第4話 侍女のお仕事朝編

 ルーナルーナの朝は早い。世の中の人間が目覚めるのはだいたい六の刻であるのに対し、ルーナルーナはだいたい四の刻には起きている。夜寝るのも他の侍女達が二十の刻であるのに、彼女は二十二の刻になることもしばしば。睡眠をあまり必要としないタイプなのだ。


 ルーナルーナはレイナスから借りた本を机の引き出しへ丁寧に片付けると、メイド服を新しいものに着替えて髪を結う。一階の厨房へ向かうと、具がほぼ入っていない薄口のスープと黒パンを受取り、人気の無い食堂の片隅でその日の仕事の段取りを考えながら食事する。その後はまっすぐ後宮の中心部にあるミルキーナ王妃の元へ出向き、彼女の寝室以外の部屋を手早く清めた。王妃の朝食が届き、ようやく後宮内の人の往来が増えてきた頃、王城の塔の鐘は七の刻を告げた。


「おはようございます、ミルキーナ様」


 ルーナルーナは、扉越しに王妃へ声をかけた。しばらく待ったが返事は無い。昨夜は王が来ていないことが分かっている。ルーナルーナは、ためらうことなく寝室へ足を踏み入れた。


 部屋の中央には大人が十人寝られるぐらいの大きさがある寝台があり、この国の至宝『白亜の女神』とも呼ばれる女性が横たわっている。


「おはようございます」


 ルーナルーナは重ねて声をかける。ミルキーナが身動ぎしたので、窓際のカーテンを開いて部屋に光を入れた。体を起こした王妃は、今日も白磁のような滑らかな肌と、腰まで届く白くて長い髪が神々しい。色だけではない。国母として相応しい慈愛に満ちた面差しは、見る者の心を落ち着かせるヒーリング効果さえありそうだった。


「おはよう、ルナ」


 王妃ミルキーナは、ルーナルーナのことを愛称で呼ぶ。最近では、ルーナルーナの周囲の侍女達も王妃に倣うようになった。


「おはようございます、ミルキーナ様」


 ルーナルーナは王妃に向かって丁寧に一礼をした。


「あら、ルナ。その首、どうしたの?」


 ルーナルーナは慌てて首元を手で覆った。浅黒い肌はこんな小さな傷を目立たなくしてくれると思っていたのに、王妃の目は誤魔化せなかったようだ。


「ご心配痛み入ります。私の不注意による些細なことでしたから、お気を煩わせるようなことは何もございません」


 ルーナルーナの頭にはイケメンが現れて、思わず口元がだらしなくニヤけそうになった。既にナイフを突き付けられた恐怖は遠ざかり、この世のものとも思えない程の美男子の顔立ちと存在感だけが、強い印象として彼女の心に残っている。


 しかし王妃は、また以前のように他の侍女から危害を加えられたのではないかと危惧しているのだ。せっかくの心配りを無碍にすることは許されない。ルーナルーナはとっておきの笑顔を作ってみせた。そこへ近づく足音がある。


「おはようございます、ミルキーナ様」


 やってきたのはルーナルーナの同僚で、名前はキュリー。背中の中程まである金色の髪はハーフアップにしてある。王妃の白さを際立たせるために考え抜かれてデザインされた黒の侍女服は、彼女が着るとなぜか高貴に見えた。年はルーナルーナよりも五歳若いが、ミルキーナ付きとしてはルーナルーナよりも先輩に当たる。キュリーは、ミルキーナを別室に設えた朝食の席へ誘った後、いつものようにルーナルーナへ話しかけた。


「ルナ、掃除は全て済ませてあるんでしょうね? あぁ、もう。あまり近寄らないで。黒さが伝染るでしょう?」


 黒さが空気感染する例は知られていない。単なるキュリーの偏見だ。


「はい」


 ルーナルーナは涼しい顔で短く返事すると、折り畳んだ小さな紙をキュリーに向かって差し出した。


「本日の予定をまとめてあります。午前中はサロンで茶会がありますから、昨日のうちにお越しになる貴族の奥様へお配りする手土産と、ミルキーナ様のお召し物を一通り準備いたしました」

「気に入らないわ」


 キュリーは『白亜の女神』の信者筆頭である。王妃から特別目をかけられているルーナルーナのことは、特に気に入らない。だが、付け入る隙の無い仕事ぶりには、悪態をつくぐらいしか思いつかないようだった。


 そこへ、さらにもう一人の侍女がやってくる。


「ごめんなさーい。今朝は髪がうまくまとまらなくて」


 ピンクブロンドの髪を揺らしながら駆け足でやってきたのは、同じく同僚の侍女。


「コメットさん、おはよう」

「おはよう、ルナ!」


 コメットも王妃を崇拝する一人だが、キュリーのように人を外見で差別するようなタイプではない。明るく元気、そして噂好きが彼女の代名詞だ。


 ルーナルーナとコメットは、朝も早くから王妃宛に届いた手紙や事務所類の数々を手分けして分類する。


「ねぇ、ルナ、こっち向いて? あ、何これ? どうしたの?!」


 コメットは、ルーナルーナの首をビシッと指差していた。


「これは……ちょっとね」


 ルーナルーナは自然と言葉を濁す形になる。コメットのような色黒に偏見を持たない人物にならば、その身に起きたことを洗いざらい話してしまっても良いかもしれない。しかし、コメットは歩くスピーカーとも呼ばれるお喋りだ。あまり広く触れ回ってほしくはない内容だけに、ルーナルーナは口を閉ざして俯くに徹した。


「もしかして、男女のいろいろがあったの?」


 ルーナルーナは、確かに見知らぬ男から口説かれた。けれど、『俺のものにならないか』を言葉通りに受け取れる程、もう若くはない。空中に浮いていたことや、闘い慣れた立ち回りをとっても、その男が特殊な職業や任務に就いていることは明らかだ。きっと、仕事の取り引きとして、何かを要求していたのだろうとルーナルーナは考えている。


 とは言え、死ぬまでに聞いてみたかった台詞を僅か三十センチの距離で耳にして、思い出し笑いならぬ思い出し悶絶できない程、乙女心は捨てきれていない。気づけば、仕事中だというのに無意味に相好を崩してしまい、コメットは何かを見抜いてニヤニヤすることになるのである。


「そっかぁ。ルナにも春が来たんだね!」


 そう言うコメットは、幼馴染の男と先日婚約したばかりだ。ちなみに彼女は十七歳。来年結婚するとしたら、無事適齢期の間にゴールインできたことになる。


「そんなのじゃないわ。たぶん、もう会えないし」


 その男との出会いは夢ではない。しかし、夢の端に位置するものであると、ルーナルーナは直感的に理解していた。


「えー」

「これ、キスマークじゃないからね」

「えー?!」


(王妃はすぐに刀傷だと気づいてくれたのに、どうしてこの少女はこんなことも見抜けないのかしら?)


 ルーナルーナは、隠すことなく深いため息をついた。

 そこへキュリーが近づいてくる。王妃を別の侍女へ任せたらしい。


「コメット、何を勘違いしているの? ルナに男がいないなんて、当たり前のことじゃない」


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