10、雨上がり

 --鷹司くんは何もしない。

 だけど、彼がどこにいるのかはすぐに分かる。廊下で彼が歩いてくるとモーゼが海を割るかの如く、人は皆道を開ける。そういう星の元に生まれたからと言われてもすんなり受け入れてしまえただろう。歩くだけでその姿は気高く目を奪われるのだ。女子は、特に。


 それが合図に身構えることが多くなった。彼は身長が高いので、人混みがしっかりと割れる前に見つかってしまう。


「いつきちゃん!」


 いつでも満面の笑みでこちらへやってくる。そして、いつものようにレオくんが私を睨みつけながら、後ろに控えているのだ。


「今から食堂行くんだけど、お昼、一緒にどお?」

「今日は寮からお弁当が出てるので。ありがとう」

「じゃあ、俺も売店で買ってこようかな」

「でも、これから、生徒会室でランチミーティングで……」

「へえ、俺らも混ぜてもらおうか。勉強させてもらおう」


 鷹司くんはレオくんにそう言うと、レオくんはいいよと頷いた。


「え、でも、あの」

「場所はわかるから。先に行ってて」


 そう言うと踵を返し、そのまま売店へ向かって行ってしまった。レオくんは後を追うのかと思いきや、こちらを向き小さく舌打ちをした。


「下手くそ」

「え?」


 ぽかんとしていると、耳元まで近づいてきて、


「断るならしっかり断りなよ。僕はあんたたちとなんかとランチしたくないんだから」


 早口でそう言うと、急いで体を離して一瞥し本当に嫌なものを見てしまったといった表情で、どれだけ私が気に入らないかを精一杯伝えてきているようだった。


「ご、ごめんね」


 謝罪さえ口ごたえに感じるのだろう。ブスと捨て台詞を吐いて、そのまま走って行ってしまった。


 レオくんとの、こういったやりとりは日常茶飯事になりつつあり、マリヤは何度かそれを目の当たりにし、彼へ抗議すると言って聞かないこともあった。


 確かにこんな言われ方をして、傷つかないと言えば嘘になるが、実は、私の方はそこまで深刻でもないのであった。

 彼の球体人形のような美しさが、それを全て許してしまえていた。もう、そういうものなのだと納得してしまえるだけの説得力と、何より、暴言さえ可愛く思える、ある種の愛嬌を彼は持っていた。

 男の子としては、あまり歓迎できる才能ではないのかもしれない。でも、私はマリヤみたいに憎めないでいた。



 *   *   *



 その日は昼過ぎからスコールが降り、カラカラに乾いた島をあっという間にずぶ濡れにして去って行ってしまった。夕日が今更のように地面を必死に照りつけ、湿度ばかりが上がっていくようだ。


 教室から見える海はジュースみたいに鮮やかなピンクで染まり、飲んだらいちごの味がしそうで、こんなたくさん甘いもの飲めないわよってマリヤは嫌がりそうだなと思うと、その顔を想像して笑えた。


 そんなことを考えていると、寮へ帰ろうとした足は、いつのまにか中庭の見えるテラスへ来てしまうのだった。


 あの日から。

 売店でいちごミルクのパックを買って来て、テラス席へ座る。見上げる木々たちは、雫を反射させて風に揺れ、なんだか機嫌が良さそうだ。ストローをパックにさしてチュッと吸いながら、気づけば目線は低いところを探している。


 そして、すぐに、見つけ出す。

 今日は池のそばの雑草を抜いているのか、屈みこんで作業をしているので真生さんはこちらへ全く気がつく様子はない。私はその様子を見ながら、少しづつ、少しづつ、飲み物を飲んでいた。


 真生さんは、抜いた草もすぐにカゴへ入れてしまうのではなく、丹念に観察をして、なにかを納得してから、名残惜しそうにカゴへ入れていく。本当に植物が好きなのだなあと、ほとほと呆れてしまうその作業は、ふとした拍子に終わってしまった。


 カゴへ雑草を入れようと顔を上げた時、私と目が合ってしまったのだ。

 真生さんはそのまましばらく私を見てからヘラっと笑い、首から下げたタオルで顔を拭きつつこちらへ歩き出す。私は一気に緊張し、肩に力が入るのを感じていた。

 テラスのガラス越しに私の前までやって来て、帽子を脱ぎ会釈して言った。


「こんにちは」

「……こんにちは」


 見上げる真生さんの顎から、汗の滴が落ちる。ぐっしょり濡れた白いシャツが胸元に張り付き、肌が透けていて、私は思わず目をそらす。


「さっき、すごかったね、雨」

「降られちゃったんですか?」

「ちょっとね。でも、さすがにひどくなってからは雨宿りしてたよ」

「あっ、タオル、新しいの持ってきましょうか」

「ううん、大丈夫だよ。どうせ汗だくだったし天然のシャワーだと思えば。あ、それより……」


 そう言って珍しく何か企んだような顔をした真生さんは、私の目線にパッと手のひらを広げて見せた。そこには苔色の小さなアマガエルが乗っていた。


「見て、雨で出てきたんだ。野生のアマガエル」

「かわいい」

「えっ、かわいい? 本当? 怖がらないの?」

「? 怖くないです」


 アマガエルは真生さんの手のひらの上でつぶらな目を忙しなく動かしていた。口角が上がっており、なにやら楽しそうにさえ見える。こんなに小さいのに、怖いものか。


「うわあ、嬉しいなあ! かわいいよね! 姉さんなんて、大嫌いなんだよ。こうやっていきなり見せると、尻もちつくほど驚くんだ」

「ひどい。尻もちつかせようとしてたんですか?」

「いや、そういうわけじゃないんだけど……あっ!」


 真生さんがいきなり声のボリュームを上げたので驚いたのか、カエルは長い足で思いきり手のひらを蹴り、飛び出してどこかへ行ってしまった。


「ああ! いけない、池に返そうと思ってたのに……!」


 真生さんはそう言いながら、急いで屈み、地面を探し始めた。私も反射的に一緒に屈み、そしてふと、真生さんに出会った時のことを思い出していた。

 こんな風に、あの時も、生き物を探して地面に這いつくばっていた。

 変な大人だなと思った。こうして放課後にちょっとしたお話をする友達になれるだなんて、思ってもみなかった。奇妙なご縁をかみしめるように、私は真生さんを眺める。


 真生さんは、ガラスに手を添え芝生を覗き込むようにカエルを探していた。真生さんの大きな手のひらは、カエルの吸盤がガラスに吸い付いているのを裏から見ているみたいだった。


 私は、カエルを探すふりをして、同じようにガラスに手を添える。指先だけ、ガラス越しに真生さんの手に重なった。

 低いところで、二人で、こっそり、隠れて悪いことをしているような気分。だけど、それが私の心の知らない部分をくすぐっていて、私はそれを自覚して、楽しんでいるのだった。


 テラスのガラス越しの真生さんの体温はこちらへ伝わることはなく、スコールで冷え切った無機質の冷たさが私の手のひらの温度を奪っていく。

 それなのに、私の体は熱くて、熱くて。時々、息が苦しくなった。


「いた!」


 その声を聞いた瞬間、ガラスに張り付いた真生さんの手は離れ、私も手を同じ速度で自分の体の後ろへ手をひいた。


 真生さんは、芝生ごとカエルを包むように捕まえた。良かったですねと私は立ち上がりながら、手を重ねたことを気づかれた様子はないかと一瞬ドキっとしたが、そんな心配は全くないようだった。


「ごめん、この子返してくる。じゃあ、いつきちゃんも気をつけて帰ってね」


 そう言って、真生さんはあっという間に池の方へ走っていってしまった。

 私はそれを見届けながら、ガラスに触れた手を胸元で握る。冷えた手がじわりと熱を取り戻すのを感じ、そしてパックのいちごミルクを一気に飲み干し、大きく息をついた。胸のドキドキが収まるのを、椅子の背を掴んで待った。




 やがて、こうしていてもしょうがないと、飲み干したジュースのパックをダストボックスへ捨て、寮へ戻ろうと振り返った時だった。


 鷹司くんが、少し向こうにある売店の近くでこちらを見ていた。

 まるでいたずらをする我が子を見つけた母親のような目で、私をじっと見ている。そして、その斜め後ろで、いつものようにレオくんが面倒くさそうに控えているのだ。


ーー見られていた?

 私は気まずさと、猛烈な恥ずかしさを感じ、二人に気づかないふりをしてその場を離れようとした。しかし、その背中を追うように、いつもの「いつきちゃん!」という声に引き止められた。


 恐る恐る振り返ると、人違いをしたのかと思うほどいつもの調子の鷹司くんが、こんにちはと言いながら私のところへやって来た。


「こんにちは」


 私はなんとなく遥くんと目が合わせられず、後ろのレオくんを見る。レオくんは左端だけ口角を上げてニヤニヤしていて、それがますます居心地を悪くさせた。


「庭師さん、知り合いなの?」


 屈託無く、鷹司くんは中庭を指差しながら言った。


「え?」


 どきりと心臓が跳ねる。


「さっき、庭師さんと、話ししてなかった?」

「ああ、うん。ちょっと、お世話になってる人の、弟さんで……」

「ふうん」


 鷹司くんはそういうとしばらく中庭を眺めて、またにっこりとこちらへ向き直る。


「お世話になってる人って、誰?」

「え……」

「俺、知ってる人かなあ」

「あ、いや、知らないと思う」

「そうか」


 鷹司くんはそう言うと、また中庭の方を眺めた。私は、チャンスとばかりに一歩体を引きながら「じゃあ、私、寮に戻らないといけないから、これで」と、その場を離れようとした時だった。


「いつきちゃん」 


 鷹司くんは私の冷えた手をぐっと掴む。


「俺とも、放課後、おしゃべりしようよ」 


 綺麗な顔で見下ろされ、掴まれた手にジンと鷹司くんの体温が伝わる。


「うん、そうだね。またね」


 逃げるように二人を置いて走って来てしまったが、私はあの一言を、ちゃんと普通に言えていただろうか。震えたような声に、なってはいなかっただろうか。




 寮の廊下まで戻るとどっと気が抜けて、しばらく海を眺めた。

 鷹司くんといるところを真生さんに見られたくなかったんだ、私。どうしてだろう、なんであんな気持ちになるんだろう。


 自分の気持ちさえ掴み損ねていく。こんなことで将来の進路なんてきちんと決めることができるのだろうか。なんとなく、マリヤにも言いづらい。マリヤに相談できないことなんてこれまで一つもなかったのに。


 海を見ている時だけ、心が休まるような気がした。潮騒は、何も教えてはくれないのに。

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