルヴィス」
「なんだい。さっきまでは金返せ、と言ってたくせに、今度は一転してばあさんの味方かい」
オルヴィスは譲らなかった。仕方なさそうに老婆は、とぼとぼ歩いていった。
「遅せぇな。とっとと歩け」
「オルヴィス、おばあさんなんだから、そんなに早く歩けっていったって…」
「なんだ、オマエ。このばあさん、オレたちの荷物かすめとっていったとき、めっちゃダッシュで逃げていったこと忘れたのか?」
「あ」とフリーダが間抜けた声を上げた。かといって老婆の足が特別速くなることもなく、アムゼン村へ向かう途中にある小道を通って森の中へ入った。
「こっちじゃ」
今にもつぶれそうな小屋があった。外に魚を干してある。
「入れ」と老婆が言った。
「おじゃまします」申し訳なさそうにペコペコしながらフリーダが先に入った。続けて、オルヴィスが憮然とした表情で「おじゃッス」と口にして入ってゆく。
「なにそれ」とフリーダがくすくす笑っている。
「笑うんじゃねーよ」
「コニー、今、おばばが帰ったぞよ!」
別室へ行ったら、六歳ほどの子供が寝台に横たわっていた。
「おかえりなさい、おばば」
コニーと呼ばれた子供は、上体を起こした。
「あれ? …そちらの方々はどなたですか?」
「市で会うてな。オマエの見舞いに来たいそうで、一緒に来てもろうた」
フリーダは、オルヴィスを肘で突いた。小声で呟く。
「オルヴィス。やっぱお孫さんいるじゃない。疑っちゃダメよ」
「お、おう、そうだな。おばば、疑って悪かったな」
オルヴィスは、恥ずかしそうに頭をかいた。
「…ねえ、オルヴィス。お見舞いに来たんだから、なにか栄養になるモノあげないとダメよね?」
「ああ、このパターンはそういうパターンだな。やるか」
オルヴィスは外に戻って荷車から桃を二個持ってきた。老婆に差し出した。
「これ、孫にやれよ」
「いいの? おにいちゃん」コニーが笑顔になった。
「いいぜ。やる。病気は良くなったのか?」
「なったよ。いっぱい栄養のあるモノ食べたし、お薬も飲んだ」
「そいつはよかったな」
フリーダがまた肘で小突いてくる。
「…有り金、全部盗まれた甲斐あったね」
「イヤ。オマエ、小声でぼそぼそうるせぇな。ちょっと黙っとけ」
フリーダはしゅんとして縮こまった。
「ありがとうありがとう」
両手をこすり合わせて老婆は低姿勢で礼を言った。そろそろ帰ろうと外へ出たら、老婆がついてきた。
「オマエさんたちの持っていた
熊胆とは、クマから切り出した胆嚢を乾燥させて作った薬で、滋養強壮など、様々な薬効があることで知られている。これは、薬として非常に価値が高く、とくにカースト最上位にいる人々が購入するくらい高価なもので、その一丸で、米俵十俵と丸々牛一頭とブタ一頭分合わせたほどの高値で取引される。
その熊旦は、ライナ村を出奔したときに、友達のガードリアスが餞別にとフリーダにくれたものだった。
「本当にありがとうありがとう」老婆は両手をすりすりした。
「いえ…。お孫さんのお役に立ててよかったです。お大事にして下さい」
どこまでもお人好しのフリーダであった。
帰り道、彼女はあの外国人についてオルヴィスに相談しようと考えていたが、彼の横顔がいやに真剣で、話しかけづらい空気だった。
結局、この日は言えずじまいだった。
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