2、 エイレイテュイア

 マリヤの忠告通り、その日は本当に忙しかった。


 先生方はこれから生徒は皆死ぬほど忙しくなるのをご存知ないのか、嫌がらせかと思うくらいこなさなきゃいけない課題が出たし(おかげで昼食はオレンジジュースを飲むだけ)、生徒会の仕事も本格的に動き出したので、授業の合間をぬって生徒会担当の先生と高等部の先輩方と今日の放課後にある委員会の打ち合わせをした。


 こんな日に限って昼休憩直後の授業は体育だし、おまけに朝一番で生理がきて、腰回りに人が縋り付いているかのようにずっと重く鬱陶しかった。

 紺色のブレザーに深緋色ふかひいろのひもリボン、白いブラウスに膝丈の紺のプリーツスカート。たったこれだけの制服なのに、今日はスカートの裾がシワになってしまい、それも気に入らない。自分のご機嫌と付き合うのが大変しんどい日であった。


 それでもなんとか一日を過ごし、あとはホームルームで今日は終わりという時、私の生徒手帳に一通のメールが届いた。進路指導担当のエドアルド先生からだった。


『浅倉いつきさん

 ホームルーム終了後、校長室へ来てください。進路についてのご相談とお客様があります』


 進路指導? お客様? 

 全く身に覚えがなく、話の予測ができない。誰かと間違えていないだろうか。それに、今日このあとはすぐ委員会へ入らなくてはならない。中学部の生徒会長が不在では歓迎会の今後の予定が立てられず迷惑をかけてしまう。その旨を返信すると、すぐにまた生徒手帳からメールを知らせる短い着信音が鳴った。


『その件でしたら私から委員会関係者へ連絡をしておきますので、問題ありません。浅倉さんはすぐに校長室へ来ていただくよう。』


 学生主体とはいえ、歓迎会はそれなりに重要視される行事の一つであるというのに、それを差し置いてでもというのは、一体どういうことだろうか。

 人違いでもなさそうだけれど、島の外には知り合いも親戚もおらず、わざわざ学校まで私を訪ねてくるほどの用事がある人なんていないと思うのだが……。あれこれ思案しているうちにホームルームを終え、私は言われるがまま重い足取りで校長室へ向かった。


 この学園は、生徒らがいる教室のある棟と教員室や校長室のある棟は別になっており、三階にある渡り廊下で繋がってる。結構な距離があり、トボトボ歩いている途中で移動ロボットに乗っていくかと訪ねられたが、虚しい時間稼ぎのために断った。   


 私たちの校舎は島の小高い丘の上にあるので、全面ガラス張りの渡り廊下からは海を挟んだ本島を見渡すことができる。もうすぐ夕方というこの時間帯には海が夕日をピンク色に反射させ、その光は波に揺られてあちらこちらで輝き、その上を忙しなく船が行き来している。本島のシルエットが逆光で水墨画のように見え、暗くなっていく空と溶けつつあるようでそのグラデーションが美しい。

 そんな本島の裾では、人が暮らしているのだ。こことは全く違った世界がある……らしい。

 少しの不安にかられ、それを振り払うように私は校長室へ急いだ。



 それからのことは、まだ、飲み込めていない。


 校長室へ到着するやいなや応接セットのソファへ通され、そこには知らない老紳士と若い女性が待っており、向かいに座るよう言われた。

 校長のアビー先生は神妙な面持ちでご自分のデスクに座られ私をずっと見つめている。エドアルド先生は私をソファまで案内すると、そのまま後ろへ控えるように立った。

 大人たちの様子が気になるが、全員が私を見ているような気がして思わず顔を伏せた時、私の右手が不安のためかずっとスカートの裾を弄っていることに気がついた。

 やがて、老紳士が口を開いた。


「浅倉いつきさんだね」


 想像よりもずっと柔らかなその声に視線を上げると老紳士も目を細めて笑う。こんなにお年を召した男性を見るのは久しぶりだ。島には唯一の男性で美無神社うつくしむじんじゃの宮司様がいらっしゃるが、宮司様よりもおじいさんではないだろうか。なのに背筋はしっかりと伸びており、ノーネクタイのスーツ姿は素敵だ。

 老紳士は名刺を差し出しながら自己紹介を始めた。私は恐縮しながらそれを受け取る。


「私はエイレイテュイア機構の理事長をやらせて頂いております、姜浩宇ジャン・ハオユと言います、こちらはマザー部門の部長の柳麗華リュウ・レイカくん」


 紹介に続くよう女性が軽く会釈しながら名刺を差し出す。この人の名前は日本語読みなのかと、本当にどうでもいいことが頭をよぎる。


 エイレイテュイア。これを聞いてどきりとしない人間はいない。

 マザーだ。


「そう、怖がらんで聞いてください、なにも取って食おうというんじゃない。今日は、浅倉さんにお願いを申し上げたく、やって来ました」

「お願いですか」


 こんな機関から私に用事なんか一つしかない。でも、どうして私なのか。


「はい。ああ、どこから話せば分かりやすいかのぉ」


 姜さんは隣の女性に笑いかけながら、出されたお茶に手を伸ばす。


「すみません、エドアルド先生。中学三年の学年というのは、大方の性教育はお済みでしたかね」


 頭上から「はい」と先生が返答する。姜さんはそうですかとお茶で口を湿らせてからゆっくりと語り出した。


「では。まず、エイレイテュイア機構についてですが、これはもう説明はいらんですね。人類の子孫繁栄を目的とする世界連合の公的機構です。全世界から卵子、精子提供者を募り、卵と種の保存、人工授精を行い、胎児を育て、新生児をこの世に送り出すことをしている。そして、その胎児を育てていただく代理母部門が通称マザーと呼ばれていますが、いつきさんのお友達にもお母様がマザーだという方は珍しくないでしょう」


 小さく頷くと、また頭上からささやき声で「きちんとお返事をなさい」と声が降ってくる。私は姜さんを見据えて「はい」と答えた。ニコニコ笑いながら、ゆっくりと老紳士は話を続けた。


「この学園からも沢山の先輩方が務めて頂いてます。そして、浅倉さん、君にも将来はぜひマザーに就いて頂きたい。お願いというのは、コレです」


 ……やっぱり。


「あ、でもね、あなたの場合、少し事情が違うの」


 隣に座っていた女性が老紳士の語尾を食い気味に身を乗り出し、ここからは私が、と押し止めると姜さんはそれをニッコリと受けて、背もたれに沈むように座り直した。麗華さんは話を引き継ぎ、ゆっくり語り出した。


「マザーは、健康な女性の身体を借りて、厳選された受精卵をご自身の身体で育て出産して頂くお仕事ですが、朝倉さんのご両親はじめ、ご先祖も国籍がジーペンで、ご自分が純粋なジーペン人だということをご存知でしたか」


 首を横に振る、それが精一杯だった。自分の人種なんて、考えたこともなかった。

 母がいるということは、父がいる、必ず。その父と母にも親がいる。そんな当たり前のことが、なんだかピンとこなかった。


「社会で習ったとは思うけれど、ジーペンという国はとても小さな島国で、もともと人口も少なかった。その上、エイレイテュイア機構が誕生してからは人口数維持が最優先となったため、混血化がどんどん進むようになりました。それに伴い、純粋な種の保存をしようという動きも加速してね、この度ジーペン人という人種がその対象に入ることになりました。本当に、今時古臭い考えかもしれないけれど、伝統を残すという意味では大切なことだとも思うんです」


 麗華さんは呼吸を置き、私を伺う。私は小さく頷いた。


「もし、あなたにマザーになってもらえたら、あなたには純粋なジーペン人を産むことだけをして頂きます。そして、あなたの子供の代から、子供たち自身が世界文化遺産として世界連合から保護を受ける事となります」

「絶滅危惧種……とは、言えませんもんね」


 思わずハッと手で口を押さえても、出たものは戻らない。が、麗華さんは「すごい冗談」と言いながら吹き出した。姜さんも笑う。先生方は息を殺して私たちを見守っているようで、もう気配さえしない。


 少し空気が和んだからだろうか、今更、麗華さんがものすごい美人だと気がついた。切れ長の目元によく似合う真っ赤なルージュ。胸まである真っ黒なワンレングスのストレートヘアで浅黒い肌はとてもセクシーだ。

 麗華さんは「ああ、おかしい」と言いながら息を整え、自分のカバンから書類のファイルとオレンジ色のピルケースを取り出した。


「もちろん、将来を大きく左右することですし、あなたの体を酷使する仕事であることは間違いないの。でも、誰にも替えの効かない、あなたにしか出来ない仕事でもある。だから、しっかり考えてどうするかを聞かせてください。相談係りとして私は島に滞在します。アドレスをあとで送るから、深夜だろうが構わないからいつでもどんなことでも、何かあったらすぐ連絡してください。こちらに、大まかな説明や仕事の詳細、もしマザーとなったらどんな予定になっていくかという資料をまとめてありますので、考える際の参考にして。あと……」


 ピルケースを少し押し出しながら話を進める。


「これはサプリメントなんだけど、妊娠する身体を作る大事な栄養素の詰め合わせみたいなものなの。マザーを務めるには身体が資本だから。もし、マザーをやらないとしても、強い身体を作っておくのはいいことでしょ。今から、よかったら飲んでおいてください」

「はぁ、ありがとうございます」


 と、言いながら受け取るが、何がありがたいのやらさっぱりわからない。


「何か、聞きたい事とか、ない?」


 麗華さんは、私を覗き込みながら優しく聞いてくれた。


「すみません、何が、わからないのか、が、わからない状態、です」

「なんでもいいのよ」

「すみません」

「……わかったわ」


 その後姜さんと麗華さんは帰って行き、その見送りから戻られたエドアルド先生は、何も言わず私を抱きしめた。

 校長先生は、尊い仕事だが自分の全てを投げ打つに値するかは自分で決めなさいと仰って、私は、その声をエドアルド先生の胸の中で遠くに聞いた。

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