25、仁先生
その夜、レオくんからの連絡で、エイレイテュイアから正式に真生さんへ警告が出たことを知った。真生さんとのメールはそれからすぐに遮断され通じなくなった。次の日から庭の手入れにも来なくなり、それでも私は言われていたことを見よう見まねで世話を続けた。
ある日、ケンくんが突っ込んだノイバラの元気が無くなってきているのに気がついた。どうしたらいいか指示を仰ごうと思わず手帳を取り出して真生さんの名前を見た時、肺が潰されたかと思うほど息がつまり、次の瞬間には心の底から寂しさが湧いた。
私はノイバラのそばでしゃがみこみ、しなびた枝先を手のひらに乗せて眺める。何をしてやっていいかわからない。情けない。真生さんが懸命に診ていたのに。
ノイバラが自分と重なり、途方にれていると後ろから影が差した。人の気配に驚いて振り向くと、そこには大柄で髪も髭もボサボサの熊のようなおじいさんが立っていた。
「ああ、ここにあったか。どれ、見せてごらん」
「……え?」
「お嬢さんが世話してくれてたのか、ありがとうね」
おじいさんはそう言いながらノイバラの様子を観察するとリュックから小さな錠剤を取り出し、根元に差し込んだ。
「ダニもいないし、ちょっと夏バテしてるのかもわからんな。栄養剤やって様子を見ようか。水をやりすぎないようにしてくれると助かるんだが」
「……わかりました。あの……」
「ああ、ここの管理をお願いしていた子が諸事情で来られなくなってね。代わりに来たんだ。このノイバラはわしが苗から育てたんだよ」
おじいさんの醸し出す雰囲気のどこからか、真生さんの気配がする。もしかしてこの人……。
「尊敬している方から譲り受けたと聞きました、あなたが……」
「おやま、真生を知ってるのか、わしは真生の先生だよ」
「私は中等部会長の浅倉いつきと申します」
先生の細い目が開き、私を凝視してから「君が」と、小さく呟いた。
「ずっと真生を手伝ってくれてたのかい?」
「水をやったり、雑草を抜いたりするだけですが……」
「他の植物の様子も見たいのだけど、案内してくれるかな?」
「私でよければ」
真生さんの先生の名前は仁先生と言った。植木や鉢植えの一つ一つを丁寧に見て回り、具合の悪い子には栄養剤を与えたり、肥料を足してやったりした。成分ややり方についても私にもわかるように教えてくださった。池にいるメダカを真生さんみたいなキラキラした目で観察していた。植物の個性に合わせた水のやり方や間引きの仕方を習い、手帳にその全てのメモを取った。
小さな庭園なのに終わる頃には日も翳り、二人して汗だくになっていたので仁先生がカフェテラスでアイスコーヒーをご馳走してくださった。
仁先生と向かい合い、夕日の眩しい庭を見ながらアイスコーヒーをすすると、体を動かした後の心地いい疲労感が襲って来た。仁先生は大きな体がしぼんでしまうかと思うほどの息をつき「やっとひと心地ついたね」とおっしゃった。
「はい、今日は色々教えていただきまして本当にありがとうございました」
「とんでもない。この庭は小さいけれど面白い世界だった。いい庭に育ててくれたんだね」
「真生さんがそんな風に造ったんですね」
「そうか……。そうだねえ」
仁先生はアイスコーヒーをすすると、眩しそうに目を細めて庭を眺めながら言った。まるで身内を褒められたようなくすぐったさを感じて、心なしかモジモジしてしまう。仁先生はそれきり無口になり、私もその無言の空間がなぜか居心地が良かった。疲れた体を椅子の背に預け、庭を眺めた。蝉しぐれが音の雨のように降り注ぐ。夏の景色を切り取ったような、真生さんの庭。
そうしてこの時間を味わっていたその時、ポツリと仁先生が言った。
「君は、マザーになりなさい」
「……え?」
「じじいが大きなお世話なのはよく分かっとる。でも、植物学者としてわしは君にそう言わないといけない。生物が命を繋ぐという営みがどれだけ不安定な物の上に成り立つ奇跡か、庭を見るだけでもよく分かっただろう?」
小さくて、地味だけれど、どこか懐かしく居心地がいい、真生さんの造った庭園。その中にだって弱肉強食の世界があり、秩序があり、生き物たちを取り巻く小宇宙が広がっている。仁先生が教えてくださったいろんなことの中に、その端々が見え隠れしていた。
「ジーペン人というのは、気が優しく真面目で働き者な奥ゆかしい人たちだったそうだよ。諸外国のプレッシャーにも負けないタフなところもあってね、小さな島に寄り添うようにして文化と伝統を守って生きてきた人たちだ。どうか、絶やさないでくれ。君はジーペンという人種の最後の種火だ」
クッと、またあの喉が詰まる感覚がして、私は俯き手元をじっと見る。手を洗ったのに爪の間に入った土が取れておらずそれを無意識に弄っていたことに気がついた。こんなに直球でマザーになれと言う大人はこれまでいなかったかもしれない。この星で生きるものを見続けた人だからこそ、言わずにはいられなかったのだろう。
私がそうして爪をいじり続けていると「酷い話だよなあ……」と言いながら仁先生はゆっくりと私を覗き込むようにこちらを向いた。あんなにニコニコしていたその目が、悲しそうに見えた。
「わしは君に、君の初恋を犠牲にしてくれと言ってるんだなあ」
仁先生はそう言うと、ご自分の手帳を尻ポケットから取り出しなにか打ち込み始めた。そして、少ししてから送信音が鳴った。
「ここから少し距離があるが、美無神社と反対方向へ海沿いの街道を進むと鳩ノ巣浦があるだろう。そこに小さな神社があるんだが知ってるかな」
「はい」
「そのあたりの植物の採取をするよう、今、真生へちょっとした仕事を頼んだ」
「……え?」
「あの辺りは街灯も少ないから、暗くなると危ない。急がなきゃいけないなあ……」
仁先生はそう言うと、アイスコーヒーをずずっとすすって飲んだ。
「わしは何も言っとらん。ただ、愛弟子に仕事を頼んだという独り言を言っただけだよ」
私ははっと息を飲んで仁先生を見ると、静かに微笑んで頷いた。私はその場で弾けるように立ち上がり、深くお辞儀をする。
「今日は色々とご教授ありがとうございました。私はここで失礼します」
「うむ、こちらこそ申し訳なかったね」
その声を聞いた瞬間、私は駆け出した。寮の駐輪場まで戻り、共用の自転車に乗り神社の方まで坂道を駆け下りる。夕日はまだ高く、海をピンク色に染めて静かな波がハレーションを起こしていた。坂道では漕がなくてもどんどんスピードが上がり、海沿いに出ると潮風が肌にまとわりついてくるようだった。
立ち漕ぎで、風をきって自転車を走らせた。この一瞬、一瞬で真生さんへ近づいているのだと思うだけで全く疲れなかった。大きなカーブを過ぎると、もう島の裏側で人に滅多に会わなくなる。仁先生はそんなことまで気を遣ってくださったのかもしれない。
だんだんと夕日の赤が濃くなっていく。仁先生の言っていた神社が見えてきた。
神社の前には軽トラックが止まっており、真生さんが仕事で使っている車だとすぐわかる。私の心臓はドクンと跳ね上がり、それだけで泣きそうになりながら必死にペダルを踏んだ。
神社といっても低い塀に囲まれた狭い境内の中に鳩ノ巣浦の神様を祀っている小さな本殿があるだけで、社務所があって人が詰めているようなところではない。
神社の前までやってくると、本殿の横にしゃがみこんでピンセットで何か採取している真生さんがいた。
私が踏んだ砂利の音に真生さんは顔を上げ、こちらを見ると唖然とした顔をした。そしてゆっくりと立ち上がりながら言った。
「……いつきちゃん? なんで、ここに……」
「真生さ……」
私はフラフラと鳥居を潜り、そのまま吸い込まれるように真生さんの胸へ抱きついた。腰に両手を回して力を込めて抱きしめる。真生さんの体に力が入り、緊張するのがわかる。
「いつきちゃん……ど、どうして」
「……会いたかった」
「……いつきちゃん、離して」
「会いたかった、真生さん」
「いつき、ちゃん!」
真生さんは私の肩を掴み引き剥がそうとするが、私は必死にしがみついた。しばらく揉み合ううちに、肩を掴む力が弱くなったのと思うと、突然真生さんの声が鋭くなった。
「大人をからかって遊んでないで、真面目に将来を考えるんだ。俺が庭の世話しにいけなくなったのも、メールが繋がらなくなったのも、君ならその意味が分かるよね。こういうことしちゃダメなんだよ。みんなに心配かけて、いらない誤解を生むんだ!」
「誤解じゃないもん!」
私は真生さんの胸に埋めていた顔を上げた。あんなに怖い声を出していたくせに、真生さんは悲しそうな今にも泣きそうな顔で私を見下ろしていた。
「真生さんが好きなんです! 子供を産まなきゃいけないなら、私は、あなたの子供が産みたい」
真生さんの顔がくしゃりと歪んだ。聞きたくなかった、言わせたくなかった、と、一瞬で後悔が渦巻くようなそんな目をした。それでも、私は伝えなければならない。時間がないのだ。分かってもらいたかった、どうしても。
「ダメだ。いつきちゃん、君は少し冷静にならなきゃいけない。俺に好意を向けてくれていたとしてもそれは一瞬の感情だ。そんなものに流されちゃダメなんだよ」
「そうだとしても……!」
私は真生さんの両腕を掴みくってかかる。
「そんなものなんて言わないで! 私の初めての恋なの。生まれて初めて、自分を全部あげても構わないって思える人に出会えたの、私にとっては、真生さんは……」
「いつきちゃ……」
「真生さんが好き! 好き! ……好きなんです! お願いだから、マザーになるよりもつまらないもののように言わないで。私は、あなたに恋してるんだよ」
「それが許されないことなんだよ。第一、君はマザーになるならないの前にまだ未成年だ。大人と交際することは許されない」
「じゃあ、私が成人するまで待っててよ」
「成人したとしても君は普通の女の子じゃない。一つの人種の命運を背負ってる。君は、俺なんかがなにかしていい人ではないんだよ」
「そんなもので、納得できない」
「するんだ! 君は、マザーになるんだよ……!」
私は精一杯背伸びをし、掴んだ腕を引き寄せて真生さんの首へしがみついて抱きついた。首筋に唇をあてて、腕に力を込めて抱きしめる。伝わって、どうか、私の思いが伝わって……と。
真生さんは体を硬直させ、次第に呼吸が浅くなり、ハッ、ハッ、という息遣いが私の耳を掠めた。私は真生さんの耳元に囁く。
「真生さんはどうなんですか。それを聞かせて。年齢とか……マザーとか……そういうのはどうでもいい。あなた自身の気持ちを聞かせて欲しいんだよ」
「俺……俺、は……」
真生さんはそう言うと、膝の力が抜けたかのようにその場に崩れ落ち、私の体重がかかるそのままに塀にもたれかかった。筋肉質の大きな胸が温かかった。その感触を覚えていたくて私は目を瞑る。その時、上から水が私の頬をかすって落ちた。
私はなにか違和感を感じて、それを確かめるために見上げると、真生さんは小さくしゃくりあげながら、泣いていた。そして、とうとう堪忍した子供のような、いたいけな目で私を見ながら言った。
「俺は……怖い」
思ってもみない言葉に、私は息を飲む。
「君に、好かれるのが怖い。その小さな肩も、細い腕も、少し力を入れたら壊れそうで怖い。君は小さくて……賢くて……可愛い子供だと思っていたのに、俺なんかを好きだって言う。大人みたいな匂いで俺を誘う。そんなの……、どうしていいか分からない」
これは、真生さんの告白だ。彼の体を支える腕が小さく震えているのを見て、頬を叩かれたような痛みを感じた。
「君が変な気を起こしてマザーにならないと言い出すことが怖い。自分のせいで姉さんの仕事に迷惑かけるのが怖い。俺に目をかけてくれた人たちの信用をなくすのが怖い。未成年に手を出す犯罪者と思われることが怖い。怖いんだよ、君といることが……」
私は体を起こし、二の腕で顔を隠しながら泣きじゃくる真生さんの足の間に座りなおす。
「ごめん……だから、もう、俺を放っておいて……俺に構わないで……」
私にとってはただの片思いが、こんなにもこの人の生活を脅かしていた。その事実を突きつけられて、ショックで言葉が出なかった。ただ、顔見知りになった子供に親切にしただけなのにどんなに迷惑だったろう。植物が好きで、生き物が好きで、それだけで島にきたこの人を、私のエゴが追い詰めた。
「……よく、わかりました」
私はなんとか声を絞り出し、その場で立ち上がる。
「たくさん、迷惑をかけてしまったみたいで……すみませんでした。理解、しました。もう安心……してください」
私はその場を離れようと歩き出したその時、後ろから「ごめん」という真生さんの泣き声がした。
「ごめん……ごめん、いつきちゃん、ごめん……」
何度も繰り返し聞こえてくるその愛しい声を聴きながら、私は神社を後にした。
波の音と、耳にこびりついた真生さんのあの声が重なって追いかけてくるようだった。
今にも沈みゆく太陽は真っ赤で、燃えるように真っ赤で、このまま私もことも焼き去ってくれればいいのにと、私は自分を恥じた。
初恋が、終わった。
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