第8話

 長いこと寝付いていた人魚の母親が急に苦しみだしたのは、それからほどなくでした。


「ああ、気分が悪い…」


 母人魚は絞り出すように言いました。


「なんだか急に息が苦しくなってきたんだよ。

 すぐにお医者を呼んでおくれ。

 それから、みんな、あたしのそばに来ておくれ」


 人形の家族は驚いて、母親の枕元に座りました。


「ああ、あたしはもう、だめな気がするよ…」


 母人魚はのどを掻きむしりました。


「みんな、あたしの手を握っておくれ。

 それから、あたしを抱きしめておくれ。

 …あたしがひとりぼっちで死なずにすむように。

 人魚はひとりで死ぬと迷うと言うからね」


 父と子供たちは、黙って言われた通り順番に母の手を握り、抱きしめました。


「いち、にい、さん、しい…、おや? 四人なのかい?

 四人だけなのかい?

 ひとり足りないね。

 こんなときあたしのそばにいてくれないのは誰だい?」


 家族はお互いの顔を見回しました。

 そこにいないのはユイでした。


「誰がいないんだい?

 ああ、もう、目がかすんで見えないんだよ。

 …いないのは誰なんだい」


「…ユイだよ」


 誰かがぶっきらぼうに答えました。


 「…ユイ? ユイがいないんだね?

 ユイはどうしていないんだい?


 また、遊びに行っているのかい?

 ユイはいつから帰っていないの?」


 ユイがいつから帰ってきていないのか、誰も知りませんでした。

 みんな、母人魚の世話や自分の用事に忙しくて、気にする者はいなかったのです。

 この娘がいないのはいつものことでしたから、そういうものだとばかり思っていたのです。


「ユイ、おまえは自分のことしか考えていなくて、おまえを産んだあたしが死ぬときも、そばにはいてくれないんだね。

 なんて娘だろう。

 ユイ、あたしのユイ。

 最期に一目、会いたかった……」


 そこにいない娘の名を切れ切れに呼びながら、人魚の母はとうとう息を引き取りました。



 ユイの母親より長いこと患っていたルカの母親も、同じ日の晩に静かに旅立ちました。

 わがままいっぱいだった母鯨は、最期の眠りにつく前に初めて満足して、ありがとう、と口を動かしました。

 ルカはそれを見てほうっと安どするように思いました。


 母鯨の葬儀の日、ルカの許にはたくさんの魚が訪れて手伝ってくれました。


「大変だったね。よくひとりで頑張ったね」


「これまで苦労した分、これからよくなっていくよ」


 そう口々に言って、ひとりぼっちになったルカを慰めてくれました。


 魚の葬儀は、砂に穴を掘って亡き骸を埋めるだけなのです。

 どれだけたくさんの魚が砂を掘ってくれるかで、亡くなった者がどれだけ悼まれているかがわかるのでした。


 魚たちは母鯨のためというより、ルカのために集まって来てくれました。


 埋められた亡き骸はやがて静かに腐って海に溶けていき、しまいには消えてなくなって海そのものになってしまう、と魚たちは考えていました。

 ですから、魚には墓も墓標もありません。

 救われない死者は海のある限り永遠にさまよい続け、救われた死者は体がなくなるとともに海になるので、海は死んだ魚たちの記憶をすべて知っているのだと信じられていたのです。



 人魚の母の葬儀には、魚が一匹も来ませんでした。

 父人魚は仕方なく、たくさんのお金を払って、妻を埋める穴を掘る魚たちを雇いました。

 心の込もらない形だけの葬儀が虚しく行われました。

 そしてその寂しい葬儀が終わった二日後に、ユイはふらりと帰ってきたのでした。


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