第3話

 ただの一度このようなことが行われただけだったが、幸恵はこれで子どもができたと確信した。何の根拠もなかったし、できる確率も低かっただろうが、不思議にも実際子どもができた。次の月、幸恵に生理が訪れず、三ヶ月経ったところで産婦人科へ行ったら子どもができていることを告げられた。幸恵もうれしかったし、トド子さんも子どもができたことを聞いたら、泣きながら喜んだ。幸恵は規則正しい生活をした方がいいと思い、コンビニのバイトを昼に行うことにし、夜はきちんと眠ることにした。トド子さんは相変わらずゲイバーで働きながら、時間が経っていった。幸恵の中で子どもは順調に大きくなっていった。トド子さんは幸恵のお腹に口を当て、

「私がパパよ」

 そうよく言っていた。また誰かから聞いたのか、トド子さんは赤ちゃんにはモーツァルトを聴かせるのがいいと言い、一日中CDラジカセでモーツァルトを流していた。幸恵もお腹の中で子どもが動くことを感じ、本当に今このお腹の中に子どもが宿んでいるのだと幸せな気持ちになった。二人にとってかけがえのない時間が過ぎていった。あっと言う間に臨月を迎え、いつ子どもが生まれても不思議ではない時期になった。トド子さんはどこで覚えてきたのかラマーズ法を幸恵に教えた。幸恵はバイトは辞めて、時間があると昼間街の中を歩いた。

 幸恵にはそれほどこだわりがなかったが、トド子さんは子どもが生まれたら何かと問題が起こる可能性があるからと、入籍をしておこうと提案した。幸恵には現実的にどのような不便が生じるのか分からなかったが、明らかに自分より世の中についてよく知っているトド子さんが言うのだから間違いないと思い、了承した。暦で大安の日を選び、二人で区役所へ行った。幸恵は普段着ているマタニティ・ワンピースで出かけたが、トド子さんさんはこのような時はきちんとした格好をしなければいけないと、どこにあったのか分からない男ものの礼服を着て出かけた。ただ婚姻届を機械的に担当窓口に出しただけだが、トド子さんにとっても幸恵にとっても何か感慨深かった。幸恵にとってはそれだけで十分だったが、トド子さんがしきりに行きたがるので、普段は気にも留めない町の写真屋さんへ行った。トド子さんは店に着いて何の躊躇もなく店内に入って行った。幸恵は料金のことが気がかりであまり気乗りしなかったが、トド子さんに付いていくしかなかった。一番安い記念写真の料金を聞いたら五千円ですと言われ、幸恵はやめておきたい気持ちで一杯になったが、トド子さんは当たり前のように写真を撮ってもらうことをお願いした。幸恵はもったいない気持ちにしかならなかったが、トド子さんがずいぶん乗り気だったため、写真を撮影してもらった。カメラマンさんが熟練した感じの人だったため、写真を撮られることが好きではない幸恵も自然に笑顔になれた。二人で撮った写真は、部屋の一番目立つ場所に飾られた。

 まだ予定日まで十日ほどのある夜、幸恵はお腹に違和感を感じていた。トド子さんは仕事でいなかった。まだ一人で歩ける状態だったので、歩いて通っていた産婦人科へ行った。やはりすでに陣痛が来ていたようで、ベッドに寝かされた。幸恵は子どもが生まれるところをトド子さんに見てもらいたいと思っていたので、陣痛の間の楽な時間に公衆電話からトド子さんの店に電話をかけた。なかなかトド子さんは電話口に出てこなかったが、ようやくトド子さんが出て、もうすぐ子どもが生まれそうなことを伝えた。一時間ほどしてトド子さんが病院に来た。まだまだ子どもは生まれそうになかったが、トド子さんは走って病院まで来て、汗をだらだらかいていた。しかも化粧を全く落としていなかったため、看護婦さんは不振そうな目でトド子さんを見た。しかし、トド子さんはそんなことは全く気にせず、幸恵に真顔で尋ねた。

「大丈夫、大丈夫?」

 幸恵はその時はまだ陣痛がそれほどひどくなかったため、お腹をさすりながら答えた。

「大丈夫よ。ほらパパが来てくれたわよ。もうこれで安心ね」

 トド子さんはとりあえずトイレに行って化粧を落とし、幸恵の寝ているベッドの横に落ち着きなく立っていた。

 幸恵の陣痛は間隔がどんどん短く、痛みも強烈になっていった。そんな幸恵の横にいながら何もしてやれないことを情けなく思いながら、トド子さんは幸恵のお腹をさすりながら、お腹に話しかけた。

「大丈夫、大丈夫よ」

 そんな状態が五時間も六時間も続き、幸恵の陣痛は強烈さを増していった。頻繁に幸恵の様子を見に来ていた看護師さんが言った。

「それでは、そろそろ分娩室に入りましょう」

 そして幸恵は車輪の着いたベッドに移され、分娩室に運ばれて行った。

「お父さんもどうぞ」

 看護師さんに言われ、何の心の準備もないまま、トド子さんも一緒に分娩室に入っていった。トド子さんにとっては不思議な光景だった。これからこの部屋で自分の子どもが生まれようとしているということが全くピンとこなかった。トド子さんは分娩室の中で何をしていいのか分からず居場所がない感じがした。とりあえず幸恵の横に立っていたものの、声をかける感じでもなかった。まだまだ子どもは生まれてきそうではなかった。看護師さんが幸恵に呼吸の仕方などを説明し、幸恵は苦しそうな状態でその通りにしていた。かなり短い間隔で幸恵に痛みがきた。その都度、看護師さんは呼吸法を幸恵に言い、幸恵はその通りにした。そんなことが何回も繰り返された。トド子さんはその間心配に思いながらも、自分は何をしていいか分からずただ幸恵のそばに立っていた。ある時、痛みがまた幸恵に来て、幸恵が呼吸をしている時、力が変な風に入ったのか、右足をつったと幸恵が右足の痛みを訴え始めた。複式呼吸をしながら右足が痛いと言っている幸恵を見て、トド子さんは何だか妙に面白く笑ってしまった。こんな真剣な場所で笑ってはいけないと思うと余計に面白く感じられ、笑いがなかなか止まらなかった。幸恵が分娩台で痛がっている横でトド子さんは大声で笑っていた。そんなトド子さんを気にも留めず、幸恵は大まじめで呼吸を看護師さんに言われるように続けた。徐々に産道が開き、子どもがいよいよ生まれそうな状態になった。さすがにトド子さんも真剣な気持ちになり、その様子を見ていた。

「もうすぐ赤ちゃんが出てきますよ」

 看護師さんがそう言い、幸恵は必死にずっと看護師さんに言われるように、力みながら呼吸を続けていた。

「先生を呼びましょう」

 看護師さんが言い、しばらくして女性のお医者さんが入ってきた。入ってくるなり、その先生は幸恵に声をかけた。

「はい、もう一息ですよ。頑張って」

 そうすると本当に赤ちゃんの頭が見えてきた。

「はい、最後の力を振り絞って、もうちょっと頑張ろうか」

 先生は言い、幸恵もさらに力んで何とか赤ちゃんをさらに外に出そうと頑張った。赤ちゃんの頭はさらに大きくなり、肩のあたりが見えたと思ったら、するりと全身が外に出てきた。先生が赤ちゃんを取り上げ、タオルにくるんだ。元気な男の赤ちゃんだった。

 トド子さんはその一部始終を見ていたのだけれど、それが自分の子どもだということの実感が沸いてこなかった。何か自分とは関わりのない不思議な光景を見せられた気がした。赤ちゃんはきれいにされ、幸恵の横に寝させられた。幸恵は赤ちゃんに声をかけた。

「ようこそ。よく産まれてきたね」

「お父さんも見てやって下さいよ」

 看護師さんに声をかけられ、トド子さんは赤ちゃんをじっくりと見た。くしゃくしゃの顔をしていて、猿の赤ちゃんのように感じた。何と声をかければいいか分からなかったが、何とか言った。

「ようこそ。よくがんばったわね」

 もうすでに夜は明けて、外は明るくなっていた。トド子さんは一人で外に出て、自分に子どもが出来たことの実感を味わおうと思った。まだ人がほとんどいない外の町をぶらぶらと歩いた。町中の酒屋の外に自動販売機でビールが売られていた。トド子さんはコインを入れ、ヱビスビールのロング缶を買った。ほんのりと明るくなりかけている街の街路樹の下にあったベンチに座った。ビールの蓋を開けてぐびっと一口目を飲んだ。冷たい泡状の液体が喉を通り過ぎた。朝から飲むビールは一口だけで気分を高揚させた。さらに二口、三口とビールを飲み込んだ。街中にはまだ仕事に出かけるような人はおらず、朝までどこかで飲んでいたであろう酔っ払いや、道のゴミを掃除している清掃員がいる程度だった。ビールを飲みながらトド子さんは自分に子どもができたのだと頭の中で言葉にしてみた。どうにもまだ実感ができなかった。ビールをさらに飲んでまた自分に子どもができたと頭の中で反芻してみた。何度そう考えてみても何か自分にまつわる大きな変化が起こったという感覚がなかった。あまりにも大きな事件過ぎてそう思えなかったのかもしれない。あるいは自分には子どもができないと何十年も思って生きてきたために、いざ本当に自分の子どもができたからといって、すぐにそれを本当のこととして認知できなかったのかもしれない。ともかくビールをどんどん飲んでいって、子どものことを考えてもどうにもしっくりとこなかった。一本目のビールを飲み干し、まだ飲み足りないと思い、二本目のビールを買った。さらに街路樹の下のベンチでビールを飲んだ。今まで毎日のように朝まで飲んでいたけれど、朝から飲むビールは普段と違う酔い方をさせた。頭がボーっとはするけれど、一方で頭が冴えていく感覚があった。ずっと子どものことを考えていたけれど、やはり気持ちに変化はなかった。それでも一つ、自分の中で誓ったことがあった。これからは自分の子どもを無条件に愛していこうということだった。これから子どもを育てていくことは大変だろうけれど、それでも絶対に子どもをひたすら愛していこうと誓った。そう考え、あまり妻や子どもから離れていてはいけないと思い立ち、病院へ戻った。幸恵も子どももすでに病室へ移動していた。幸恵はトド子さんが来るまで目を閉じていたが、トド子さんが来たことに気づき、トド子さんに話しかけた。

「ほら、私たちの子よ」

「ええ。幸恵ちゃんも疲れてはるやろから眠っとり。私も今から家に帰ってちょっと寝てくるわね」

 トド子さんはそう言い、家に帰った。実際付き添っていただけだったが、トド子さんは全身に疲れがたまっていた。家に帰り五時間ほどぐっすり寝てから、また幸恵のもとへ行った。幸恵も起きていて、赤ちゃんの方をじっと見ていた。

「何て名前をつけようかしら」

 幸恵がトド子さんに言った。

「幸恵ちゃんは何か付けたい名前ある?」

 トド子さんが逆に幸恵に尋ねた。

「まだこれがいいっていうのがないんだけれど、とにかく健康に育ってねっていう名前にしたいかなあ。トド子さんはどう?」

「私も元気に育ってくれる名前にしたいわね。何やあんまり欲張った名前やなくてもええわ」

「それじゃあ、そのまま元気くんっていうのはどう?」

「元気かあ。まっすぐな名前でええかもしれんわね。幸恵ちゃんはでもそれでいいの」

「私も健康な人になってくれるような名前にしたかったから元気っていいと思うわ」

「ほなら元気くんにしようか」

「ちょっと赤ちゃんにも聞いてみようか」

「いいわね」

「あなたの名前は元気くんにしようと思うけれど、それでいい?」

 横に寝かされていた赤ちゃんが二人にはほんの少し微笑んだように感じられた。

「今、笑ったわね」

「うん、笑ったわ。元気くんでうれしいみたい」

「よし、ほなら名前は元気で決まりね。これからあなたは元気くんよ」

 また赤ちゃんがにっこりと微笑んだように感じられた。トド子さんはそれほど長く仕事を休んでいるわけにもいかなかったので、その日の夜から仕事に行った。子どもができたことは仕事仲間には話さなかった。何か恥ずかしさがあった。しかし仕事には今まで以上に自然に熱が入った。これから頑張って子どもを食べさせていかなければいけないという気持ちが本人にも気付かないうちに起こっていたのかもしれない。仕事を終えて家に帰り眠ってからいつもより早く起き、幸恵と子どものいる病院へ行った。幸恵も子どもも幸い健康だった。前日には猿のようにしか見えなかった子どもがほんの少しかわいらしく見えた。しばらく病院で子どもの様子を眺め、幸恵と少し話をし、また仕事に出かけた。そんな生活を五日過ごして、幸恵と元気は病院を退院し、家に来た。トド子さんは子どもをどのように抱けばいいかもあまりよく分からなかった。首が据わっていないので、初めは恐々抱っこしていた。そのうち自分の腕の中でも元気がすやすやと眠っていることに安心し、元気を抱っこすることも平気になってきた。元気の体を洗うこともトド子さんがやった。小さなバスタブにお湯を張り元気を入れて石鹸をつけて体を洗ってあげると、元気はにこにこしてとてもうれしそうな顔をした。元気は実際よく笑った。一般に赤ちゃんがどれくらい笑うのか分からなかったが、元気の笑顔を見ているとトド子さんは本当にこの子が産まれてきたことに感謝の念を持った。元気が家に来てから、幸恵は子育てのことがまるで分からないし、誰にも聞くことができないので、トド子さんに図書館で借りられるだけの子育ての本を借りてきてもらった。時間に余裕ができた時に、全ての本を読もうと思ったけれど、全く余裕のある時間なんてなかった。元気は三時間おきに目を覚まして泣いた。朝も昼も夜も関係なく、決まって三時間おきに目を覚ました。その度におむつを替え、お乳をあげた。トド子さんが借りてきてくれた本の0カ月の赤ちゃんの育て方の部分だけ何とか読むと、この時期はそういうものだと書かれていた。しかし、幸恵は元気が泣き出すと不思議にどんな時間でも目を覚ますことができた。かなり疲れて眠い時でも、元気の泣き声に瞬時に反応できた。自分でもそのようにできることが不思議だった。トド子さんは元気のおむつを替えることも、沐浴をさせることも進んでやってくれたが、一旦熟睡してしまうと元気がどれだけ泣いていても、起きることはなかった。幸恵は自分が確実に起きたので何の不都合も感じなかったし、トド子さんをそのことで責めるような気持ちには全くならなかった。しかし、少し不思議に感じた。

 幸恵は一日の全ての時間を元気を育てることに費やした。幸恵は当然子どもを育てることは初めてのことで、あらゆることにとまどったが、冷静に対処して気持ちが舞い上がってしまうということがなかった。幸恵はずっと自分が精神的に弱い人間だと思って生きてきて、元気が産まれる前も自分に子育てが無事にできるかどうか自信がなかったけれど、いざその場面になってみたら適切に対応できた。赤ちゃんが産まれた時にしばらく自分のお母さんに来てもらって面倒を見てもらうということが一般には多いが、幸恵は自分に子どもができたことを自分の親に言わなかった。田舎とは完全に離れていたかった。だからどれだけ大変でも産まれたばかりの子どもも自分だけで世話をしたかった。それにトド子さんは仕事以外の時間は全てを子どもの世話に当ててくれた。トド子さんも自分が母親のような気持ちで元気に接し、かいがいしく世話をした。元気もそれに答えるかのようにあまり病気になることもなく、健やかに育っていった。けらけらとよく笑いながら幸恵のお乳をよく飲んで、どんどん大きくなっていった。トド子さんは相変わらず赤ちゃんにはモーツァルトを聴かせるのがいいと言い、一日中CDラジカセでモーツァルトを流していた。幸恵は中学生の時からさだまさしや中島みゆきが好きだったので、元気がベッドで眠っているときにそれらのCDを聴こうとすると、トド子さんに

「そんなん聴かしてたら、まともな人にならへんで」

 そう言われ、聴くことを我慢してモーツァルトばかりかけていた。幸恵にはそこまでモーツァルトを聴かせることがいいようには思えなかったが、トド子さんに従った。一日中、家の中でモーツァルトの軽やかな曲が流れていた。幸恵はもともと外を出歩くことが好きではなかったので、一日中家の中で元気と一緒にいることが苦痛ではなかった。むしろありがたかった。元気になるべく話しかけた方がいいと思ったが、なにぶん口下手で赤ちゃんにも何を話せばいいか分からなかった。さだまさしや中島みゆきの曲の歌詞を読んで聞かせた。さすがに幸恵も「防人の歌」や「精霊流し」、「うらみます」などは違う気がして、幸恵が前向きだと思う曲の歌詞を聞かせた。しかしトド子さんは幸恵が、「アタシ中卒やから仕事をもらわれへんのやと書いた女の子の手紙は」などと元気に語りかけている姿には違和感を覚えた。

 元気が生まれてから三ヶ月ほどが過ぎ、それまでずっと家の中で育てていたけれど、外の空気もそろそろ吸わせた方がいいとトド子さんが言い、自分で抱っこして近くの公園まで散歩に出かけた。その頃には元気は昼に起きている時間が長くなり、トド子さんが起きてから一緒に遊んでいられる時間が長くなっていた。まだ首はしっかりすわってはいなかったため、しっかりと抱っこしてトド子さんは道を歩いた。元気は初めて出る外の空気を肌で感じたのか、あるいはいつもと違う音がすることが不思議だったのか、それまでとは違う表情になった。公園は家のすぐそばにあり、三分もしたら着いた。子どもをあやしていたお母さんが何人かいた。子どもといってもみんなもう三歳くらいにはなっている子たちばかりで、元気のような赤ちゃんは当然のように一人もいなかった。公園にいたお母さんたちはみんな顔見知りだったのか、初めて見る元気を見つけて、近くに集まってきた。みんなが口々に言った。

「わー、ちっちゃい」

「お名前は何て言わはるの?」

 そう元気に話しかけてくれた。当然元気に答えられるわけはないが、トド子さんが愛想よく答えた。

「元気って言うの。これからもよろしくね」

 近所のお母さんたちは次々に、今何ヶ月か、体重はどれだけか、母乳で育てているか、おむつは何を使っているかなどの質問をした。トド子さんは人と話をすることはまさに得意中の得意で、それを本業としていると言ってもよかったので、お母さんたちの矢継ぎ早の質問攻めに面白おかしく答えていった。お母さんたちはトド子さんの話し方から、普通のお父さんではないと感じたかもしれなかった。しかしただでさえ人情の厚い大阪の中でも、特にその傾向の強い淡路の町に住んでいる人には、そんなことはどうでもいいことだった。面白いお父さんがまだ小さい赤ちゃんを連れて公園に遊びに来たというそのことだけが、関心を引くことだった。

 トド子さんは仕事も順調で、世の中はまだバブルに沸いており、お客さんもたくさん店に来てくれた。トド子さん目当ての上客にも恵まれていた。毎晩お祭りのような夜を店で過ごし、家に帰ってきてからは元気を育てることに情熱を傾けた。元気は名前の通り、不思議なほど元気に育っていった。熱を出すこともほとんどなかった。いつもにこにこしていて、幸恵が表に連れ出した時は、すれ違う見知らぬおばさん達にかわいがってもらえた。子育ては大変だったけれど、幸恵はそんな元気の笑顔を見ると、子育ての大変さを忘れ、心の底から元気を愛した。毎日元気の世話をすることに夢中になり、慌ただしく時間が過ぎていたので、特に幸せであることを感じる余裕はなかった。しかし幸恵にとっては確かに幸せな時間が流れていた。毎日毎日をとにかく過ごし、振り返るとあっと言う間に時間が過ぎていっていた。

 元気が六ヶ月を迎えた頃、もっと絵本の読み聞かせをした方がいいと思い立ち、幸恵は元気を連れて図書館へ本を借りに行った。図書館に0歳児に読み聞かせる本を紹介した本があり、そこに書かれていた、「はらぺこあおむし」、「いないいないばあ」、「いいおかお」、「かばくん」の四冊を借りた。ベッドに元気を寝かせ、元気に絵が見えるように絵本を元気の目の前で開きながら、絵本の文章を読み聞かせた。元気はまだあまりはっきり目が見えていなかったのか、それほど期待していた反応は示さなかった。それでも幸恵は元気が起きている間はずっとその四冊の本を繰り返し繰り返し読み続けた。幸恵はこれをするべきだと考えたことをずっとすることに苦痛というものを感じなかった。しばらくの間、毎日それを続けた。ある日、図書館から借りてきた四冊の本を元気のベッドの中に置いておいた。幸恵が少し目を離した隙に、元気はその中の「はらぺこあおむし」の縁のあたりをしゃぶって、本の紙がふにゃふにゃになってしまった。これはまずいと思い、幸恵はとりあえずその本を陰干ししておいた。何日か経っても紙は元通りにはならなかったので、弁償することもやむをえないという気持ちで図書館へ行き、事情を話した。

「それは仕方ないですねえ」

 図書館司書の方は特にそれ以上何も責めることもなく、本を返却してくれた。これからもそういうことがあるかもしれないと思い、幸恵は他の借りた本も図書館に返した。そして新品の同じ本を本屋さんで買って来た。

 ある日、幸恵が部屋の掃除をしていると、トド子さんが叫ぶ声が聞こえた。何事だと思い、隣の部屋をのぞくと、

「今、寝返りしたわ。寝返り」

 トド子さんが興奮した様子で元気の様子を見ながら言った。幸恵はそれまでに元気が寝返りをするところを何度も見ていたので、そんなにすごいことなのだろうかと思いながらも、トド子さんがあまりにも興奮しているので、言い出しかねて黙っていた。するとトド子さんは幸恵に言った。

「また、寝返りするかもしれないから、カメラ持ってきて」

 幸恵は言われたままにカメラを取ってきて、トド子さんに渡した。トド子さんはそれを受け取り早速レンズを元気の方に向けた。

「元気ちゃん、また寝返りしてみて」

 トド子さんは相変わらず興奮しながら言った。数分間、トド子さんはカメラのレンズを元気に向け続けていたけれど、元気はなかなか寝返りをする様子を見せなかった。そこで、トド子さんは再度言った。

「元気ちゃん、寝返りよ。寝返りしてみて」

 その様子を見ていた幸恵は、元気が今向いている方とは逆側でガラガラを鳴らしてみた。するとすぐに元気は寝返りをした。トド子さんは寝返りの瞬間をカメラで撮ることができ、大変喜んだ。

「幸恵ちゃん、今日は元気の寝返り記念日よ。カレンダーに書いておきましょ」

 随分喜びながら言った。幸恵は本当の寝返り記念日はもっと前だけどと心の中で思いながらも、トド子さんの喜ぶ姿に押されて素直にカレンダーに「寝返り記念日」と書き込んだ。

 離乳食をそろそろ食べさせた方がいい時期になってきたため、まずは元気におかゆを食べさせてみた。午前十時に食べさせる習慣にした方がいいと本に書いてあったので、トド子さんが寝ている時間だけれど、その時間に幸恵が元気に食べさせることにした。初めて食べさせた時は変わった反応をするかと思いながら、恐る恐るおかゆの入ったスプーンを元気の口元に持っていった。しかし元気は何事でもないことのように、おしゃぶりをいつもしゃぶるようにスプーンを口の中に入れた。特においしそうにもまずそうにもしなかった。ひょっとするともっと早くに離乳食を食べさせなければいけなかったのかもしれないと幸恵は思った。しばらくはおかゆを食べさせ、徐々に大根や豆腐をすりつぶしたものを食べさせていった。

 八ヶ月を過ぎると、いつの間にか元気の首も完全にすわり、おすわりが完璧にできるようになった。ある日の昼過ぎ、トド子さんの部屋の床の上で元気におすわりをさせ、少し大きめのビニール・ボールを転がして遊んでいた。元気にめがけてトド子さんがボールを転がすと、元気はそれを受け止めるでもなく、打ち返すでもなく、何となくあしらって、部屋のどこかへボールが転がっていくものをまたトド子さんが取ってきては、元気に向かってボールを転がすということを繰り返していた。元気はボールが転がってくることが面白かったのか、キャッキャと言いながら、ボールの行方をずっと目で追っていた。元気が無邪気に喜んでくれるので、トド子さんもうれしくなってずっと同じことを繰り返していた。ある時、ボールが元気の少し前に止まった。すると元気はそれを自分で取ろうとしたのか、前のめりになり、ボールに手を伸ばした。ボールはそのまだ先にあり、手が届かなかった。これからどうするんだろうと思い、トド子さんはそのまま元気の様子を見ていた。すると元気は前のめりの状態から足を後ろに投げ出し、うつ伏せの格好になった。そして腹ばいで前に進み、ボールに手が届いた。ボールに触れたものの、その後どうしようもなかったようで、しばらく固まっていた。トド子さんはその流れが面白くて、それからは元気の少し前にボールが止まるように転がした。すると元気は腹ばいでボールを触りに行き、そこで決まって固まった。トド子さんはその都度元気にまたおすわりをさせ、ボールを元気の少し前に行くように転がした。ずっと同じことを何度も何度も繰り返した。夕方トド子さんが仕事に出かける時間までずっとその一連の動作を繰り返した。トド子さんもさすがに終わりの頃になると飽きてきたが、元気がもっとしたいとせがむので、ずっとしていた。

 翌日、トド子さんが昼過ぎに起きると元気はすでにトド子さんが起きるのを待っていたかのように、前日に遊んだボールをしきりに指さした。トド子さんはまた同じことをしたいのかと思いながらも、元気が大変ワクワクしているように感じられたので、元気におすわりをさせボールを元気に向けて転がした。元気はまたキャッキャ言いながら、ボールを触ってうれしそうな顔をしていた。ボールを元気の少し前に止まるように転がすと、元気は前日のように前のめりになってから腹ばいでボールに触りに行った。ある時、ボールが元気の後ろの方に行った。トド子さんは自分で取りに行こうとしたら、元気が腹ばいから両腕を肘でつき、両足も膝でついて、ハイハイの格好になった。これからどうするんだろうとトド子さんは様子を見ていた。するとゆっくりゆっくりハイハイを後ろ向きにして、ボールに近づいて行った。そしてボールに触ったところで固まった。トド子さんは元気がハイハイで動いたところを初めて見たため、とても驚いた。幸恵を呼ぼうとしたけれど、あいにく幸恵は買い物に行っていて留守だった。トド子さんはまたボールを元気の後ろの方に転がして、元気がどうするか眺めた。元気は同じように、ハイハイの格好で後ろ向きに進み、ボールに触った。トド子さんはボールを元気の前の方に置いたらどうするだろうと思い、転がして前に止まるようにしてみた。ボールが前に行くと、元気はそれまでと同じように前のめりになり、腹ばいでボールに触りに行った。ハイハイはまだ前向きにすることができないのか、前に進むには腹ばいでいけばいいと思っていたのかよく分からなかったが、試しに何度もボールを後ろに止まらしたり、前に止まらしたりした。何回かやってみてもハイハイで移動するのは後ろの時だけだった。それでもその様子が面白くトド子さんは何度もボールを後ろに止まらせたり、前に止まらせたりを繰り返した。そうこうしていたら、幸恵が買い物から帰ってきた。トド子さんはすぐに幸恵に言った。

「元気が後ろ向きにハイハイしはったで」

 幸恵も元気がハイハイをするところは見たことがなかったので、答えた。

「ほんと?それはすごいわあ」

「ハイハイやけど、後ろ向きしかせえへんけど、ハイハイしたっていうてええんかな?」

 トド子さんは疑問に思ったので、幸恵に聞いてみた。幸恵もよく分からなかったが、

「多分、後ろ向きでもハイハイだったら、ハイハイできたってことでいいんじゃないかな」

 そして、そのままカレンダーに「ハイハイ記念日」と書き込んだ。その後、元気は前にもハイハイをするようになり、起きている間中、片時も目が離せなくなった。二つの部屋の間を行ったり来たりしていた。さらに置かれているものを何でも口に入れるため、部屋の下の方に小さくて危険そうなものは何も置けなくなった。部屋にコンセントの口があまりなく、各部屋の下の方に一つずつあっただけだった。そこから延長コードで色々な電化製品のコンセントが差されていた。ある時、幸恵がふと元気を見ると、その延長コードに差してあったコンセントを一つ外して口の中に入れてしゃぶりまくっていた。幸恵はびっくりして、すぐに元気からそのコンセントを取り上げた。どうしたものかと考え、部屋のコンセントは全く使わず、流し台の上にあるコンセントから電源をとることにした。おかげで流し台の上のコンセントはひどいタコ足配線になってしまった。それでも元気にコンセントをしゃぶられるよりはましだと思い、気にしないことにした。

 それまでも絵本の「いないいないばあ」をよく読み聞かせしていたが、人のするいないいないばあに元気はよく反応するようになった。幸恵もトド子さんも事あるごとにいないいないばあをした。元気は確実にキャッキャと喜んだ。

 子育てに追われ、その日その日を何とか過ごし、気がつくと一年が経っていた。元気は伝い歩きができるようになっていた。元気の誕生日を全くささやかに祝った。

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