第6章 夏の果て

22、マザー

 その日は、目覚ましが鳴る前に自然と目が覚めた。

 昨夜から小さな緊張を引きずったままで熟睡した気はしないが、心は波の立たない湖のように静かに落ち着いていた。

 いつものように着替えをすまし、マリヤと朝食をとり、私だけ寮のロビーへ移動して麗華さんの到着を待つ。エイレイテュイアからの要請で、夏期休暇が始まったらすぐにこの予定が入れられていたのだった。

 今日は、「マザー」と会う日だった。


 今現在、現役でマザーをつとめている方と会い、どんなことを感じながら、普段はどんな風に過ごしているのかなど、実際に話を聞く機会を作ってくださったというのだ。今日お会いする人はここ、木花島このはなとう出身ということで、私の先輩にあたる方だった。

 麗華さんが迎えに来てくれて、この島唯一の病院へ向かった。それが、マザーは私に会うためにわざわざ本島から昨日いらっしゃって下さっていたそうだが、産後の肥立ちが悪いらしく、急遽昨日は病院に泊まられたそうで、何かあった時のためにそのままその個室で面談をしようということになったらしい。


 病院へ到着し、麗華さんに連れられ白い廊下を少し行き、角を曲がったところにその個室はあった。ノックをして扉の前で声をかけると、奥から細くか弱い返事が返ってきた。麗華さんは扉を開けてお辞儀をする。


「失礼します、柳です」

「はい、お待ちしておりました」


 ベッドの上の人はそう言いながら身体を起こすと、麗華さんは寝ててくださいと慌てて近くへ駆け寄る。すると、彼女は反射的に「あ!」と麗華さんの動きを制した。麗華さんも小さく息を飲むとベッドの足元にある更に小さな箱を覗き込み、とろけるように微笑んだ。

 マザーは申し訳なさそうに言った。


「ごめんなさい、今、寝たところなんですよ」

「私の方こそ……。あーん、なんて可愛いのかしら……」


 聞いたことのない麗華さんの高くて甘い声に私は少し驚いた。自分は動いていいのかが分からずに部屋の前で佇んでいると、ベッドの上の人と目が合った。

 その人は優しく微笑みながらこちらへ会釈する。いけない、私も挨拶をしないと。


「し……失礼します、本日お世話になります、浅倉いつきと申します。よろしくお願い致します」


 ベッドの人は始終ニコニコと笑っており、私は急いで部屋に入るとなるべく静かに扉を閉めた。麗華さんはできるだけヒールが響かないよう、忍び足で私の元へ戻ってきてベッドのそばへ促してくれた。


「紹介するわね。今日、お話を伺うマザーのそうシズカさんよ」

「シズカでいいですよ、よろしくね」


 二十代後半くらいの目尻が下がった優しい印象の女性だった。しかし、具合が悪いと聞いていた通り、顔色は悪く目がくぼんで見えるほどくっきりとクマが浮いている。ツヤのない肩までの髪を無造作に後ろで結んでいた。


「あの……お身体の具合はいかがですか? こんな時に、本当にありがとうございます」

「ああ、違うの。コーディネーターさんが大袈裟なんだよ、ちょっと貧血気味なだけなの。心配させるから病院でなんて嫌だって言ったのに……」

「でも、とてもお辛そうに見えるので……」

「ごめんなさい、メイクくらいしておけばよかったね。でも本当に大丈夫なんだよ。産後なんて、体はボロボロだし睡眠は削られるし、みんなこんなもんよ」


 そう言いながらシズカさんは手櫛で身繕いをしてみせる。私はそれでも無理をさせてしまっているのではないかとハラハラしていたが、麗華さんがベッドの足元の小さな箱の中を見ながら「いつきちゃん、来てごらん」と私を呼んだ。

 私も気になっていた。二人が気配を無くすようにしてその箱のそばにいるのを見て、私もそっと動いて覗き込むと、ふっと甘い匂いがたち、そこには柔らかな布に包まれた小さな赤ちゃんがスヤスヤと寝息を立てていた。


 私はその愛らしさに声を出しそうになるのを両手で抑え、息を殺して跳びのき、麗華さんを見た。麗華さんも目だけで「でしょ、でしょ、可愛いでしょ!!」と言った調子で激しく頷いてみせる。まるで以心伝心だ。

 そうか、これは赤ちゃんの保育ベッドだったのだ。まだお乳が必要だからマザーと一緒に来てくれてたんだ。


 私は下唇を噛みながら、また静かに赤ちゃんのベッドへ近づいて覗き込む。ガーゼとコットンに包まれていい匂い。長いまつげ、ピンクのほっぺ、小さな手、人間と呼ぶにはあまりに頼りない。自分と同じものだとは思えず不思議な気持ちで眺めていた。やがて、シズカさんが声をかけてくれた。


「じゃあ……この子が寝ているうちに、ちょっとお話ししましょうか」

「そうですね、では、私は席を外します。シズカさん、お願いしますね」

「はい」


 麗華さんはもう一度、赤ちゃんを少し眺めてから名残惜しそうに部屋を出た。


「子供、好きなの?」


 赤ちゃんに釘付けの私をシズカさんがニコニコしながら眺めている。


「どうでしょう、考えたことありませんでした。こうして赤ちゃんを間近で見るの初めてなので……」

「そうだよね。その子は五人目の子供。あ、でも一人目はお腹の中で、三人目が生まれてすぐに亡くなっちゃってるんだけど……」

「え……?」


 辛いことを思い出させてしまったのかもしれないと私が少し言いよどむと、シズカさんはそれを察したのかえへへ笑って見せた。


「たまに迎えに来ちゃうんだよね」

「……迎え?」

「赤ちゃんてね、生まれてすぐの頃、一人で笑ってることがあるんだけど、何か面白かったり嬉しかったりするわけじゃなくて本能的に反射で笑っているだけの。「天使の微笑み」なんて呼ばれるんだけど、実は天国にいた頃その子をお世話してくれてた天使さんが様子を見にきてあやしているなんて説もあったりするんだよ」

「面白いですね」

「ね。でも、私は子供がそうやって一人で笑っているととっても不安になって、いつもその天使様へお願いしていたの。いい母親になります、この子は絶対に幸せにするから、連れて帰らないでくださいって」


 シズカさんは柔らかな声で淡々と話す。染み込む……、そんな声だった。


「生まれたばかりの子供って人間じゃない何かって感じがするのよ。人間の形の器に乗せられて私のお腹を通ってこの地球にやって来た……うーん、言葉にするのが難しいんだけど……純粋な「命」とか「魂」そのものって感じで。産んですぐ目を合わせると、へー、今回の世界はこんなところかぁってどの子も思ってるように感じたの。ゆっくりとこの星のやり方と交じり合いながら、この星に住む生き物になっていくんだなあって、そんな風に見えたなあ。……そんなだから、地球に慣れるまでの間はOJTのために天使が付いて来てるんじゃないかなって」


 なんだか突拍子もない話だけど、シズカさんの目はいたって真剣だった。


「だから、任せられないと判断されたら連れて帰られちゃうのような気がしてね。毎日毎日、怖いよ。実際、二人連れてかれちゃったし。幸せにすると言ったって、私は産むだけだからね。その子の人生に何をしてやれるわけでもないけれど」

「……」

「でも、産んでやれるの。この星のここへ来る、通り道を作ってやれる。これは、私たちにしかできない仕事だから……それに誇りを感じています」


 急に私のマザーの研修だと思い出したのかいきなりインタビューを受けている人のような口調になり、頼りなく話が着地した。シズカさんはそんな自分にぷっと吹き出し、話が下手くそでごめんねと笑った。でも、私はマザーを務める上で向き合うことになる恐怖とか喜びとか、そういったものがシズカさんが語る温度で伝わったような気がしていた。


「シズカさんは、このお仕事が好きなんですね」

「……ええ。仕事につく前よりも子供達に会えば会うほど、好きになっていってると思うよ」

「辛い別れもあるのにですか?」

「……うん。確かにその時はこんなに辛いことがあるのかと思うんだけど、じゃあ、その子を授からなかった方がよかったかと聞かれると、絶対にそうじゃないんだよね。すぐにお別れでも、会えない方が嫌だった……。とか言って油断してると、何かあれば自分の人生ともおさらばの仕事だけどね」

「……随分と包み隠さず話してくださるんですね」

「だって、いいことばかり言って実際マザーを始めたらこんなはずじゃなかったーなんて、思って欲しくないもの。正直、きつい仕事だよ。身体は常にズタボロだし、命がけだし、子供は可愛くなったところで次の妊娠に備えなきゃいけなくなるから満足に会えなくなるし……」


 シズカさんはそこまで話すとベッドの脇にあるテーブルに用意された水差しからコップに水を注ぎ、コクリと飲んだ。私にも勧めてくれたが、喉が渇いていないので遠慮させていただく。


「でも、そんなものには変えがたい身体を突き抜けるような喜びが、出会いが、あるんだよ」


幸せって人それぞれだとは思うけど、幸せを見つけることが出来た人に会えた時、いつもこんな嫉妬にも似た複雑な気持ちになる。

羨ましいな、私も欲しいな、でも、こんな辛いこと自分に耐えらえるのかな。そんな葛藤に襲われる。私はシズカさんの話を聞きながら、そんな感情をずっと往復しているような気がしていた。


「いつきさんから、何か、聞きたいことはない?」


 湿った唇を拭きながらシズカさんは小首をかしげる。小さな焦りのようなものに背中を押され、私は自分でも気がつかないうちに話し始めていた。


「子供の……父親は、シズカさんが選んでいらっしゃるんでしょうか」

「父親……?」

「そんな危険な目にあって、苦しい思いをしてまで産む子供です。命をかけられると思える相手の子供だからこそ産めるのかなって思って……」

「ああ……」


 シズカさんの目尻がさらに下がって、まるで微笑みで私を包みこもうとしているかのようだった。少しの同情と強い共感が混じった目で私を見つめていた。マザーをやる人間誰もが通る道なのよと、その目は言っているかのようだった。


「父親は選べないよ。エイレイテュイアがその時々で私の遺伝子と相性がいい、その上、DNA的にも優秀な精子を選出して、体外受精されたものをあとで着床させるの。その道のプロがちゃんと選んでくれるから自分でわざわざ父親を選ぶとかそういう煩わしさはないかな。ただ、そんな強いはずの子を生かしてあげられなかったから、ダメね。私は」


 自虐的に笑って見せるシズカさんに私はなぜか少し苛立ち、そしてすぐにその倍悲くなる。


「そんな……誰かもわからない人の子供を産むの、怖くないんですか」

「誰かのって……私が産む、私の子供だもの」

「そうですけど、父親がどんな人か分からないじゃないですか」

「私個人としては、子供を産むために力を貸してくれる人ではあるけれど、さして問題じゃないかな」


 シズカさんのその柔らかいけど平然とした言い方に、私は次の言葉を無くす。

 そしてしばし私を眺めてから、小さく息をついた。


「好きな人がいるのね」


 その言葉を聞いた瞬間、ものすごい羞恥心が私をおそい、顔をまっすぐにあげられなくなる。


「恥じることはないんだよ、愛する人のDNAを残してあげたいと思うのは人の本能だよ。そうして産んでもらえる子供はその存在が愛そのものだもの」

「頭ではわかっているつもりです、でも、嫌なんです。好きでもない人の子供を産むのは」

「そうね」

「分かってはいるんです。恋愛感情と、子供を産むという行為は関係ないのに……」

「そんなわけないじゃない。そういう風に思えるようになるには、時間と経験とたくさんの愛情が必要よ。愛した人の子供を産んで、その子の目を見ることができたって、そんなに簡単に割り切れるものではないよ」

「シズカさんは……好きな人との子供を産んだんですか」

「うん。会えなかったけど、最初の子はね」


 そう言って、眠る赤ちゃんへ優しい視線を向ける。赤ちゃんは目を覚ましたらしく、弱々しくふにゃふにゃと声を出しながら母親を探している。

 シズカさんは足元にある赤ちゃんのベッドへ四つん這いで移動し、抱き上げ、胸元のボタンを開け乳房を出し子供へ差し出す。子供はすかさずかぶりつくとすぐに喉を鳴らしながらお乳を吸った。

 流れるように自然な動きで二人の息がよくあっている。母と子はすごい力で通じ合っているのだとそのさりげない一瞬だけで感じさせられた。

 あの頼りない赤ん坊が乳を吸う時だけやたら逞しく見える。それを見守るシズカさんの少し疲れた目が、涙が出るほど美しかった。

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