9、夏の庭

 麗華さんと真生さんの今の住まいは、この島で一番栄えている港の近くの商店街よりもう少し山へ上がったところにあるらしい。


 なので、学園からは近いが、夕飯の買い物をするには麗華さんの車で山道をしばらく下って行かなくてはならない。   

 もう夕方だというのに蝉しぐれが降り注ぎ、窓の外を見ると木々の間から海を見渡せる。夕日が海に一本の光の道を作り周りは真っ赤になっていた。山道を抜けるとだんだんと民家が増え、商店街に入り、港へ近づいていく。

 道行く人に男の人が多くて知らない街の景色に見える。本島ってこんな感じだんだろうなと、ぼんやり考えていた。


 スーパーでは、麗華さんと食材を眺めながらやっぱりそうめんにしようということになった。手帳にこのスーパーの会計アプリは入れてある。そうめんは硬めに茹で上がるものを選び、茗荷とねぎと生姜、麗華さんが揚げ浸しも作ろうと、ナスとオクラとかぼちゃも買った。精算キーを押して、出口へ向かうとロボットが商品を袋に入れておいてくれるので、それを持ち帰る。


 麗華さんの家へ着く頃にはお腹が減り始めていた。


「真生が日が落ちる前に夕飯食べに一旦帰ってくるの。七時過ぎには戻ると思うから、それまでに用意しておきたいのよね」

「またどこか行かれるんですか?」

「うん、食べたら、その日の資料まとめに研究室へね。戻りがいつも深夜かな」

「うわ、大変ですね」

「しょうがないのよ、この島三ヶ月しかいられないし、来年また来られるとも限らないしね」


 買ってきた食材をテキパキと冷蔵庫へ片付けながら麗華さんは言う。私は荷物をその場におろし、ボストンバッグからエプロンを取り出す。もう六時を過ぎているので急いだ方がいいということだ。


「まあ、準備がよろしいこと。いい奥さんになれるわよ」


 野菜を取り出し洗っていると、麗華さんは作業しやすいように、私の肩まである髪の毛をうしろで結んでくれた。マリヤではない、他の人に髪の毛をまとめてもらうなんて初めてで、後頭部が慣れない感触にくすぐったくて、恥ずかしい。


 でも、自分でも驚いたのだけど、それが私は嬉しかった。

 一緒に料理をしながら、いろんな話をした。麗華さんの仕事のこと、振られた元彼の話、家族の話。端々に本島の人々の暮らしが垣間見える。


「私はね、母の仕事の都合で欧米圏の島にいたの。だから、この島のことは知らないのだけど、雰囲気はよく似てるから懐かしいわ。私の本島での話なんて作り話みたいに聞こえない?」


 野菜の揚げ具合を見ながら、私は頷く。


「でしょ、私もそうだったもの。でも、それが今の私の日常で、現実で、ここまでの人生を俯瞰で見るとあそこにいた時間の方がもう短い。あの頃が夢のようにさえ思うものね」


 そう言うと、麗華さんはいきなり恥ずかしそうに顔を覆った。


「やだ、年寄りみたいじゃない! もう、嫌ね、思い出話になると感傷的になっちゃって……」


 私は麗華さんのふてくされた顔を見て、本当に可愛らしい人だなと思う。


「島での暮らしの方が短いなんて、麗華さんて本当はおいくつですか?」

「あ、本当に年寄りだって思ったんでしょ」

「その割にはずいぶんお若く見えるので」

「あのねー。私、頭だけは優秀で飛び級して十六歳でエイレイテュイアへ就職したからね……! って、そうか、こちらの島は飛び級制度ないのね」

「はい。それでもお若く見えますよ」

「そりゃ、どーも」

「……なんか、不思議ですよね」

「ん?」

「まったく違う日常を送る二人で、こうしてお夕飯、作ってるの」


 麗華さんは「ほんとだ」と、吹き出して笑う。そして、その横顔の目尻に真生さんの雰囲気を見つけて、まったく似てないのにやはり姉弟なのだなあとぼんやり思った。DNAが運ぶのは、こうした“雰囲気”なのかもしれない。


「大人になったら楽しいことばかりではないけど、やっぱり、世界は広いわよ。こんな小さな島だけの世界はちょっと息苦しいわよね」


 少しの同情を含んだ麗華さんの言葉に私は微笑んで受け応えたが、それだけは違うのだった。

 私は、この島を息苦しいと感じたことは一度だってなかった。



 やがて真生まきおさんが帰宅し、すぐに夕食となった。リビングは網戸だけにして、潮の香りがする風がよく通る。 

 そのうち台所の電灯に虫が集まる。すると食卓は真生さんの薀蓄で大騒ぎだった。かなり多めに作ったそうめんも野菜の揚げ物も、三人であっという間に平らげた。


「自分が住んでる空間に虫がいる。これが当たり前の景色なんだよ。自然ということなんだ。でも、本島じゃこんなことは有り得ない。おかしいと思わない? この島には当たり前のことが当たり前にある。僕はそれが夢の世界のように思うんだ。どうしてこんなあべこべなことが起こるんだろう」

「真生、そろそろ戻らなくて平気?」


 麗華さんが時計を指差しながら、食卓を片付けた。


「ああ、まずい。行ってきます」


 真生さんは作業着の上着を羽織りながら駆け足で出かけて行く。その様子をまた二人で笑いながら見ていた。


 麗華さんと二人で片付けをして、一緒にお風呂に入った。麗華さんは自分のベッドの横に簡易ベッドを出して眠くなるまでおしゃべりしましょうと言ってくれたのだが、やはり疲れていたのだろう、日付を超える前に寝てしまった。


 私は環境が違うからなのかうまく寝付けず、そうしているうちに喉に渇きを覚え、水を飲もうとリビングへ行った。さっき片付けも手伝ったので食器の位置はわかっていた。コップにミネラルウォーターを注いでいると、リビングのドアが開いた。


「あれ、いつきちゃん、まだ起きてたの」

「真生さん、お帰りなさい」


 真生さんは軽く会釈をしてヘラっと笑って荷物を下ろすと、上着を脱ぎながらリビングを出て行った。そのままお風呂へ向かったようだ。


 私は水を口に含むようにゆっくり飲んだ。眠気を呼びたくて、外の虫の音と波の音に耳をすませる。心なしか寮にいる時よりも波の音が近い。そこへやがてシャワーの音が重なり、なぜだか心騒がしく、眠気どころでは無くなってしまった。


 もう目が冴えてしまったので、こうなったらしょうがない。

 開き直って食後に食べようと思いそのまま忘れていたソーダバーのアイスを取り出し、リビングから縁側に出て夜空を見上げながら食べた。星の名前でも分かれば面白いのになあと思う。


 ふと視界に影がかかり、振り返ると首からタオルをかけTシャツとスウェットパンツに着替えた真生さんがアイスの袋をぶらぶらさせながら立っていた。


「これ、姉さんのかな」

「そうだと思います」

「じゃあ、いいか」


 真生さんは隣に座りながらアイスを袋から出してかぶりついた。真生さんが動くとふわりと、自分と同じ石鹸の香りがする。無意識に鼻が匂いを追いかけているのに気がついて、私の心は焦る。


「髪、乾かしてこないと風邪ひきますよ」

「大丈夫、これ食べ終わるまでに乾くよ、きっと」

「勝手に食べちゃって大丈夫ですか? 麗華さんに怒られますよ」

「姉さん、この前、僕の楽しみにしてたシュークリーム食っちゃったんだよ。だから、仕返し、仕返し」


 夜疲れて帰ってきて、汗を流したらここで空を見上げながら甘いものを食べるのがいつもの楽しみなのだそうだ。


「今日はお供がいて嬉しいよ」


 ブルーのアイスバーは、生ぬるい夜風に吹かれてどんどん溶けていく。真生さんの小指に滴り、雫になって落ちるかと思った瞬間、舌がそれを掬い取ってしまう。私はそれに釘付けとなる。


「真生さん、聞いてもいいですか」

「うん?」

「立派な仕事だって、おっしゃってたじゃないですか、さっき」


 真生さんは思い出したのか小さくあっ、と空気を飲む。


「いつきちゃんの……」


 頷き、私は続ける。


「私の友達は、私にそんな野蛮なことはさせられないと泣いてくれました。私のことを一番に考えてくれる大切な友達が、です。友達を悲しませるような、そんな仕事が立派なんでしょうか?」


 真生さんは、わかりやすい人だなと思った。纏っている気配が一瞬で変わる。私の問いに対する答えを必死に用意しようとしている。どう答えれば大人として正しいか、どう言葉を選べば誠実か。


 そのまま、屈むような体制で黙り込んでしまった。指先でつまんだアイスバーは溶けるままになって落ち、土に吸い込まれていった。

 私は、真生さんのその姿をずっと見ていられると思った。だから、喋らなくては。


「どうして、人工知能に代理母を務める機械を作らせないんでしょうか。効率よく人口を増やしたいなら、女性の身体を痛めつけなくても、いくらだって方法はあるのに」


 真生さんは、ふっと息を吐き上体を起こすと私に向きなおり言った。


「あの時は、大した考えもなく立派だなんて言って、ごめん。いつきちゃんのお友達の言う通りだね、苦しい、痛い思いをするのはいつきちゃんの身体だ」


 真生さんは、背筋を伸ばして話し出したので私は自然と見上げる形になる。さっきまでのあの猫背は、私に目線を合わせてくれていたのだ。


「でも、ごめん。ちゃんと考えてみても、やっぱり立派だと僕は思う。人口を増やすことは確かに急務だし大事なことなんだ。だけど、僕たちは生き物だ」

「え? いきもの?」

「そう、この島の、木とか、花とか、鳥とか、虫と、おんなじものだ」


 自分が眉をしかめているのが分かる。真生さんはゆっくり続ける。


「僕は後ろめたくも思う。男だから、産むことができないから、結局は女の人たちに任せなければいけない。辛いことは全部、女の人に背負ってもらわなきゃいけない。でも、それでも、生き物だから。僕は機械になりたくないんだ」

「いえ、別に機械から生まれるからといって、機械になるわけじゃありません。産むのは機械でも、人間の卵子と精子で生まれてくるのは、人間です」

「そうだとしても」


 ……どうして?

 どうして、真生さんが、そんなに傷ついた目をするの。


「僕は、女の人から産まれたい」


 真生さんは申し訳なさそうにそういうと溶けかけた残りのアイスを掬って食べた。 

 私は言葉がうまく繋げなくて黙り込む。機械から生まれても、女から生まれても、生まれて生きていけるのならば大した違いがあるようにも思われない。だけど、真生さんのその一言が棘のように刺さって、私の中で小さく傷を作ったような気がした。


 そのまましばらく二人でそこに座っていた。なんの答えも出ないまま、私たちは並んで空を見上げる。


 星は動き、夏の虫は潮騒を伴奏にしてやかましく鳴き続ける。蒸し暑く、髪の毛が頬につく。

 夏の庭の夜はこのまま明けないような気さえした。

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