24、天使の微笑み
しばらくあの庭から動けずにいた。守衛さんにもう帰りなさいと声をかけられて、そこで閉門時間だと気がつき私は庭を後にした。
思考回路に電気が走らない。何も考えられずトボトボと寮へ戻り、部屋に入るともう薄暗く、電気のスイッチをつけるとマリヤが自分の机に座っていたので、驚いて声をあげた。
「びっくりした……。いるなら電気つけなよ」
マリヤは返事を返さず無表情でゆっくりと私の方へ向く。部屋に明かりがつき、そこで私は異変に気がついた。彼女の机の上の参考書はビリビリに破られて足元に散らばり、あたりに物が散乱していた。
「ちょっと……マリヤ、どうしたのこれ……」
私はマリヤへ駆け寄り大丈夫? と声をかけながら彼女の顔を覗き込む。すると、くしゃっと顔を歪め私を見返した。
「いつき……なんで?」
ボロボロと大きな涙をこぼしながらマリヤは声を絞り出した。肩を震わせてマリヤが我慢をしようとすればするほどそれは溢れ出し止まらなくなる様子だった。
「どうしたの、何があっ……」
「なんで……あんな男とキスするの」
「……え?」
——見られていた。よりによってマリヤに……! 小さな頃、シスターにいたずらがバレてしまった時に似た、あの感覚が蘇る。
「いつきは……いつきには、あんな男にふさわしくない。鷹司くんもダメ! 男に従属なんてしちゃダメなの! あなたという人はこの世界のためにちゃんと使われなくちゃいけないのよ」
「マリヤ……私、そんなんじゃ……」
「嫌なの! 私のいつきがマザーなんかになるのは。子供を産むだけのために利用されるのも、誰かも知らない男のものになってしまうのも! いつきの才能は私が一番よくわかってる、私と一緒に、社会に役に立つ人間になるのよ」
マリヤは私の首にしがみつき泣きながら喚き散らす。
「私がいるから、大丈夫だからね、これまでみたいにこれからも、いつきは絶対私が守ってあげるから」
「マリヤ……マリヤ、違うんだよ!」
私は力一杯マリヤを引き剥がしたはずみで床に尻餅をついてしまった。勢いよく腰を打ったようで、さすりながらマリヤを見上げる。マリヤは怒りに満ちた目で、ボロボロと涙を流れるままにして私を見下ろしている。
「……いつきから、キスしてたね」
「私……私ね、マリヤ」
「許さないから」
「聞いてよ、マリヤ……」
「いやよ、絶対に許さない」
小さな頃からずっとそばにいて、私のことを守ってくれて、私もこの人のためならなんでもできて、家族で、誰よりも大切なマリヤ。だからこそ、私の見つけた宝物をマリヤには知っていてほしい。
「私ね、好きになっちゃったんだよ」
マリヤはぎゅっと目を閉じて、涙を絞り出すように泣き続ける。マリヤが私の全てでいてくれたように、きっとマリヤの全ても私だったのだ。私たちは幼い頃から足りないものは分けあって、寂しい時は支え合って、補い合うようにして生きてきた。
それが分かるから申し訳なくて、でもマリヤにだけは受け止めてほしくて、彼女が泣き続ける間、私は床に散らかされたものを片付けて待った。
マリヤはひたすらむせび泣いた。
やだ、いつき、置いていかないで、いやだ、いやだよ。
そんなことを端々に言いながら、嗚咽するその歪んだ顔も美しく、私を心から認めてくれるこの人のそばにずっと自分も居たいと思った。
マリヤの一言一言に、うんって言いたいのに、私はごめんねと繰り返していた。
止められない自分を初めて怖いと感じた。私のエゴが、真生さんのようにマリヤも傷つけているとわかっているのに。
* * *
その夜はろくに眠れず、早朝あの庭へ向かった。
絶対に、いると思ったのだ。
太陽が昇りきる前、海鳥の鳴き声を乗せた海風が生ぬるく吹き込み、庭には生まれたての日差しが柔らかく差していた。
真生さんはいつもの作業着姿で植木の剪定をしており、集中して作業している。
私がテラスから庭へ入るドアの音でやっとこちらへ気がついて、一瞬で緊張が走ったような引きつった顔をした。
「おはようございます」
「おは……よう。驚いた、こんな朝早くに……」
「昨日の無礼をお詫びしにきました。昨日やるはずだった作業、終わらないうちに帰ってしまったでしょ。来るならこの時間だろうなって」
「ああ……」
真生さんは頭に巻いていたタオルを外し、気まずそうに顔を拭って首にかけた。何をどう言っていいのか分からないといった様子で必死に言葉を探している。
「本当に申し訳ありませんでした」
そういって両手を膝で揃えて頭を深く下げる。すると、真生さんは私に駆け寄り頭をあげてくれとわたわたと慌てだした。
「そんな、俺の方こそ大人気なくてごめん……。ちょっと、いきなりで、びっくりしてっていうか……、あの、あんなこと、その……」
「怒らせるつもりじゃなかったんです、本当にごめんなさい……」
「いや、わかってるよ、俺も冗談通じなくて、あの……申し訳ない……」
「嫌いに、ならないで……」
「え?」
「謝るから、嫌いにならないで……。私のこと、さけないで、無視しないで……」
「うん、嫌いになんてならないよ。ほんと、もう、頭あげてよ」
「……っく」
「え?」
真生さんに促されて顔をあげると、昨日から張り詰めていた糸が緩んだのか涙が止まらなくなっていた。真生さんは私の顔を見た途端ひっ息を飲み、さらに焦り慌てふためく。
「あ! いや、あの、ごめん!!」
「違うんです、ごめんなさい、泣いたりなんかして……あれ、止まらないや」
「ちょっ……、大丈夫? 怒ってなんかないから、本当、泣かないで」
「はい、……はい」
真生さんは自分の首からかけているタオルの濡れていないところを私の頬にあてて、涙を拭った。私は真生さんの温もりが届く位置でされるがままになり、やっとひと心地がついた気がしていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、真生……さん……」
「……本当に、いつきちゃんは大人なのか子供なのか分からないな」
繰り返し謝りながら、マリヤにもごめんと心で思っていた。マリヤにも時間はかかるだろうけど謝らなくちゃ。分かってもらいたいから、いろんなことを時間をかけてわかり合っていかなければ。
* * *
島では別れの空気が漂い始めていた。短い間ではあったが、学生の間でもそれぞれが交流を深めて最後の思い出作りを始めようとしている。あんなに私を敵視していたレオくんも、そう思ってくれているのだろうか。最近、気がつくといつのまにか私の横にいることがある。
「え? マリヤ? 今日も特別集中講座に出てるからってランチ断られちゃった。あんたともケンカ中なんでしょ、聞いたよ。なんだかピリピリしちゃってさ。せっかくの美人がずっと怖い顔してて、マリヤがブスになっちゃう前にさっさと仲直りしてくれないかなあ」
「ちょっと、マリヤはブスになんかならないよ」
お昼の休憩時間、あの庭の前のカフェテラスで二人で向かい合ってアイスコーヒーをすする。
「レオくんにも迷惑かけるね。マリヤのこと、ごめんね」
「君がさあ、油断だらけでここの庭師とイチャイチャしてるからだよ。遥も、教師やシスターたちもだいぶんピリついてるよ」
「……え?」
「ほんっと、あんなヤキモチ焼きなみみっちい男だったなんて思ってもみなかった。僕は自信満々で絶対王者の遥が好きだったんだ」
「教師やシスターって、なに?」
「ちょっと……遥のことも気にしてやんなよ、僕も報われないじゃない」
「もう、これ以上難しいこと言わないで。頭いっぱいいっぱいなんだから」
「君のキャパシティじゃそうだろうね」
ムッとして睨みつけるが、レオくんは気にもとめず小さな可愛い口を尖らせて庭を眺めるふりをする。
「……ちょっと前に遥くんにも注意された。自分がどう見られてるか自覚しろって」
「うん、それもあるけど。エイレイテュイアの柳麗華が君の片思いの相手必死に探してたの知ってた?」
「麗華さんが?」
「君がマザーに就かないと、この世界から人種が一つ消えるんだよ。その意味、分かってる?」
「……あのさあ、大きなお世話かもだけど、あんまり島のシステム覗き見しない方がいいんじゃない? 危ないよ」
「分かってて見逃してるんだよ、大人たちは」
あの写真の件を言っているのだ。自分から白状してきた。本当に、本当に、こいつは……。
「……レオくんは、かわいくない」
「いいよ、君に可愛がられたって気持ちが悪い。でも、僕は天邪鬼だからね。みんなが君の恋を止めようとするなら、僕は力を貸してしまう性分なんだ」
レオくんは不敵な笑みを浮かべながら私を見下ろす。彼なりの冗談で励ましてくれているのか、それでも今の私にはとても有難い。
「絶滅寸前の人種を守るという使命に置いて、今一番邪魔なのが君の片思いの相手だよ。そこにきて、君はあからさまに真生・オオウチへ懐いている。そりゃ、エイレイテュイアの人間でなくてもみんな警戒するよね。あの庭師さん、家でお姉さんにこっぴどく怒られてるんじゃない?」
……そうだ、遥くんも言っていた。真生さんに迷惑をかけることになるんだって。レオくんに言われて、初めて今の自分の視界がどんなに狭くなっていたかに気がつかされた。
「でもね、僕は気に入らないよ、何もかもが。遥が陰険な奴になっちゃったのも、マリヤが遊んでくれないことも、どいつもこいつも、いつきいつきって。もううんざりなんだよね。だから、僕はみんなが嫌がることをする」
アイスコーヒーの氷が、カラリと、音を立てて崩れた。
「君を援護することにした。借りも返さなきゃ」
「借り……?」
「……君を、辱めるような真似して悪かったよ。遥をとられた仕返しのつもりだったんだけど、やりすぎだった」
ふてくされながらも、大きな潤んだ目で私をまっすぐ見てレオくんは言った。
不器用な謝罪だが、なんのてらいもないその声は私の胸を打つ。本当に、こいつは……。
「……レオくんは、かわいくない!」
「いいよ、気持ちが悪い」
そう毒を吐きながら、天使が微笑んだ。
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