さわりし神に救いあり

白き悪

素戔嗚篇

第一話 さわらぬ神に祟りなし

灯醒志ひざしって、まるでヒーローみたいだね」


 春の木漏れ日が心地良い昼下がり。妃香華ひかげが僕に、そう語りかけてきた。


「僕が? こんなに臆病で弱っちいのに?」


「ううん、そんなことないよ。だって灯醒志はわたしが困ってたらいつだって助けに来てくれるもん。わたしを守る、かっこいいヒーローなの!」


 これは昔の記憶の追体験だ。当時まだ幼かった僕は、妃香華の言葉にすっかり舞い上がってしまった覚えがある。


「そう言われると照れるなぁ。よし。それならこれからも、妃香華が困ってたら僕が絶対に助けるよ!」


「ほんと? 絶対、約束だよ!」


「うん、約束する。僕は妃香華のヒーローになる!」


 僕は胸を張って宣言した。


──刹那、世界は暗転する。


「嘘」


 妃香華の口から、怨嗟えんさの言葉がつむがれた。

 今度は記憶にない光景。これは僕の罪責意識が生み出した、ただの妄想だ。

 しかし、そうとわかっていても逃げることはできない。否、逃げることは赦されない。

 妃香華に何をされたとしても、僕には文句を言う資格なんてないのだから。


「あのとき、わたしを見捨てたくせに。わたしを、助けなかったくせに」


 妃香華の言葉と共に、深い闇が僕の身体を侵していく。

 末端から中枢へ、じわりじわりと感覚が融けていく。


「どうして? ねえ、どうして助けてくれなかったの……?」


 その悲痛な声に答えようとしたが、なぜだか声は出なかった。

 そして、そのまま僕という存在は奈落の底へと沈みき──


 ハッと目を開けると、そこは自室のベッドの上だった。

 またあの夢を見てしまった。やはり僕は妃香華のことに対して、未だに心の整理がついていないのだろう。

 はぁ、とため息をつきながら時計を見る。起きるにはまだ早すぎる時間だった。しかし今は二度寝したい気分でもないし、かと言ってとくにやることもない。

 とりあえず少し外の空気でも吸ってくるか。そう思い、僕は家を出て適当に歩き始めた。


 早朝なので人通りはほとんどない。たまに散歩しているお年寄りに遭うくらいだ。

 当て所あてどなく進み、僕は近所の河原に辿り着いた。この時間の河原に吹く風は冷たく、あの夢がぐるぐると繰り返されている僕の頭を冷やしてくれる。

 このまま川沿いを歩いていけば少しはこの想いも振り切れるだろうか、なんて。できもしないことを考えつつ、適当に一歩を踏み出したそのとき──


 突如として目の前の景色が一変した。


 一瞬前までは静寂に包まれていたはずの河原が、気付けば光と音の洪水に呑み込まれている。

 唐突な変化の先にあったのは、網膜に張り付いて離れないのではないかと危惧してしまうほどに鮮烈な光景だった。

 竜巻が。雷が。光の槍が。半透明の壁が。これまでは見えず、聞こえなかった多くのものがいきなり現れ、互いにぶつかり合っている。


 そして。

 そんな理解不能な現象の中心に、二人の人物が相対していた。

 一人は荒々しい雰囲気の偉丈夫。一目見ただけで只者ではないと感じ取れるほどの凄まじい圧を放っている。その眼光の鋭さたるや、少し睨んだだけで人を卒倒させてしまいそうなほどだ。

 もう一人は巫女服を着た少女。こちらは対照的に、華奢で儚げな雰囲気をしていた。陶器のように真っ白な肌や美しい濡羽色の髪からか、どこか浮世離れした印象を受ける。


 こんな得体の知れない現象の渦中において、両者とも全く動揺していないようだ。

 いや、そもそもの話、あの二人とこの超常現象の間にはなんらかの関係性があるように見受けられる。

 それぞれの視線の動きや超常現象の生じ方に、ある程度の規則性がうかがえるのだ。


 男の瞳から生じた雷が少女へ牙をくと、まるで少女を守るように半透明の壁が展開される。

 逆に少女の側から男へ光の槍がはしると、男が腕を振るったことで生じた風が竜巻となってそれを薙ぎ払う。


 それが意味するところなんて、わからないままでいたかった。だけど、いくら脳味噌りせいが理解を拒んでも、胸の動悸ほんのうしきりに警告してくる。

 いい加減に認めるべきだ。

 この恐るべき超常現象は、あの二人が意識的に操っている、乃至ないし生み出しているもの。とどのつまり、彼らにとっては攻撃や防御にすぎないと。


「⋯⋯っ!」


 その結論に達した瞬間、僕は思わず息を呑んだ。

 この現象をあの二人が意のままに操れるとしたら、それを見てしまった僕はどうなる。最悪、あの超常現象の矛先がこちらに向いてしまうのではないか。

 ぞくり、と背筋が寒くなる。凄まじい閃光と爆音のおかげか、向こうは僕の存在に気付いていないようだが⋯⋯このままここでほうけていたら、見つかるのは時間の問題だ。


──とにかく目立たないようにしないと。そう考え、うのていで近くの岩陰に身を隠す。

 何という場面に遭遇してしまったんだ。心の整理をつけようとここへ来たのに、これじゃあ余計に混乱してしまう。

 とにかく、一旦ここは落ち着こう。冷静になって、これからどうするのかを考えないと。

 そんなふうに思っていた矢先。突如爆音が止み、辺りは静寂に包まれた。


「まさかここまで耐えるとはな」


 唐突に、男が口を開いた。もしや気付かれてしまったのかと一瞬あせったが、どうやら彼は少女に話しかけているだけのようだ。


「さすがソレを預けられるだけのことはある。だが、いくら優秀でもこの俺には勝てない。そんなこと、おまえならとっくに分かってんだろ?」


 話を聞く限り、男と少女は敵対関係のようだ。

 やはり先ほどの超常現象は、互いの持つ特殊な力をぶつけ合い戦っていたとみて間違いないだろう。そんなふうに考えている間にも、男は威圧的な言葉を続ける。


「だったら早くソイツを寄越せ。さもないとおまえ――」


 信じられないほどの軽さで。

 それでいて、すべてを押し潰すような重圧をともなって。

 男は、残酷な一言を口にした。


「死ぬことになるぞ」


 死ぬことになる。つまりこいつは、今ここで少女を殺す、そう言っているのか。

 なんとかしないと。あれこれと考えていた頭の中が、その一事で埋まる。


 だがそうは言っても、所詮僕はただの一般人だ。こんな得体の知れない状況を前にして、できることなど一つもない。

 それに、この少女と僕は全くの無関係、赤の他人だ。この場で少女が殺されたとしても、僕の人生は何一つ変わらない。

 そもそもの話、偶然この場に居合わせてしまっただけの僕には、この二人が戦っている事情すらわからないのだ。下手に関わっても、より事態を悪化させてしまう可能性のほうが高い。

 何より、これ以上関わったら僕自身が危険な目に遭ってしまうだろう。そこに地雷があると知っていて自ら突っ込んでいくようなものだ。そんなことをするほど、僕は馬鹿ではない。


 さわらぬ神に祟りなし。関わらなければ、見て見ぬ振りをして逃げてしまえば、少なくとも自分の身に火の粉が降りかかる心配はない。

 だから選択肢は一つだけだ。隙を見てこの場から逃げ出すしかない。

 それなのに。それなのに、なぜ。

 この足は、一向に動こうとしないんだ――


 そんな中、少女がゆっくりと口を開いた。


「私は、これを渡すつもりはありません」


「そうか――ならばここで死ね」


 冷たく言い放ち、男は少女目掛けて突撃する。

 それとほぼ同時。少女の前に半透明の壁が再び出現した。今度は先ほどのものより堅牢そうに見える。

 そして両者はぶつかり合った。一瞬拮抗しているようにも見えたが、少女を守る壁に少しずつひびが入ってきている。このままでは少女の方が押し負けるだろう。

 おそらく、逃げるにはこれが最後の機会だ。これほど凄まじい力がぶつかり合っている最中なら、彼らとて周りに気を配る余裕なんてないだろう。

 だけど。


――どうして? ねえ、どうして助けてくれなかったの……?


 ここにきてまたあの夢が、僕の意識に喰い込んできた。


 わかっている。

 今目の前で起こっていることと妃香華との間には、なんら関連性などない。


 わかっている。

 ここで何をしようと妃香華は戻ってこない。


 わかっている。

        わかっている。

               わかっている。


 だけど。それでも。

 関わらなかったせいで、見て見ぬ振りをしたせいで、起きてしまった悲劇。

 今、それを再び繰り返してしまったら、僕は──


「うぉ、あ、うぁあぁぁぁあああああ⋯⋯っ!」


 悲鳴にも似た情けない雄叫びを上げて僕は岩陰から飛び出した。

 今まさに崩れ落ちた壁と、その余波で尻餅をついた少女。その間へと強引に割り込む。


「えっ……」


 驚きの表情を浮かべている少女を突き飛ばし、攻撃の着弾点から外した。その瞬間、


「ぐは……ぁっ!」


 僕の身体に凄まじい衝撃がはしる。壁を壊した男の攻撃が、そのまま僕に当たったのだ。

 ということは、あと一歩遅かったら少女に攻撃が当たっていたのか。ギリギリだったが、なんとか間に合った。僕の行為は無駄にならずに済んだのか。

 いや、まだだ。せめて少女をこの場から逃がすくらいはしないと……そう思って立ち上がろうとしたが、それは無理だった。


 それもそのはず。僕の首から下は、完全になくなっていたのだから。


 痛みを感じる間すらなかったから気付かなかった。あろうことか、さっきの攻撃だけで胴体が残らず消し飛ばされてしまったようだ。一撃でこれじゃあ世話がない。まったく、ヒーロー気取りもいいところだ。

 僕にできたことなんて結局、少女に当たるはずだった攻撃を無様に肩代わりしただけ。しかもたったの一撃だ。なんて格好悪い結末だろう。

 やっぱり僕はヒーローなんかじゃなかったんだよ、妃香華。


 ああ、意識が遠退いていく。もうすぐ僕は死ぬのだろう。

 僕みたいな奴は、きっと地獄に堕ちるだろうけど。それでも、もし生まれ変わることが赦されるのなら。次は妃香華もあの少女もちゃんと助けられるような、そんな存在に……

 そんなことを考えながら、僕の意識は闇へと落ちた。

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