3、 親友
寮の部屋に戻り、自分の勉強机に座った時、やっと肺の奥まで酸素が行き渡った気持ちがした。
机の上には誰かが届けてくれた膨大な委員会の議事録があった。確認しなくてはと手を伸ばした時、生徒手帳に麗華さんからのメールが届いた。改めて挨拶のような内容で、確認したことを返信したところでマリヤが帰ってきて、ふわりと、シャンプーの香りがした。
「あれ、早いね。お風呂、もう行ってきたの?」
「ええ、この時間はまだ空いてるから」
マリヤは着替えを片付けながら言った。
「食堂行く前にいつきも入っておいでよ。待っててあげるから」
「ありがとう、でも先に食べようかな。お腹すいちゃった」
「そう? じゃあ、行こうか」
マリヤは出口へ向かいながら、器用に洗いたての長い髪をくるくると巻き上げバンスクリップで留め、こちらを振り向くと、そのままじっと私を見た。
「何か、あった?」
スタスタと私の前までやってきて、頭に手を置き、私を覗き込む。子供の頃から、こうだ。マリヤは私の全てを見逃しはしない。それがおかしくて私は笑いながらマリヤを見上げる。
「なんで分かるの」
「分かる何も」
マリヤは自分の胸に私を抱きしめながら、言った。
「いつき、泣いてるじゃない」
それから、マリヤは私をずっと泣かせてくれた。
私が泣きやむまで気長に待ち、今日あったことを丁寧に聴取し、やがて麗華さんから渡された資料をじっくりと読み込んでいた。
気が付いたら二十二時を過ぎている。
お風呂の使用時間が二十三時までなので、マリヤは早く入ってこいと私に着替えを持たせて送り出した。今日はシャワーしか浴びられないけど、さっぱりした分ちょっとだけ気が晴れた。
部屋へ戻るとマリヤが食堂から夜食を貰って来てくれていた。照り焼きチキンのサンドウィッチと、サラダと、コーンスープ。ベッドの脇にテーブルを出してそれを並べ、デカフェのカフェオレを入れてくれた。
並んで座り、二人で黙ってそれを食べた。
夏の虫の声がやかましく、私たちの無言を埋めていく。
私たちの食事のテンポはいつも同じで、どちらが速すぎることも遅すぎることもない。そろそろ食べ終わるという頃、ぽつりと、マリヤが言った。
「私、決めたわ」
「ん?」
「私、研究者になる」
何事かとマリヤを見る。視線を捕まえたマリヤの目は怒りに満ちていた。
「やっぱりおかしいわ、マザーなんて制度。人工知能で管理して、胎児を新生児まで育てる技術は既にあるはずよ。人口を増やしたいだけならどうしてそれを使って効率化しないの? わざわざ女性の身体を犠牲にして、苦しめて、男性のエゴ優先の非効率な方法で人口だけは増やしたいだけなんてナンセンスだわ。女性をなんだと思ってるのよ」
「それと研究者と何が」
「だから……」
マリヤは私の手をとり、胸元で握りしめる。
「そんな野蛮なこといつきにさせられない。マザーなんて、何の才能もないけど体だけは丈夫って人がやる仕事よ。あなたはリーダーシップもあって、頭もいい、人に対する思いやりもある。あなたの才能を必要とするもっと有意義な仕事は、他に絶対にある。女性に……いいえ、親友にこんな思いをさせる制度なんか、私が壊す。研究者になって、マザーの代わりになるシステムを、私が作るわ」
涙ぐみながら必死に、祈りのように、言葉を私へ刻むように、マリヤは言う。
——ああ、神様。
どんなに怖いことが起こっても、マリヤがいてくれるから私は平気です。
小さい頃から、いつも得体の知れない何かからまとわりつかれるような気がして生きてきた。足元がおぼつかない、つかまるものが何もない、見えない、聞こえない、そんな不安。
足を踏み外して落下しそうになる。まずいと思った瞬間、手を掴み引き上げてくれるのは、いつもマリヤだった。
私に友達をくれてありがとうございます。
私に、マリヤをくれてありがとうございます。
私はマリヤの首にしがみつき、今度は声をあげて、泣いた。
次の日の朝、マリヤは私を起こさないよう静かに準備をして先に学校へ行っていた。生理休暇を使って、午後から登校することにしてベッドの中でひたすらぼうっとして過ごした。先生方や麗華さんのメールはちらっと読んで、そのままにした。
昼食の後、学校へ行く準備のため部屋に戻った時、ゴミ箱の中にあの書類が丸めて捨てられているのを見つけた。マリヤが捨ててしまっていたのだ。
それを拾い上げて広げてみると、マザーになるための研修を受けますといった内容の誓約書だった。
私はしばし眺めたあと、なんとなく、その書類のシワを丁寧に伸ばし、自分の鍵付きの引き出しの中へしまった。
……なんとなく。
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