第7話

 それなのに、ユイはルカの持ってきた櫛を一目見て、こともなげに言ったのです。


「あら、それ、捨てたんだったのに」


 ルカは驚きました。

 ユイはそんなルカの様子に気がつきもせずにあっさり続けました。


「髪に絡んだから引っ張ったら折れちゃったのよ。

 だから、もう、いらないのよ」


 ルカは思わず叫びました。


「約束したじゃない! 大事にするって。

 櫛にも…、物にも人にも優しくするって、約束したじゃない。

 相手の身になって考えるって、あなた、あたしとそう約束したでしょ?」


「まあ、そんな約束、あたし、したかしら?」


 ルカはがっくりしました。

 ああ、ユイはやっぱり何もわかってなんかいなかったのです。

 ウツボのおじさんが言った通りでした。

 しょんぼりしているルカをユイは責めるように言いました。


「あなた、おかしいんじゃない?

 櫛に優しくなんて、変よ。

 櫛は生き物じゃないのよ。

 それに、捨てちゃったって、あたし、何にも困らないわ。

 また、新しいのを買えばいいだけだもの。


 あたし、今日だって、遊びに行く前に、言われなくてもちゃんとお皿を片付けたわ。

 父さんだって母さんだって、楽しんでおいでって送り出してくれたのよ。

 どこが悪いっていうのよ?」


「…そういうことじゃないわ。

 いつでも何にでも、優しい気持ちでいてほしかったのよ。

 櫛も大事にしてほしかったのよ」


 ユイは長い髪をかき上げると平然と言いました。


「でも、壊れちゃったのよ。

 そんなものを持っている必要、ないでしょう?

 無駄だもの。

 だから捨てたのよ。

 あたしがあたしの物をどうしようと、勝手でしょ。

 あなた、人の物なのにしつこいわ。

 それに、わけのわからないこと、ごちゃごちゃ言って、うるさいわ!」


「…そう…」


 ルカは虚しく悲しい気持ちを抱えて、ゆらゆらと帰りました。

 自分の傷ついた心と、ユイに壊された櫛が、なんだか重なって見えました。


 自分が代わりに、この修繕した櫛を大事にしてあげよう、壊れてもそれでよかったのだと思ってもらえるくらいに…

 そう思いました。



 それから何事もなく何年かが過ぎました。

 そんなある日、ルカの母である鯨が、まだそんな年でもないのに、突然、寝付いてしまったのです。


 目が回る、頭が痛い、気分が悪い…。

 母鯨は様々な訴えをしました。


 ルカは働いて、家事をし、その上で母鯨のわがままを黙って聞きました。

 母鯨はこれまでそうだったように次々に不満を見つけては、それを埋める要求をしてきましたが、ルカは辛抱強くそれらをひとつひとつこなしてゆきました。


 自分のほかに、母鯨の世話をする者はいない。

 その思いがルカの心と体を支えました。


「アンコウの薬屋へ行って、」

 

 母鯨は言いました。


「薬を買ってきておくれ。

 あたしを治してくれる、何にでも効く薬をね」


 無茶を言う、と思いながら、ルカはアンコウを訪ねて、めまいと頭痛と気分の悪いのを治してくれる薬はないか、と聞きました。

 アンコウは困って、そんな都合のいい薬は作れない、と言いました。


 そこへユイの妹がやって来ました。


「アンコウのおじさん、薬をくださいな。

 元気の出る、いつものをね」


 ルカは心配して尋ねました。


「どなたかお悪いの?

 まさか、ユイちゃん?」


「ううん、母さんよ。

 大したことはないの。 

 もう、年なのかしら、子供を四匹も産んだし。

 この頃、疲れる疲れるって言っては寝てばかりいるの」


「まあ、それは心配ね。

 あなたが看病をしているの?」


 ルカは自分のことも忘れて訊きました。


「ええ、そうよ。

 家のことは下の妹がしているわ。

 お金は、父さんと弟が稼いできてくれるの」


「そう。みんなでお母さんを支えているのね。

 あら? ユイちゃんは?」


「姉さんはずっと出掛けているわ。

 色んなところへ行って、いろんな魚たちと付き合っているみたい。

 もう、長いこと、顔も見ていないわ」


「お母さんの看病も、家のこともせずに?」


「ええ、そういう年頃だって、父さんも母さんも言っているわ。

 母さんがよくなったら、あたしや下の妹も、姉さんみたいにしなさいって。

 おとなになるって、そういうものだって」


「そう…」


 ルカはなんだか不安な気がしましたが、それが何なのかわからないまま、黙ってアンコウの店を離れました。

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