このお部屋いかがでしょう

美月 純

このお部屋いかがでしょう

「このお部屋いかがでしょう?」


「ん、いいね」

「でしょう。元々分譲ですから、造りもしっかりしてますし、何よりこの眺め、十七階ですからね。夜景もきれいですよ」


「まぁ、男の一人暮らしですから、夜景も何も……」

「いえいえ、彼女とか来るんでしょう?!」


不動産屋はにやりと笑みを浮かべ肘で小突くまねをした。


「まっ、いいです。ここに決めます。会社契約出来ますよね?」

「もちろんです。今は借上げ社宅の方が、信用度が高いので大家さんも喜びますし」


こうして、俺は、ここに次の住処を決めた。


二ヶ月前離婚して、タイミングよく先月五年ぶりに転勤になった。

住まいを変えれば、少しは気持ちも変わるかもしれない。

そんな期待と共に、引越しを決めた。



「この荷物は?」

「あぁ、そっちの六畳間に置いてもらえますか」


男の一人暮らしで、さほど荷物もないが、別れた女房からせしめたテレビやパソコン、箪笥たんすなどもあったため、さすがに一人では運べず業者を頼んだ。


引越しも一段落ついた。


こういうところでは、やはり近所に挨拶とかをするものだろうか?


高層のまるでホテルのような内廊下の立派なマンション。

住人はそれなりにステータスのある人間なのだろう。

俺のような、会社の借上げ社宅として、リロケーションの物件を借りている住人なんて、気にも留めないだろう。


離婚してから、人付き合いというものに辟易へきえきしていた俺は、結局となりへの挨拶すらしなかった。


『ばったり会ったら、それとなく挨拶すればいいだろう』


そう、自分に言い聞かせ、もうそのことは考えないことにした。


翌朝、そのマンションから初出勤した。

幸いなことに、エレベータホールでは誰とも会わず、エレベータでも誰とも出くわさなかった。


玄関にいるコンシェルジュの女性だけが


「いってらっしゃいませ」


と、ちょっと背中がむずがゆくなるような言葉をかけられただけだった。



夜七時過ぎに帰宅した。

職場も初日でやや緊張したせいもあり、ちょっと疲れた。


着替えて、近所のスーパーで買ってきた惣菜をレンジで温めつつ、缶ビールを開けた。


立ったままビールをグイッと飲み干すと、少し緊張が和らぐ気がした。


酢豚をつまみに、一缶飲み干すと、それだけで、腹は膨らみ、もう何もいらなかった。


三ヶ月前までは、夫婦二人だったが、不規則な生活の中でも、飯だけはしっかり食っていたので、太ってしまったくらいだったが、今はすっかり昔の体重に戻って、はたからもゲッソリしていると言われる。


もう、どうでも良かった。

このまま死んでも、誰も悲しむ人間はいない。

両親はすでに他界しているし、兄弟や親戚は一切いないから、唯一一緒だった女房からも愛想をつかされた時点で、誰一人「身内」はいなくなった。


貯金も慰謝料でほぼ消えたし、あとは毎月入ってくる給料がどれくらい残るかだけで、たとえ残ったところで、相続する相手は誰もいない。


ただ、自分から死ぬ勇気はなかったため、ひたすら簡素な生活をして


「自然死」


を待っている。


そんなことを考えていたら、いつの間にか寝ていた。


翌朝は土曜日で休みだった。

南西に面した部屋だったので、午前10時過ぎに目覚めた俺にまぶしい南からの陽光が差した。


「ふーん、高層マンションはやっぱ日当たりがいいな」


むっくりと起き上がると、何となくその光に誘われたのか、


「洗濯するか」


という気になって、引っ越す前から溜まっていた衣類を洗濯機に放り込んで、スイッチを入れた。


その間に、久しぶりに朝食を食う気にもなって、一応買ってあった食パンをオーブントースターに仕込み、タイマーを入れた。


そして、おもむろにフライパンを出し、火を付け、油を敷いて、ハムと卵を出し、ハムエッグを作った。


チンッ!


ちょうどパンも焼けて、12畳もあるリビングにポツンと置かれたコタツに並べ、ついでに暖めたミルクも添えて、それはりっぱな朝食になった。


テレビを見るともなく点けながら食事を済ますと、ちょうど洗濯が終わっていた。


ベランダに出ると、冬のひんやりとした空気ではあったが、降り注ぐ陽光が、じんわりと頬の辺りを暖めていくのを感じた。 


洗濯物を干し終わると、何となく散歩に出たい気分になり、着替えて、身支度を整え、玄関から出た。


すると、初めて、その階の住人の一人に会った。


「おはようございます」


相手は、40代半ばくらいだろうか、おそらく主婦だろう。


「あ、おはようございます。

あれ?最近ここへ来られました?」


「あ、はい。そうなんです。一昨日越してきました」


初めて言葉を交わしたが、俺が一昨日ここに越してきたことは知らない感じだった。


このフロアにはおそらく10軒くらいが入っているので、住人同士もさほどお互いに関心を寄せていないのだろう。


一応会えば挨拶くらいはするが、それ以上は干渉しないのが、暗黙のルールらしい。


エレベーターの中でも、特に会話もせずに、1階まで降りた。


すると、1階のエレベータホールに3人ほど住人が待っていた。

俺の前に降りたその主婦を見るなり、その3人が挨拶を交わすと、とても親しそうにしゃべりだした。


「あら、奥様、おでかけ?」

「あら、奥様も、お出かけでした?」


「そうそう、今日はあそこのスーパーで、特売やってましたから、朝いちで、いっちゃったわ」

「あら、出遅れたかしら、私も今から行こうと思って」


そんな良くある主婦の会話をしていたのを横目に、俺は一人玄関の自動ドアを抜けていった。

その瞬間、何となく背中に視線を感じたが、気のせいと思い、そのまま歩み続けた。


予想通り気持ちのいい天気だ。

日向にいればコートが要らないくらい暖かい。

やはり地球は温暖化しているようだ。

人類の進歩と共に、その恩恵を受けていた自然を破壊し、結局は人間にしっぺ返しがきて、近い将来人類は滅ぶのだろう。


散歩の気持ち良さとは裏腹に、そんなことを考えながら散歩を続けていた。


街中をぐるっと回って、マンションに帰った。

途中コンビニで晩飯の材料(といっても弁当だが)を仕入れ、缶ビールも2本ほど買い込み、玄関の自動ドアを入ると、先ほど会った主婦たちが、まだそこにたむろしていた。


あれから小一時間経っていたが、一向に飽きる気配もなくおしゃべりが続いていたようだ。


『あれじゃ、もう特売は終わっているな』


一人心の中で笑っていたが、そう思った瞬間一斉にその主婦たちがこちらを振り返った。


あまりにタイミングが合っていたので、驚いた顔をした俺に、急に愛想笑いを浮かべ、コクリと頭を下げてきた。

つられて俺も頭を下げ、そのままエレベーターのドアが閉まった。


「なんなんだ」


つぶやきながら、あの一斉に振り返った主婦たちの、異様に光った目を思い出した。


家に入ると、思わず玄関の二重ロックを確かめるように閉めてチェーンも掛けた。


あるはずはないが、夜中にあのぎらついた目の主婦たちが襲ってくるような恐怖感を感じた。


翌朝、目が覚めると、また10時を回っていた。

いくら休みでもあまり怠惰に過ごしていると、良くないな。

と思いつつ、反面、どうでもいいか、という気持ちもあったので、まだ布団の中でごろごろとしていた。


ピンポーン!


玄関のインターホンが鳴った。


慌てて布団から出るとインターホンに向かって声をかけた。


「あ、宅配便です。多田様ですか?」

「はい、そうです」


「じゃあ、すみません。開けていただいてよろしいですか?」

「あ、はい。」


いわゆるセキュリティがしっかりしたマンションなので、まず1階の玄関で部屋を訪ねると、こちらから遠隔操作で自動ドアを開け、さらにエレベーターホールに入るためにもう一回インターホンを押し、住人に開けてもらわないと入れない仕組みになっている。


ピンポーン!


ようやく宅配便が部屋の玄関までたどり着いた。


「あ、お待たせしました。こちらです。印鑑かサインお願いします」

「はい」


そういって伝票に印を押すと、


「ありがとうございました」


と言って足早に去っていった。


荷物は、分かれた女房からだった。

ちょっとドキドキしながら、開けてみると、そこには使い古された陶器の灰皿がエアキャップに包まれて入っていた。


そして、付箋に


「忘れ物」


と一言だけ書いてあり、それ以外は手紙すら入っていなかった。


一応、何かあったときのために新しい住所だけはメールしていたが、それすら返事が返ってこなかった。


さらに一言「忘れ物」だけとは。

つくづく生きていることが嫌になった。


実は女房と結婚して1年目にタバコをやめた。というか、やめさせられた。

確かに健康にも良くないし、結婚もしたしと思い、タイミングも手伝って禁煙に成功した。


なので、すでに灰皿は「無用の長物」なのだが、きっとこれを見るだけで、俺を思い出すし、捨てるには気が引けたのだろう。


あるいは、これで再びタバコを吸って

「早く死ね」

とでもいうのだろうか。


人間孤独になると、つい考えもペシミスティックになる。


「タバコはやめたんだ」


誰に言うでもなくつぶやいた。



次の日、朝出勤しようと玄関を出ると、3人の男性がエレベータを待っていた。


「おはようございます」


一応、最後に到着した俺から挨拶をした。


皆振り返って一様に


「おはようございます」


と、返してはくれたが、どこか覇気がない。


もっとも月曜の朝だから、そんなものか、とあまり気に留めなかった。


エレベーターに乗り込むと、今まで黙って待っていた男たちが、急にしゃべりだした。


「そうそう、お宅、昨日のあのドラマの続き見ました?」

「もちろん見ましたよ。お宅は?」

「ウチも夫婦そろって楽しみにしてましたから」


ドラマの話?

大の男が出勤前にする話か?

と疑問に思いながらも、このフロアの人間はそれなりに親しいのか、と思い聞き流していた。


エレベーターが1階に着くと、ぞろぞろ降りていったが、皆急に立ち止まった。

そして、また先ほどのおしゃべりの続きを始めた。


出勤前にありえない。


と思いながら、隙間を縫って玄関に出ようとしたが、瞬間また刺すような視線を感じ、振り返ると一斉にその男たちが俺を凝視していた。


明らかに敵意に満ちた形相ぎょうそうをしていた。


驚いて立ち尽くしていると、急に表情を和らげ、にこりと不自然な笑みを浮かべて、ペコリとお辞儀をした。

俺は急に恐ろしくなり、すぐに玄関を出た。


「なんだったんだ」


駅までの道を得もいわれぬ嫌な気分で歩き、なんとか会社にたどり着いた。


「おはようございます。多田さん、新居の住み心地、いかがですか?」


同僚の秋山が声をかけてきた。


「え?あ、快適ですよ。高層マンションで眺めもいいし」

「そうですかぁ。うらやましいな。僕なんか木造二階建てアパートの一階ですからね。

今の季節は寒さもしみるし」


「越せばいいじゃないですか」

「いや、家賃いくら半分は出るといっても、負担分が大きくなるともったいないので」


「確かにね。来年結婚でしたよね」

「あ、知ってたんですね。そうなんですよ。彼女との生活のためにもちょっと貯金しないと、結婚前に愛想をつかされたら困るので」


「ですね。がんばってください」


まだ、結婚に夢見てる年頃で、幸せだ。

俺はもうこりごりだけど。


今日も、七時過ぎには帰宅した。

すると、一人の男と玄関ホールで出くわした。


「こんばんは」


向こうから声をかけてきた。


「こんばんは」


今朝のこともあるので、ちょっと警戒しながら返事を返した。


「実は、私、昨日越して来まして、まだこの辺のことがわからないんですけど、近くにコンビにあります?」

「あ、そうなんですね。実は私も先週越してきたばかりで。ただ、コンビニなら見つけましたよ」


「そうなんですか?よかった。心強いな」


初めて、まともに住人と会話を交わした。


「いや、こちらこそ、よろしくお願いします」


何となくホッとした。

今までの住人の態度とは違い、本当に普通だった。


次の日の夜、自動ドアを入ると、昨日会った彼がいた。


「あ、こんばんは」


こちらから声をかけると、彼はサッと振り返ったが、そのまま知らん振りして、エレベーターホールに入っていった。


拍子抜けした俺は、とりあえず郵便受けを見ようと向かい、彼はその間にエレベーターで上がっていってしまった。


こちらの声が誰のものかわからなかったのか?

それにしても、一度は俺の存在を確認したはずだが……


それから、一週間何事もなく、過ぎ、日曜日の朝を迎えた。


今朝も天気がよかったので、散歩に出ようと1階に下りたところ、再び彼に出会った。


このままの気持ちでいるのも嫌だったので、思い切って声をかけた。


「おはようございます」


振り返った彼は、どんよりとした目でこちらを伺うと


「おはようございます」


と、覇気のない声で、返事だけはした。

しかし、明らかに最初に会った時の態度とは違う。

俺のことがまったく記憶にないかのごとく、形だけの挨拶をした。


いったいなんなんだ。

ここの住人は、ついこの前まで愛想がよかったのに、次に会うと別人のようだ。


自動ドアから表に出て、ふと振り返り、38階建ての高層マンションを眺めてみる。


外観がシックな黒を基調としていたので、初めて見たときは、その重厚さに良さを感じていたが、今は何か不気味な廃墟のような感覚に襲われた。


散歩がてらに買い物を済ませマンションの玄関に入ると、数人の子連れのママたちがフロントの椅子に座っておしゃべりをしていた。


ただ、普通なら女のおしゃべりなので、フロアに響くくらいうるさいはずだが、周りにかすかに声が漏れるくらいのひそひそ声で、何やらしゃべっている。


まさか、自分のことではないとは思ったが、やはりああいうしゃべり方をされているのを見ると気分が良いものではない。


エレベーターホールに入る自動ドアを開き、中に入った瞬間、またあの

「嫌な視線」

を感じた。


素早く振り返ると、やはりソファでおしゃべりをしていた主婦たちが一斉に俺の背中を見ていたのだ。


俺と目が合うと急に相好を崩し、ペコリとお辞儀をする。



春が近づいてきた。


気温が上がり、普段でも窓を閉めていると結構部屋の温度が上がった。


十七階という立地もあり、窓を開ければ爽やかな風が入ってくる。


しかし、あいにくと花粉症の俺は、その爽やかな風を受け入れず、窓を一切開けなかった。


隣の部屋でガタガタと音がする。

そういえば気にしていなかったが、隣の部屋からは今まで人の気配がなかった。

ひょっとして今誰か引っ越してきたのか。


夕方になりインターホンがなった。


「はい」

「あ、すみません。隣に越してきた大室と申します。ちょっとご挨拶に」


「あ、それはどうもご丁寧に」


そういうと玄関を開けた。

先方は夫婦そろってあいさつに来ていた。


菓子折りを差し出され


「新潟の田舎から越してきたもんで都会のことがよくわからないので、今後よろしくお願いいたします」

「あー新潟ですか、僕も生まれは長野の方なので、都会人ではないですが、よろしくお願いします」


「あ、そうなんですね。何となく近くて安心しました」


そんな会話を2,3分交わし夫婦は戻っていった。


その夜、隣から陶器が割れるような音がした。

時計を見ると夜中の十二時を回っていた。


「何かあったのか?」


そうは思ったが、こんな夜中に尋ねるのも変なので、そのまま寝床についた。


翌朝、偶然隣のご主人とエレベーターホールで出会った。 


「おはようございます」


少し間があって


「おはよう…ございます」


そういうと、昨日の愛想の良さは全くなくそのまま黙ってしまった。

明らかに変だ。


一緒のエレベーターに乗ると無言のまま一階まで下りた。

下に数人の男女がいた。

その人々に向かって、隣の住人は急に愛想よく


「おはようございます。いやぁ、昨日のドラマは面白かったですね」


と、またドラマの話をふりだし、相手もそれを受けていた。


ちょっと気味が悪くなり急いで玄関を出た途端また、刺すような視線を感じた。


明らかにこっちを見ている。

しかし、気づかないふりをして急いで駅に向かった。



「1709号室の多田さん、窓開けてないんですよ。普段からずっと」

「あ、そうなんですね。残念ですね。早く仲間になりたいのに」


「ねー。夏が来ればさすがに窓、開けますよね」

「ですね。夏が楽しみです」







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