26、日暮れの坂道

 頭がうまく働かないまま、自転車を押して海沿いの街道を歩いた。ひぐらしの鳴き声が空っぽになった私の頭を埋めていく。真生さんの胸の感触を覚えたままじっとりと汗をかき、

 喉が乾く。身体が辛さを覚えれば覚えるほど、心は何処か落ち着いて行くようで、こういう時の人間って変なふうにできてるなと、思う。


 やがて寮へ向かう坂道に差し掛かり、学園の敷地門に人影があるのを見つけた。門柱にもたれ懸かっていたが、私を見つけるとゆっくりとそこから離れこちらへ歩いてくる。

 ……遥くんだった。


「おかえり。珍しいね、サイクリング?」


 嫌な予感がして、愛想笑いで挨拶を返してそのまま行こうとしたが、遥くんはスッと隣に並び同じ速度で歩き出す。私は観念してそのまま自転車を押して歩いた。そのうち、遥くんが口を開いた。


「当てようか。庭師のところに行ってたんでしょ」

「……どうしてそう思うの」

「俺、何度も忠告したよね。どうして彼が庭の世話に現れなくなったと思ってんの」

「私のせいだって言いたいの」

「君のせいだよ」


 熱のないあの声で、言葉を私に突き立てる。


「君はさっきから俺の言うことに質問でしか返さないけど、質問してるのは俺だよ? なんかやましいことがあるからなんじゃないの」


 汗が顎の先からポタポタとハンドルを握る手の甲に落ちた。そんな風にいやらしくカマをかけなくても、やましいことだらけだ、今の私は。


「……ごめん、今日は遥くんと喋る元気、もう、ないの」


 最後の力を振り絞って私は遥くんへ言葉を返した。その瞬間、ハンドルを押し返されこれ進むのを制止される。驚いて彼を見上げると怒りに満ちた表情で私を睨みつけている。


「いい加減にしろよ。自分がなにやってんのかわかってるのか」


 遥くんが彼なりに自分の怒りに制御をかけようと必死になっているのが手に取るようにわかる。いつも前髪の奥で冷えた目をしていた遥くんの目は赤く充血し、頬が震え、奥歯を噛み締めていた。初めて、怖いと思った。


「君の気まぐれが、どれだけの人間に迷惑をかけると思ってる。ふざけてるのか、君は……」

「……ふざけてるわけ、ないじゃない」


 汗だと思っていたものが、自分の涙だったと声を出す時の喉の引っ掛かりで気がついた。息が詰まりそうなほど詰め込まれていた何かが、涙と声になって溢れてくるようだった。


「こんなこと、ふざけてるわけないじゃない! 自分でだってどうにも出来ないんだもん。迷惑だってわかってるよ……わかってる、わかって……っ」

「……そんなにあいつのことが好きなのか?」


 顔を伏せて嗚咽する私の頬を挟み、顔を持ち上げて遥くんは私に詰め寄った。もう聞かないで、もう追い詰めないで、私は首を横に振って抵抗するが彼はそれを許さなかった。


「君が……あの君が、こんな惨めな姿を晒すほどあいつに惚れてたっていうのか!?」

「……もう、やめてよ」

「俺なら誰も不幸にならないのに……。君が将来なにを選ぼうとも、俺を選ぶなら誰もなにも困らないのに……! 君は、バカだ!」

「やめて」

「俺を選べよ、浅倉いつき! 俺なら全ての条件を満たしてやれる!」

「そんな風に理屈で人を好きになれるなら、こんなに苦しまないんだよ、誰も!」


 私はぐしゃぐしゃの顔のまま、遥くんへ噛みつかんばかりに吠えた。


「遥くんは家の伝統のために私が必要なだけでしょ! 血が同じだからって、親にそう言い聞かされてきたから、私が家族のような気がしてるだけよ。自分の物のような気がしてただけだよ。でも、私はそんなものは知らないし関係ない。私が好きになった人はあなたじゃない!」

「俺は、ちゃんと君が好きだ」


 気がつくと、私は遥くんの胸の中で抱きしめられていた。離れようともがくほど遥くんの腕に力がこもり動けなくなる。自転車が足元で乱暴に倒れる音がした。


「いつきちゃんの言う通りだ。ここに来た頃の俺は確かにそうだった。親父が言う通りにジーペンの女の子を査定して、合格ならば嫁に来て貰えるよう口説いて、純血の跡取りを……って、俺もそれが当たり前だと思ってた。でも、今は、君じゃなきゃ嫌だ」


 遥くんはそう言って、私の首筋に顔を埋める。私の涙は彼の制服にどんどん吸い込まれていき、汗と涙で肩が濡れていった。


「俺、自分が他人のせいでこんな風になるなんて思ってもみなかったよ。君が笑えば舞い上がって、君が他の男を見てるだけで焦って荒れて……。俺も君のせいで惨めなもんだ」

「……」

「いつきちゃん、マザーなんかにならないで、俺のお嫁さんになりなよ」


 耳元で遥くんが囁いた。小さな子供の告白のように純粋でまっすぐな声だった。


「……遥くん、ごめんね」

「俺、これでも結構譲歩してるんだよ」

「ごめん」

「なんで……?」

「ごめんなさいっ……」


 また喉の奥からあふれ出したように涙が止まらなくなり、息がうまくできなくなる。遥くんはゆっくりと私を離してから自転車を起こし、それを私へ預けた。坂道を生ぬるい風が吹き抜け、気がつくと、蝉時雨からだんだんと夜の虫が鳴き出していた。


「……そうか。でも、ダメだ。いつきちゃん」


 しがみつくように抱きしめられた箇所が、痺れうように痛い。遥くんの表情は逆光で見えない。


「それなりの覚悟はあるってことだよね」


 私の本心の確認なのか、この返答に対する脅しなのか、それを確かめる気力ももうない。

 私はただ、彼の真心を受け取れなかったことに対してだけ深く頭を下げてから、また、坂道を自転車を押しながら歩き始める。


 ——夜が来る。

 遥くんの綺麗なシルエットが、闇に融けていくようだった。




 *   *   *




 失恋とは人を亡くすことに少し似ているのだと学んだ。しかし、亡くすものは人ではなく、自分の心だった。

「想い」を葬るための墓穴を自らの手で、少しづつ、少しづつ、時間をかけて掘り進めていくような作業だった。

 腕が痺れて疲れ果てることもあるし、土が重くて持ち上がらず、くじけそうになることもある。そういうことを二十四時間、心の何処かが延々と繰り返す。

 時々思いもよらぬタイミングで津波のように喪失感に襲われる。夜、理由もなく涙が止まらなくなる。そんな自分をなんとかやり過ごして、日常を送っていかなければならない。


 しかし「君はマザーになれ」というあの一言だけがこびりついて離れなかった。私は、マリヤがゴミ箱に捨ててしまっていたのを拾い上げて引き出しに入れておいた誓約書を取り出し、小さくたたんでお守りがわりに手帳のポケットへしまった。


 ある日の夕方、自室で宿題に追われていると、マリヤが部屋に飛び込んできて私に抱きついてきた。

 何か書類を手にしており、やった! やった! と喜びはしゃぐばかりで、何があったのかがさっぱりわからない。だけど、真生さんとのことを見られて気まずくなってからというものの、こうしてマリヤが私に笑いかけてくれることなどなかったので、それだけが単純に嬉しくて、マリヤの声が私に染み入っていくようだった。


「なに、マリヤ、どうしたの?」

「いつき、私やったわ! やったぁ!」

「だから、何が? 私にも教えてよ」

「いつき、これ見て」


 マリヤは書類を誇らしげに突き出し、私の前に掲げる。私はその文面を見た瞬間、どきりと心臓が跳ねる思いがした。


「私、試験にパスしたの。欧州の保護島への移転許可が降りたの! 向こうの手配が整い次第、行くわ」

「……え」

「向こうならここと違って飛び級制度がある。麗華さんが出た島と同じところへ通える予定よ。出遅れちゃったけど一年でも早く卒業して、人工出産システムが実用化できるように、私がする」

「ちょっと、待ってよ。マリヤ……転校しちゃうの?」


 自分のことばかりにかまけていて、そういえばマリヤがこの夏何をしていたのか気にもとめていなかった。

 私のマザーの話が持ち上がって、マリヤは研究者になると言ってくれた。それから本当にそれを実現させるために猛勉強をしていたのだ。だけど——。


「マリヤ、やだ、行っちゃやだよ」


 私は思わずマリヤの袖を掴み追いすがるように見上げる。その手の上からマリヤが優しく手を添えた。


「私もいつきと離れるのは辛いよ。でも、今だけだから。絶対にいつきをこんな鎖から解き放ってあげる」

「私まだマザーをやるなんて言ってないよ。本当にマザーになるかも分からないのに……」

「それでも、人工で胎児を新生児まで育てられるシステムが実用化できれば、マザーなんてもの必要無くなるのよ。出産という危険から女性の身体を解放できる。自分の身体で産めないけれど子供を持ちたいと思う人も自分の子供と会えるようになるかも。いつきだけじゃなく、たくさんの女性を助けてあげられるの」

「……でも、私のそばにずっといてくれるんじゃなかったの?」

「ずっといつきのそばにいるために、ちょっとだけお別れだよ」


 マリヤは力を込めて抱きしめて、私はそのふわふわの髪に顔を埋めた。


「いつきが私に使命を与えてくれたのよ。私は、それに精一杯応るだけ」


 声の温度でマリヤの決意が伝わってくる。マリヤは自分がなすべきことを見つけたのだ。もう、何を言ったところでそれは変わらない。私はこれ以上わがままを言って困らせないようにしてあげることしか、もう出来ないのだと悟った。

 私たちはお互いの目を見て微笑み合い、無言の仲直りをした。ずっと一緒にいるためのしばしの別れだとマリヤは言ってくれた。それを二人でそっと受け入れあえた気がした。

 その時、部屋をノックする音がして、マリヤが怪訝な顔でドアを開けるとそこにはなんとレオくんがいた。


「レオ……!? どうやってここまで入ってきたの!?」

「どうやっても何も、普通に入り口からここまで来たよ。ロックのシステムを弄るまでもなかった」


 レオくんは薄い桃色のブラウスにタータンチェックの膝上ショートパンツといういでたちで、知的な少女に見える。これならば女子寮をうろついていてもなんの違和感もない。マリヤは寮のセキュリティを嘆きつつもレオくんを急いで部屋へ招き入れ、用件を聞いた。


「そうそう、急いで知らせなきゃと思って。いつき、真生が正式に謹慎命令くらったみたいだよ。」

「……え?」

「君、ツメが甘いんだよ。力になるって言ったろ、どうして僕に一言相談しに来ないのさ。遥が生徒会権限で使えるシステムで君の体内GPSの動向を追ってた。それを上にチクったみたい」

「レオ、あなたなんの話をしてるの?」


 レオくんの肩を掴み、マリヤが自分の方へ向かせる。レオくんはマリヤを見上げてニヤリと笑った。


「マリヤには内緒だよーだ。だって、僕のこと放っておくんだもん」

「レオ! これは遊びじゃないのよ」


 真剣に怒るマリヤを意に介さず、レオくんは笑顔でマリヤの手を取った。


「あ、マリヤ、欧州の保護島へ移る試験パスしたそうじゃない! 本当におめでとう! その件の打ち合わせがこの後入るみたいだよ」

「なんであんたがそんなこと知ってるのよ」


 その時、マリヤの手帳が鳴り響き、本当にシスターからの呼び出しがかかった。


「レオ、なんか余計なことしたら、寮に不法侵入したこと言うから」

「僕が何するって言うの? ほら、早く行かないとみなさんお待ちじゃないの?」


 マリヤは早く帰りなさいよと捨て台詞を残して渋々といった様子で部屋を出て行った。レオくんはマリヤが行ってしまうのを確認してからこちらへ振り向くと、私にメモを握らせて小声で言った。


「僕が覗き見してるこの島のシステム、遥もチェックしてるからもうメールとかも危ないんだ。手帳にこのアプリをダウンロードして」

「これ……、なに?」

「僕と二人っきりでおしゃべりできるチャットルームみたいなものだよ。急いで作ったけど、本島からの攻撃でもない限りセキュリティ突破できないと思う。んで、パスワードはこれね……」

「どうして……」

「んー。念のため?」


 レオくんが可愛く首を傾げてみせる。私はぐちゃぐちゃの頭でもう何も考えられずにいた。


「謹慎って……」

「ああ、君、なんか遥に余計なこと言った?」

「余計な……」


 あの日のことが蘇り、私が口元を手で押さえると「心当たりがあるなら多分それだね」と、レオくんが鼻で笑った。


「もう、荒れちゃって荒れちゃって見てらんない。僕はもう、君としか遊ばないんだ」

「レオくん、ごめんね」


 私がそう言うと、レオくんはシッシッと犬を追い払うような手振りをして見せた。

 そのまま、私は部屋を飛び出した。

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