第2章 「バカな風 前編」

 一 起きる人

 さて、今日が幸運な日となってくれるといいけれど、と風子は、いたいけない雛鳥の鼓動にも似た碧色の振動が生れ出たこの日を、その現の世界を、もの悲しく覗き込む。双の掌に抱くかのように。

 思い描けよ、朝まだき。

 三月の星たちの煌々と燃えて輝く遥か遥かな宇宙のひろがりの、その下の、遥か下の、風子の眠っていた部屋の上では、雨雲と雨とがたゆたっていたことだろう。春まだ遠い頃の雨もよい,いつの間にかおぼろに光が満ちてきて、雨から靄へ、雨滴から朝露へ楓の枝が白々と真珠を並べる頃、囁くように、しっ、静かに、とでも言い合うようにかすかな、囀りが。


 風子は窓の外へ耳を澄ました。眠りの世界は実に興味深かったのだが。

 風子は逮捕されてしまった。ズチャリと両の手首で金具が響いた。女の警察官が道路に転がった真っ白い錠剤を三つ拾い上げたのだ。風子が落としてしまったのを。それらはトランキライザーにすぎなかったのに、

「ほら、麻薬を持ってたじゃないの」

と、恫喝された。生まれて五十年このかた、そんなにも風子をかっとさせた言葉はなかった、ということらしく(夢の中では)、自分でも呆れる程心身の芯から怒声が噴出した。

「ふざけんな、このバカ、麻薬なんかじゃねえよ。ただのただの安定剤だぁ。不正不正不公平、やめろぉっ」

 全人生の怒りが怒濤となって噴き出た。夢の中では普通身動きが不自由きわまりないものだが,今回は面白い程大声がグァラングァランと響き渡る。これは凄いぞ、と思う間もなく、自分の怒鳴り声から徐々に遠ざけられていった、寝室の気配の中へと。真っ白な三個の安定剤が、警官の白いシャツの背中が光を発していた。


 辛うじて、これはこれは,とのみ風子は言葉を丸めた。聴覚が、たしか雀ではない鳥の鳴き交わす声の愛らしさに気を取られた時、とりあえずは逮捕を忘れてしまった。


二 食べる人

 白色に閉じていたブラインドを、斜めに開けると、遠い山並みの灰緑色がサクサク裂かれた景色として透けてみえる。楓の枝にびっしりと並んだ白い雨粒がちょうど二、三個落ちた。光があればダイアモンドのように輝いてみせるのだが。黒い炭素が凄まじい圧力によってのみ整列して放つ数学的直線的反射角さながら。

 コーヒーは大丈夫だ。おいしくはないが水の代わりになり多分カフェインとポリフェノールの摂取は推奨さるべきもの、などと風子の頭は肯定している。

 へいへい、と頭が合図する。トーストパン、また焦げ過ぎるよ、はいはい、そうでした、また失念、還暦近くなると朝はやはり寝ぼけております、最近、安定剤が多すぎるらし。

 少しマーガリンをつけさせてもらう、不安がもくもくと季節外れの積乱雲。食べるとも、今のうち力をつけておかねばならぬ。ガリ、ゴク、ガリゴク、ジゴク、痛いのか悲しいのか怖いのかわからない栄養素の塊を呑み下す。誰もいないが孤独とは縁遠い、絶望と一緒だから。嵐の夜の黒い海が泳げない人に唯一の開けた場所としてある、絶望は後悔と恐怖に彩られている。しかし風子のそんな程度の絶望に何の意味があろうか、たんにバカらしいだけなのに。だから取り込まれるな、やり過ごすのだ。

 うんうんと頷き、最後の一口と一切れを嚥下する。つかの間無為となる。自分の存在がはかなくなる。

「ピンポンピンポンピンポン」


三 食事を作る人

「お帰りなさい、おはよう、遅かったのね」

と、風子はチェインをはずし、ロックを外しドアを開ける。夫の眉根に皺が深い。肩までの長髪が風に乱れている。

 あやすように笑いかけて、黙ったまま剛を先に通す。目の隅で観察しながら。今日は誰に怒っているのかしら。あざみ? 私?

 あれ、とんでもない間違いに気づく。

(あ、いつの間にか時間がバックしてる、まだ頭の中は夢の世界らしい。あっちゃんが小学生だった頃)


 夫の剛が三十代後半で、何度目かの失職中の時期だった。神戸での学生生活、就職と、「巌のように我の強い」剛でも破綻無くやって来た。風子は剛の性格をそう解釈していた。際立って美しい外見も有利に作用したはずだ、とも。

 知り合ったのは通勤途中のお互いの一目惚れによる。剛の我の強さと猜疑心が、風子の真面目そうな柔らかさに絡めとられた瞬間があった。剛は己の感覚に従い、風子は喜んで引きずられていった。

 結婚後間もなく、経済絶頂期のさなかに、最初の保険会社で周囲との衝突が繰り返された後、剛は文字通り辞表を叩き付けた。バブルがはじけていく中で、高卒の風子はよくあるごとく中小企業でパートの工員、本屋でアルバイトの従業員,うどん屋でパートの皿洗いなどをした。働くことは当然と思っていた。

 派遣とか非正規とか、社会の仕組みに翻弄されながらも、剛は教育も知性も高いので重宝な存在ではあった。そのためにはしかし、相手や周囲が例外的に幸運にも、柔軟で優しい人々でなければならなかった。そんな場合、けっこう忠義心を抱くところが取り柄なのだろう、風子にはそんな態度の剛は少し可笑しい。

 好々爺ばかりが世間にいるはずもなく、会社経営には不運もつきものだったりして、何度か失業状態になっていた。

(夜警のような仕事のあと完全に夜型生活になって、しかも失業中の頃——)


「敦は」

と、尋ねられた。敦には一度だけしか手を上げたことはなかった。

「今日は元気に学校に行ったわ」

 ほっとして風子は元気に答えた。隙を見せないように風子は甲斐甲斐しく,という形を装う。卵とハムでいい?と呟き声になってしまった,少し空気がきーんと鳴ったのだ。

 誰に怒ってる? それが肝心だ。

「あざみとまた喧嘩した、夜通し、大変だった、あの気違い女め」

 風子は一生懸命パンを焼く、フライパンを操作する、ガタガタ戸棚を開け閉めし,要領の良い料理人となる。夫の訴えを口を挟まず聞きながら。

「おれに出で行けだと、着替えや本やいつまでたっても家から持ち出さない、奥さんと別れるつもりが無いんならもう来ないで、だとさ、おれが嫌だと言うと包丁を投げつけやがった、危うく二本目が突き刺さるところだった、ドアにぶつかって先が曲がっていたから余程本気だったんだ」

「二人とも怪我は無かったのね」

「あった」

「え、あざみが?」 「手首を切った」

 風子はこれには流石に驚いて調理の手を止め、意識的に剛の目を見た。夫の身を案じ、その影響を案じ、ついでに若い愛人の身を案じた、かのように。

 そ、そ、とのみ言った。

「そして夜中に病院におれの車で連れて行った,救急だ」 「手首ってまさか」「そのまさかさ、見て,と言いながら斬りつけたんだ」

(私としても手首でも斬りつけたかったわ、あざみの立場なら同じ反応をしたかも。ひどすぎるわ)

 あざみが幼児を含む家族を捨てるはめになったのは、剛に迎合すればこそだったのに、剛自身は妻を捨てなかった。曰く、何故なら風子を愛しているからだ。

「大変だったのね、あのそれでお医者さんの反応は大丈夫だった?」

 剛はそっぽを向いた。不運への怒りが溢れようとしていた。まずい,風子は、さあ、とテープルに夫を導いて、ハイ、コーヒー,ハイパンスプン、召し上がれ、と動き回ったものだ。食べるとそのまま浴室に剛が行くので、タオルや肌着をそそくさ風子は準備する、それは一時間ほっとすることができるからだ。多分この調子では一緒に入るように呼ばれないだろう。そう考えたものだ。

 何とか剛の不機嫌をそらしてしまうと、今度は、寝取られた悔しさが、風子の心を悲しく締め付けたものだ。そんなに悔しく思ったことが今思えば不思議なくらいだ。理由を考えるよりも先にその悔しさで、裏切られた衝撃で体中がいっぱいになった。決してあざみに剛をとられまいとした。そのための寛大な妻の「ふり」だったものだ。あざみですらそんな「寛大さ」に驚嘆した。

 細くて、乳房だけが大きい、眼の光る女だった。剛の外見に強く反応した。色白の頬の線が美しく、眉と鼻梁が逆らい難い男の横顔の魅力を造形していた。あざみ自身が自らの恋情によって女体を開花させて行ったのだ。あざみの激情によって剛もまた、男であることを確認出来たのだろう。そしてそんな関係に風子はジェラシーを感じたのだろう。

 ある時期には、嫉妬と羨望と悔しさに身悶えしながら二人の住まいの周りを、風子は徘徊した。そして見た。雨の日に、風子が意地になって近くのバス停で立ったままでいる時、ふたりが喫茶店から出てきた。一本の傘の下、あざみは剛の腕にしっかりすがりつき、剛は肩を寄せて何か話しかけていた。風子が失ったものだ。失ったけれどもまだ欲しくてたまらなかったものだった。敦が横にいなかったら飛び掛かっていったことだろう。

 あざみは風子との最後の電話で、風子を説得するように言った。

「外見はいい男、性格はとっても悪い」

 二回も三回も繰り返した。その後で付け加えた。

「でも可愛いところはちょっとあるけど」


 剛はその一本気と妥協の無さと自己過信からいつでも一つの剛だった。(剛の言葉をまとめると)風子への愛は彼の決意であるので変わらない、あざみとはあくまでもゆきずりのただの性関係だった。少し深い関係になってしまったのは、ひとえに風子の態度に原因がある。風子にはもう恋愛感情は無いのだろう。嫌な男だと思っているだろう、その点を風子は全然改善しようとしない、その充たされなさがすべての原因なのだ。一方、あざみの中にある彼の意に反する部分、たとえば飲酒は断固拒否する。風子に対しても同じ基本的態度を貫くことに変わりはない。あざみは生活の色々なところで剛に縛られ規制されるのに反抗しはじめた。それが別れの序曲だったのだ。

 風子の場合、結婚の最初の数年ののち、風子は風子ではなくなった。本来の風子として愛した剛を、偽物の風子として愛することが難しくなったのだ。剛は、自分が愛するからこそ相手を拘束して当然だと思う。しかし、そうする程、相手が変化し、愛という感情が変質したり不可能になって行く仕組みが理解出来ないらしい。

 剛の定義によれば、コインの裏表のように、愛と占有欲は当然の組み合わせである。彼の「愛」が、ただの独占欲であって、彼女をを丸ごと愛してはいないのに彼自身矛盾を感じないのか? 風子のそんな質問が、剛にはそもそもナンセンスなのであった。風子には、剛が本来聡明なだけにその点が理解不可能なことだった。二匹の愚かなハリネズミのようだった。

 しかしもうそれも遠い出来事だ。


 四 健康おたく

 朝食の後、無駄な記憶の中に迷い込んでしまった自分にむっとしながら、風子は三月の気候に合ったズボンと長袖シャツに着替える。剛は夜勤で疲れたらしく簡単に寝入った。

「今でもわからないわ、きっと自己弁護かな、それくらいのズルは彼だってするかも,あるいは無意識にでも」

 骨の折れかけた老人を介護するかのように、音を立てないよう鍵を回す。

 リンパマッサージを習いに行く時間だ。荷物はリュックサック以外に、空っぽにして潰したペットボトルもかなりたくさん。これらはスーパーの収集かごにいれなければならない。

 風子は義務を知る良識的な市民の誇りをオーラのように放つ。すぐ横で同じ動作をしている女性と、軽く会釈し合いながら,譲り合いながら。

 仲間の一人、こみちさんと出会う。歯を剥き出して親しみを表す。嬉しそうに両方から目を細めて笑いかける。人生の親友ではないが、日常の親しい知人である。時計を見ながら、

「ちょうどいいね」

と、こみちさんが言う。風子も頷いて、

「今日は今井さんくるかしら」

「来ると思うわ、安定剤を変えたら調子よくなったそうだから」

「そう、そんなことあるんだ」

 今井さんは、アルツハイマーの症状が最近進行してきていた。

「風子さん、ご主人はおうち?」

「そうなのよ、例の通りね。今日は何とか出てきたけど、また携帯かかってくるわね」 「善し悪しよね」

とこみちさんが当たり障りの無い風に応じる。花粉症の話、血圧、病院、孫、話題は尽きない。風子には余り人に言える話題がないのだが、情報は受け取る。


 集会所につくと、もうお当番の金子さんが準備を済ませて先生の到着を今や遅しと控えていた。続々と中高年女性が集結して来るので、なかなか騒がしい。みんな浮き浮きしてきている。

 今井さんは、人一倍喋っている。しかしいつも同じ内容なのだが、実にうまく人の輪の中で主導権を握ることが出来る。相手をする人々は少し困った顔をしながらも今井さんを、その小さい話題の外へと彼女を導きだそうと努力する。すぐにまた彼女の中に引き戻されるのだが。

 祝先生が到着すると、今井さんは賑やかな挨拶を始める。五分を見計らって風子が困っている祝先生を今井さんの陽気な語りかけから解放した。  

 その間にゆったりした音楽が流れ出し、全員が美しく距離を保ってウォーミングアップを始めている。

 祝先生は地球から直角に人々を立たせるのがうまい。あごを突き出させ,次に静かにあごを引かせる。

「頭のてっぺんから宇宙の、足の裏からは地球のエネルギーがしみ込んできまぁす」

 祝先生の力強い声がみんなをピンと立たせた。それだけで呼吸の通り道が確保されたように幻想する。生の正しい場所に立っているかのように。神経を落ち着けてから、その場に腰を下ろして足の裏の数カ所を指で押す。足首から、ふくらはぎへ圧力を移動させる。 

 少々急所をはずれていても当たらずとも遠からず、と祝先生がいつもの冗談を言う。両手の掌で下肢を撫で上げる。すでに心地よい。膝を潤し,大腿まで一息に撫で上げると、鳥にでもなれそうな脳への刺激が生じる。性的な意味合いは全くない。こんな快感というものも心身には備わっている。風子は鳥になり、樹になり、星になる。

 リリリンリリリンリリリン。

 風子は輪を抜けて、荷物のところへ走り出す。チッと心中で舌打ちする。携帯電話をごそごそと取り出す。途中で目覚めた剛は風子の予定をまた忘れたのか。

「あ、そうか、忘れたよ」

 剛は意外にあっさり答えた。がすぐに「朝ご飯は何だ?」

と、強い声音になった。うんざりした気分に充たされたが、

「わかってる、何か買って帰るよ。まだ寝なきゃ」 と、風子は平静を装って静かに反応した。

 仲間の輪から、愛されてるねえ、奥さんがいないと心配なのよねえ、と冷やかしの声が聞こえる。悪意のない礼儀だ。「まったくもういやんなっちゃう」  

 風子は笑い半分の顔で動揺を隠したつもりだ。同じような境遇にあれば、わかる人にはわかる不自然さだった。幸いにもこの仲間には、風子を透視する女性は多分一人もいない。つまり総じて夫婦の力関係に特別の偏りはないらしかった。


 全身に栄養と酸素を運ぶ血管に沿うように、リンパの小川がそれとも見えぬほどの細やかさで、張り巡らされている。リンパ液の湿地帯は、細胞の排出する液体と、その中の排出物や免疫物質をチェックする。そこが滞ればいわゆるむくみだ。糸のような小川から次第に水脈が作られていき、次第に本流へと流れていく。下肢から上へとリンパ液を流すのは筋肉の力である。

 祝先生は筋肉を強くする運動に時間の半分を費やす。いわゆるスクワットが中心だ。それがすむと、手で皮膚表面を柔らかに撫でて流れを促す。

 汗ばむけれどもすっきりとなって、いかにも健やか、という気分の一行が帰る準備に入る。

「風子さん,今日はうちに来る?」

と、鈴川さんが尋ねた。木彫りは唯一美的趣味といっていいものである。鈴川さんの小さなサークルに二回参加した。風子はおおざっぱな性格なので一彫りずつ進めていく作業に上達は望んでいなかったが、自分なりに丁寧さを心がけて、少しずつ形を彫りだしていく無心な時間は好きだった。ひたきを一羽、十センチ四方の木切れから彫りだす仕事はほとんど小さな体が現れるところまできていた。

「ご免なさい,駄目みたいだわ。主人が」

「そうよね、あのね、いつでも続きを彫りにきていいのよ。ちょっと電話して、駄目な時は私そう言うから」

「本当に。また寄せてもらうね」

「けんかしてもね、誰かがいないと淋しいわよ。一人は嫌よ」

と、鈴川さんが諭してくれる。彼女の夫はこのグループで知り合う前に亡くなっていた。


 暖かい丼ものを、総菜屋で風子は買った。みんなはまたね、と挨拶を交わして三々五々分かれていく。

 風子は一人になると、生姜焼き豚丼を胸に抱きながら、昔の友人を思い出しつつ歩いた。こんな私でもいいと言ってくれる人がいて、と森本夕子が手紙をくれたのは何十年も前のことだった。

 夕子は可憐な美しい女性だったのに、何があって「こんな私」などと結婚相手に対し、卑下しなければならなかったのだろう。そして女の子が生まれたと聞いた。しかし二年も経たぬうちに夫は若死にした。毎晩枕の濡れない夜は無い、と夕子は書いてきた。夫は彼女にとって天使のような存在だったのだと。

 またひとり、天使のようだった友人を思い浮かべた。いつも風子を助けてくれた。困り果てていると必ず声をかけてくれて、具体的に手助けしてくれた。あんなにも愛される資格はまるでない自分だったのに、と風子は呟いた。

 そんな二人とも音信不通になり、思っても探してももう見つかる人ではなかった。

 通りの先で手を振る人がいた。隣の奥さんだ。風子は喜んだ風に体を揺すって走りよった。双方から,どぅお?と明るく言った。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る