第3章 夏の庭

8、 勿忘草

 今年は例年に比べて冷夏だなんていうけど、そんなの嘘だ。現に私は夏バテで、毎日体を引きずるように生活しているし、鷹司くんは子犬みたいにまとわりついてくるし、その飼い主のレオくんににらまれ、マリヤはそれらにきちんと対応できない私の世話に追われていた。


 そんな風に浮き足立っていた学園内も大分落ち着いてきたように感じる。廊下で男子生徒とすれ違うのも見慣れてきたし、男の子の友人ができた子たちもいるようで、みんな夏を謳歌しているように見える。

 

 その日は、麗華さんが放課後学園に訪問し、私に会いにきていた。

 最近あったことや、悩み事はないかとか、体調はどうかとか、たわいのないことを話しに来る。中庭が見えるガラス張りのテラスで、売店の紅茶を飲みながらお喋りするのが恒例となりつつあった。


 中庭は、ちょっとした洋式庭園風になっており、たくさんの植物が植えられていて、どこにそんなに隠れていたのかと思うくらい春先から季節の花が次々とバトンリレーのように咲く。中央に小さな池があり、小等部の子たちが鯉やメダカの世話をよくしている。誰が担当しているのか手入れは適当で、見ごたえのある庭ではないが素朴でそこがいいと、私は思う。


 いつものように世間話をしていると、池の向こうの茂みから人影がひょっこりと現れ、こちらへ向かって手を振っていた。男の人のようで顔のほとんどをすっぽりと覆った大きなマスクをし、庇の大きな帽子をかぶり、大きな籠の中に庭園の手入れの道具をたくさん詰め込んだものを担いで、胴付長靴を穿いている。


 私が首を傾げそれを眺めていると、私の視線を追ってその人に気がついた麗華さんが、あ、来た来た! と言いながら手招きをした。


「お知り合いですか?」


 私が少し驚いて尋ねると、麗華さんはにっこりしながら「あら、覚えてない?」と、聞き返してきた。

 私はもっとよく見えるよう中腰で立ち上がり、その人の様子を見る。テラスに入って来る前の扉で身につけているものをそこへ下ろし荷物の上に帽子も置く。マスクを外しながら扉を開けて入って来たときに気がついた。


「……あ! 弟さん?」


 弟さんは真っ黒に日焼けしていて、伸びた前髪が汗で額に張り付き、首に巻いたタオルで顔を拭いながら会釈をする。麗華さんは売店から冷たい飲み物を買って来て、空いた椅子をすすめ、三人で円卓を囲んだ。


「改めて紹介するわね、弟の真生まきお・オオウチよ」

「オオウチ?」

「僕は、父のを」


 私は紅茶に口をつけながらなるほどと軽く頷いた。麗華さんはお母さんの性を名乗って、真生さんはお父さんの性を名乗って、麗華さんのお母様と三人暮らししてるってことか。自分と比べることではないがどこのお家もなかなかだ。


「あっ、あの、今日はこれをお返ししたくて……」


 そう言いながら、真生さんは腰のボトルポーチのポケットから、あの日貸したハンカチを取り出した。


「今日、姉がいつきさんを訪ねると伺ったものですから、すみません」


 ガッチリした体つきをしているのに、こうして話し出すと猫背がどんどん丸まってこぢんまりと見える。ハンカチのことなんてすっかり忘れていた。


「そんな、お気を遣わせてしまってすみません」


 ハンカチは洗われ、キレイにアイロンもかけてある。受け取ろうとしたとき、一緒に小さな封筒が添えてあり、これは?と尋ねると、お礼です、と、真生さんは言った。開けてみると押し花のしおりが入っていた。


勿忘草わすれなぐさです、この島で借りている家の近所にたくさん生えてまして」

「近所ったって、車で三十分以上行った山の奥だけど」


 呆れながら麗華さんが口を挟む。


「すみません、女の子の学生さんが、何が喜ぶかわからなくて……」

「……可愛い。ありがとうございます、大切に使います」

「あ、いえ、こちらこそありがとうございました」


 真生さんはヘラっと笑って飲み物を飲んだ。


「真生ね、研究の合間でここの中庭の手入れ手伝うことになったの。だから、いつきちゃん、ちょいちょい会うかと思うけど、よろしくしてやってね」

「ああ、そうなんですか」


 それがさあ……と、麗華さんが話し始めようとしたとき、麗華さんの手帳から呼び出し音が鳴った。


「ああ、ちょっと、ごめん、仕事の用事だわ」


 麗華さんは申し訳なさそうに立ち上がり、通信をうけながら中庭へ移動して行った。

 テラスは他に人がおらず、二人取り残された席は妙な緊張で静まり返った。真生さんも同じように落ち着かない様子で、扉の向こうにいる麗華さんを見ている。


「あの」


 真生さんが少し驚いて私を見た。私も、驚いている。何を言い出すんだ、私。


「野生の蟻がいないって、本当ですか」

「え? ああ……」


 真生さんはあの日のことを思い出したのだろう、恥ずかしそうに頭を掻いた。


「本当です。本島の虫たちは、ミクロサイズのAIが寄生虫のように入り込んでしまっていて、天然のものはほとんどいません」

「どうしてあんな小さい虫、天然か天然じゃないかなんてわかるんですか?」

「目、です」

「目?」

「はい、生き物の、あったかい目をしています」


 真生さんはちょっと恥ずかしそうに、飲み物をとりながら、言った。


「……なんてね。ちゃんと生体検査をしないと確かなことなんて言えないんですが。俺が勝手にそんな気がしてるだけなんです。それに虫自体、本島ではあんまり見かけませんので、あの時は、つい」

「いえ……」


 この人の纏う、この空気はなんだろうか。耳の後ろから伝う汗が顎をつたい、首筋へ流れた。そのまま首のタオルに吸われる様を。喉仏が飲み物を流し込むためコクリと動くその様子を。少し垂れた、優しい一重まぶたの目の瞬きを。ずっと、見ていられると思った。


「私は浅倉いつきです」

「はい、知ってます」


 真生さんはぺこりと頭をさげる。


「私のこと、どこまで知ってますか」

「姉の仕事の範囲のことを、知ってます」


 やはり、大人たちの間では周知されてるんだ。そうですか、と諦めのまじったため息が出た。


「すごい、ですね」

「何がですか」

「立派な、お仕事だと思います」


 何かが引っかかり、何かを言い返したくなり、でも何を言ったらいいのか、何を言い出すのか自分でわからない。

 その時、ガチャリと中庭の扉が開く音がして、ごめんごめんと騒がしく麗華さんが戻って来てくれて、私は少し胸をなでおろした。


「外、暑ぅい! あんた、よくこんな中で仕事してられるわね」


 そう言いながら麗華さんは席に着くと飲み物をゴクゴク飲み干し、真生さんはその様子を微笑みながら見ていた。


「よし、明日は日曜日だし、いつきちゃん、今日うちに泊まりにいらっしゃい」

「え? 今からですか!?」

「そう、もっとあなたと分かり合いたいのよ。衣食住を共にして、交流を深めましょう。真生、構わないでしょう?」


 真生さんはヘラっと笑って頷く。


「うん。でも、衣はいいんじゃないかな、自分の持ち物で」

「あの、ありがたいお話ですが、無理です。外泊は認められてないんです」

「そう、任せて」


 麗華さんはそう言うと、その場で寮の担当シスターに連絡を入れてとっとと外泊の段取りをつけてしまった。


 じゃあ後でね、と麗華さんが解散号令を出すと、真生さんは仕事に戻り、私は麗華さんに連れられて寮に戻り、普段着に着替え、簡単な荷造りをして寮を後にした。

 あとで怖いので、マリヤには、メール報告だけでなく簡単な置き手紙も残した。

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