「他にない役割 3」

他にない役割



 いつも雅彦に強く執着していた郁子の心に別の男が住み始めたのだ。今になって別の誰かを恋することがありえようとは思っていなかった。郁子自身が慌てた。しかしそれでどうしようと思っていたわけではなかった。


 しかし、普通なら出会うはずもない偶然の、相手の若い男は強い力で郁子を

捕まえようとした。それ自体は嬉しい気持ちを引き起こした。それで充分でも

あった。


 しかし、その男は郁子が思っていた以上に強引な、自信家であって、今更ひ

きさがるつもりはないのだった。夫と子ども、親族全員に囲まれた郁子をそこ

から引き剥がそうと迫ってきた。

 郁子は愚かにも男の側からのそんな強い気持ちをこれまで知らなかった。雅

彦を追い掛け回したのは自分だったのだ。


 強迫されたように、郁子は雅彦に告白した。

 強迫されたように家を出た。強迫されたように離婚を主張した。

 強迫されたように親権を手放し、慰謝料を払うと、家庭裁判所で約束した。


 両親から聞いたところでは、雅彦も充も泣いて暮らした。ある日、雅名も泣く

ようになった。郁子は辛い日を過ごした。

 しかし同時に、男に愛されることをはじめて経験した。愛の生活とはどんなも

のか始めて知ったのでもあった。一日中心は泣いていた。一日中愛を与えられ続

けた。

 子どもの親権については、郁子はもちろんあらゆる手を使って自分が取るつも

りでいた。学校から二人を裁判所の会見室に拉致してまで、親を選ばせようとし

た。

 裁判官は、もう見込みはない、子ども二人は別々にしてはならない、これまで

の環境で暮らさせるべきであり、月に二回会うことを許すが、それも継母ができ

るまでである、と述べた。


 子ども達がこの男と暮らすことになったとしても、必ず齟齬が生じるであろう

ことは郁子にはもはやわかっていた。男は自分には不利となっても郁子の子供を

ひきとると言いはした。

 しかしそれがいいかどうか、自信はまったくなかった。

 人生の主導権をこれまで郁子が握ってきた。しかし新しい男は郁子から完全にその権利を奪い、彼がすべての主導権を握った。

「郁子、愛しているよ、僕と結婚してくれ」

 男がいうたびに、郁子には返す言葉がなかった。

 執着はあったが、愛しているのか、感激しているだけなのか、好奇心なのか、

夢なのか、わからない、心は闇にとざされたまま、郁子はええ、というほか

なかった。

 逡巡を自分でもわかっていた。待って、とでも言うことに恐れを感じた。


「君は後悔するかもしれない、でもそれでも僕と一緒になってみてくれ」

 それなら、と納得したかのように。




 郁子はまもなく三十九歳になろうとしていた。ロンドンにしては滅多にない

ほどの暑い夏日が続いていた。扇風機がすでに売り切れになっていると言う。


 分娩室にも冷房はなく窓が開け放たれていた。青空が見えた。 

「ほら、アイス、きっとおいしいよ」

 夫のデイヴが戻ってきた。郁子はその青い瞳を見詰めながらアイスを舐めた。

優しいこと、と思った。

 同時に三件の出産があるということだった。夫婦はずっと二人きりで放って置かれた、陣痛の波を計るのはデイヴの仕事である。胎児の心音はたえず聞こえてモニターされている。すでに予定日を五日過ぎていたが、妊娠そのものはまったく問題なかった。


 収縮は弱すぎた。郁子の体が若くないのを示すかのようだった。

 若い女医がやっと見回りに来た。日本でやられたように、産道を下にやたら

と押される。郁子は陣痛が弱いと述べた。愛想のよい笑いを見せる女医は頷い

て機械を操作した。

 まもなく収縮を感じて郁子が呻くと、胎児の心音も早くなった。彼女はあわ

ててまた元に戻したらしく、心音が収まっていった。


 しばらくすると、女医の指導者の、痩身でロボットを思わせる目をした医師

がやってきた。彼にも何度か内診をうけている。郁子は妙な慕情がまたおこる

かと自分を観察している。医者のほうでそれを拒絶しているかのような冷たさ

があった。 


「どうも、今診察したところ胎児の頭の回転がうまくいってないですね。子宮

の出口でひっかかっているのです。うまく通り抜けられるように頭の向きを変

えて見ますから、ちょっといいですか」

 心の準備をするまもなく、彼はもう産道にふかく手を突っ込み、おそらく指

で子宮口にはまっている小さな頭を触り、片手では郁子の腹をつかみ、一気に

回転させようとした。


 かなりの時間がかかった。あとでデイヴが、郁子がキイキイ叫んだと言った

が実に嫌な気持ちだったことしか覚えていない。胎児にも苦痛であったことだ

ろう。

 しかし、それで終わったわけではなかった。収縮を強める薬が投入され、夕

方まで胎児は穴に頭の額の上を押し付けられ続けた。収縮が強くなるたびに、

心音も早くなった。

 正しく頭頂部が出口に当たらねばならなかったのである。

 夜八時すぎに、ロボットのような医師がまた来た。


「だめですね。どうしますか。帝王切開しますか」

「はい、そうして下さい」

そう言ったのはデイヴだった。郁子に異存は勿論ない。


 ベッドに移され、分娩室を出るときロボットの目を少し人間らしくして、医

師が郁子に直接語りかけた。

「本当にお詫びいたします。今までふつうに分娩していらしたのに手術という

ことになり、申しわけありません」 

「もう痛くないよ、イクコ」

 デイヴがうしろから言った。



 緑色のゴム製のような手術着の一団に囲まれた。

 頭上に太陽のような明かりがいくつも並んでいる。だれの顔も認識できな

かったが、今から麻酔をかけるので数えてください、と聞こえた。二秒もしな

いとき、突然目が閉じてしまい明かりが消え真っ暗になった。黒いカーテンがどんと落ちてきたように。

 そんな馬鹿な、速すぎる、と郁子は思って慌てて目を見開いた。手術室の太陽が見えた。とたんに真っ黒な幕がドンと落ちた。



 突然、息ができない、誰かの腕の気配を感じた。喉に何かがつっこまれ

引っ掻き回されている。郁子は必死で逃れようとする、苦しい。


 そして意識が戻った。すでに廊下にいた。ベッドごと運ばれていく。

 あるところで止まり、デイヴがいた。姑のエリスがいつもの満面の笑顔で感

嘆詞を叫んでいた。腕に抱えていた白い包みの中に赤ん坊がいるのだ。郁子に

一瞬それを見せたが、またしっかり抱きかかえ世にも嬉しそうだった。


 意外にも郁子は鋭い嫉妬を感じた。私のベイビーだと思った。デイヴはいつ

もと違って郁子の気持ちがわかったようだ。母親からとりあげ、郁子の胸へ新

生児を置いた。

 混血児とは思えない、上の子達と同じだ。ふさふさした黒髪だけでなく、ま

るで郁子だけの遺伝子でできたようで驚いた。


 まもなく、デイヴは家に帰ると言った。

「お願い」

 いつもになく郁子は心細かった。夜がどうなるか、ひとりで会話が充分でき

るのか心もとなかった。

「お願い、今夜ここにいて、お願い」

「イクコ、そういうわけにいかないんだよ。それは許されないんだ。完全看護

だからね」


 郁子はうとうと眠った。下腹がたしかに切り裂かれているのが感じられる。

 鈍痛しかなかったが、それはまだ麻酔が効いているからだろうとかすかに考

えた。

 看護士がたえずやってきて血圧を測る。うとうとする。身もだえしながら次

によりはっきりと目覚めたとき、時刻はわからないが、まだ夜はえんえんと続

きそうだった。郁子はコールしてナースを呼び、呟いた。

「どうぞ、私をまた眠らせてください、お願いします」

 ほんの少しの身動きしかできないまま、郁子は注射をされると眠ることができた。       


 朝日が広い病室に差し込んでいた。一ダースも産婦が寝かされている。

 若い看護士たちが金髪を煌かせながら、枕をはたき、ベッドを整えて回って

いた。だいぶ気分はよくなっていた。郁子のところに年かさの看護士が来て、

起き上がれと言う。ベッドに腰掛け、脚を下に垂らした。立ち上がれと言う。

 信じられないまま、特に不都合もなさそうだったので、傷口がとても重たい

のを両手でささえながら、郁子は素直にその場で立ち上がった。とたんにどう

しようもなく苦痛にうちのめされた。            

「あーっ、あーっ、あーっ、」

 郁子は悲痛に三度叫んだ。それが目的だったのだ。たまっていた悪い空気を

肺から出させる。血の巡りを良くする。


 それから毎朝、アルコールを背中にぶっかけられた。

 毎度のことなのでわかっているのに、余りの冷たさに大声が出た。それも目

的だった。


 担当の若いナースはいかにも愛情深い天使のような眸をしていた。本当にい

い子だった。次の日、彼女は冷たい突き放すような視線を向けた。本当に冷たく、いやいやながら仕事をした。郁子はわけがわからなかった。

 次にはまた天使の彼女にもどっていた。次にはロボットの視線に。郁子が片

言の英語でデイヴに語ると、同じ人物かい、と尋ねられた。同人物の顔だった。


 上天気はずっと続いていた。デイヴは毎日来て、花壇のある庭を少し散歩し

た。郁子は鏡で蒼白な自分の顔が美しいのを知った。デイヴは郁子に妊娠を強

要したことにはふれず、静かにこう語った。


「イクコがまだ処置されている間、ジミーは突然僕の腕におしつけられたんだ

よ。簡単に拭かれただけで生まれたてだった。ぜんぜん泣かずに黒い眸を大き

く見開いていた。世界を感じているように。一緒に座っていた回転椅子を静かに回すと、テーブルのランプの明かりをジミーは目で追った。視線を右に左に動かしたんだ。いきなり新生児を抱かされて、僕がどんな気持ちだったか想像できる?」


 郁子はそんな様子の夫に満足し、希望をいだいた。家事育児、仕事を平等に

する、それを郁子は結婚の条件にしたはずだが、それが今からためされようと

していた。

 病院の裏庭の明るい夏の日の、希望のような雰囲気を、郁子はその後も忘れ

ないでいた。

 十日もするともう退院だった。下腹には横一文字にピンクのケロイドが凄ま

じいほどだった。                 


 同居していた姑は休暇に出かけたので、夫と新生児の三人暮らしが始まる。

あらゆる仕度は夫の手で準備されていた。ただ、実家では母親の助けがあり、

休養できるはずの部分が、夫は知らないらしく、いきなり日常にもどった。


 まだ出血が続いていたのが、少し増えたように思われた。次第に息を切らす

ようになって、洗濯の水を出しっぱなしにしたり、哺乳瓶を煮立てたまま、い

つの間にかベッドに倒れこんで眠っていたりした。

 夫はお風呂から飛び出してきて怒鳴った。部屋中にゴムの焼けた臭いがこ

もってしまった。次の日には、座ったままどうしても立つことができなく

なった。不思議な脱力感だった。かなりの出血となっていた。



 同じ病院に入院となった。また子宮が充分に元に戻れなくなったのだ。緑の

手術着、麻酔、突然の黒いカーテンのどんという落ち方、繰り返された。

 この時郁子は例の天使のようなロボットのようなナースの秘密がわかった。

やはりそれは別人だったのだ。今回は識別できた。


 ジミーの額の上には一年以上も直径三センチほどの丸い痕が膨れて残っていた。




 思いもよらず、三人の男児を郁子は生んだ。

 ジミーはレゴで対称的な立方体を見事に作るようになったが、それにプラス

して美的な工夫を凝らした。日本の歌をたくさん歌ってやっても歌うようには

ならなかったが。


 郁子が美しい男が好きだったのは、自分より優れた容貌の子となって報いら

れた。息子達のみが自分の為した技であると、それ以外はなにものでもない自

分であるとわかっていく未来が、郁子の前に続いていた。


 まずは幸運が、一家を日本へと連れて行った。望みうる最高の職をデイヴは

大学に得た。

 ジミーは、日本語を解することはできていたのだが、喋ることは出来な

かった。五歳であった。三ヶ月間、教育テレビの子ども番組をだまって観てい

たのだが、突然標準語で話し始めた。英語は理解するが、話さなくなった。



 その後は、幸運を台無しにすることばかりが続いた。阪神と東北の名高い二

つの大地震を体験した。その間の二十年は夫婦の関係をひたすら悪化させた。


 郁子の出産以来、夫婦生活に飢えていたデイヴはすぐに男好きのするホステ

スの手に落ちた。出産以来、夫に疎んじられ、かつなじられてばかりいて、絶

望していた郁子だったが、飢えていたために夫を失いたくなくて、三角関係に

はまり込んでいった。

 

 この間の詳細については墓場までもっていくような悲惨な話ばかりが積み重

なっている。

 最終的にホステスと手が切れたのは、デイヴの入院であった。破滅的な生活

のせいで心臓を悪くしたのだ。


 運良く体は生き延びてきたのだが、郁子に賭けたデイヴの人生は失敗だった。関係の修復ができるはずもなく、ただ生活のために日本に、職に、郁子にしがみついていた。

 しがみつかれた郁子は離婚できない理由を探した。結局は慣れと便利さ

だった。



 充と雅名、忘れたことのない子ども達、郁子はかれらとの絆をいつも信じて

いた。その信頼は正しかった。

 母親は子のあとをストーキングしてまわり、決して目から離さなかった。デ

イヴのせいで頻繁に会うことができなかったが、手紙やメールのやりとりで親

密な絆を保っているところだった。花のように美しく育った二人だった。三人

の誇らしい子どもの存在は郁子を満たしていた。


 郁子は、自分なりの充実感をもとめて生きようとしていた。そんな土曜日の

正午、電話が鳴った。河田雅彦の声だった。


「充が自殺した」


 あの手術されたときのように、黒い幕が郁子の人生に落とされた。どんなにのた打ち回って号泣しても訴えても、死はくつがえらなかった。誰一人として郁子の感じるものを分かち合えない、それも辛いことだった。

 どんな光もこの闇を照らすことはないと思い知った。


 なんとか生き延びていったそんな十年あまりの後、職場の事情が変わり、デ

イヴの仕事ぶりが非難される時がきた。これが終わりへの序章である。

 退職、引越し、嫁の病気、東日本大震災、福島第一原発事故、とあっという

まにすべてが重なった。


 それに並行してデイヴの体が衰えていった。特に飛行機で帰国することも危

険視されるようになり、そこへ放射能の危険も加わったとき、彼の精神はパ

ニックに陥った。

 すべてが郁子の肩にかかっていた。郁子は全てを計画し、仕切り、実行し、

夫の批判を耳に入れなかった。すでに成長し、結婚して孫を郁子にもたらした

ジミーのそばに行くこと、それが郁子の当座の言い訳だった。


 ジミーにも幸運と不運と、しかし幸運がついて回っていたのだが、郁子は息

子の幸福を守ることを自らに誓った。もう間違わないとばかりに。




 夫が次第に衰弱していき、救急車が来たがすでに眠るように息をひきとってし

まったとき、郁子はある意味よかった、と心から思った。


 デイヴが怖れていたのは死の苦痛であったが、死そのものを怖がってはいな

かったので、彼がいきなり意識を失いそのまま逝ったことはふたりにとっていい

ことだった。

 別れの言葉といっても双方何をいえばよかったのだろう、郁子は想像してみる

が和解や感謝の言葉を交わしただろうとも思えなかった。ふたりとも良くお互い

を堪えた、とでもいうのが事実なのだ。

 それをしも一種の愛情と呼ぶことができるのか、デイヴが郁子の心のドアを怒

声とともに叩き、郁子はますますドアを固く閉めた、本当の自分はどんな人間なのかそれすらわからない、自分の過去は消されている、今ある自分はかりそめの形だ、取り返しのつかないうつせみだ。


 残った息子達を全力で守ること、そこにしか郁子の今の存在意義はない。それが事実である。

 郁子はイギリスへ旅立った。デイヴの両親の墓に彼らの独り息子の遺灰を埋めた。彼の祖母が、昔、別れに言った言葉が思い出される。それを思い出すと郁子はデイヴの家族の気持ちをひしひしと感じて、彼が郁子と共に幸福感を得られなかったことをすまなく思うのだった。     

「イクコ、デイヴをお願いします。よくしてやってね」

 その言葉を息子達の嫁にも郁子は祈るような気持ちで言うだろう。また息子達にも、妻をおもいやるように、それがとりあえず為しうる幸福の第一歩だと祈るように言うだろう。



 ひとりの家は恐ろしかった。デイヴの怒声よりも淋しかった。生きていくのが慮られた。七十歳までまだ数年あるが、さいわい郁子はまだ健康なようだったが、このあとなにか変わり映えがするとも思えなかった。すべてがもう遅すぎた。大地震が予想されていた。


 それまで少し花でも植え、騙されないような本でも読み、曲がりなりにもこの世の事を考え、何かこころから溢れてくれば逃さず書きとめておこう、後悔と恥ばかりであろうとも。

 半分以上白髪になっている頭から、首へと揉みながら、またたちあがり、小さな終の家を少しずつ片付けはじめた。まだ何かできるはずだ、という変な意欲がどこかに感じられた。向日葵と松葉ボタンが育ちつつあった。



(結末は、私、大原史子の虚構であります。小説の体裁をとるために脚色しました。夫婦は今も一緒に暮らしているそうです。そして彼女はいまさら、あの歳でと思うのですが、フリーの通訳業に登録したようです。気休めにでもなるのでしょうか。できるだけやってみればいいと私は思います)

     

                          了


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