第86話

 狂鬼は立ち去ろうとした瞬間、杏嘉の付近で気配が現れた事を感じていた。振り返るようにしながら足を止め、杏嘉を投げた方向を見据える。


 「……仕留め損なった、っていう事か。はぁ、仕方無ぇな。――次は完璧に殺す」


 そう言って杏嘉を投げた方向へと駆け出し、猛スピードで移動を開始した。

 

 一方その頃、杏嘉は綾の手によって地上へと下ろされている最中だった。女郎蜘蛛の妖怪である綾は、壁や木や岩などがあれば何処でもネットを出せる。その為、杏嘉の背中を覆う程の網を作り出し、衝撃を全て吸収出来たのである。


 「……礼は言わねぇからな?」

 「別に構わんよ。ワシは焔様から命によってここに来たんじゃ。不甲斐無い幹部の一人を助けて来い、とな」

 「ふ、ふがいな!?……くっ……綾に言われると腹が立つ」


 煙を吐く綾が煙管に溜まった灰を落とした瞬間、地面に落ちる前に灰は小さな蜘蛛へと姿を変えた。その蜘蛛たちは木々を登り、小規模な蜘蛛の巣を作り始めた。

 そんな様子を見ていた杏嘉は、呆れた表情とムスッとした態度を入り混じりながら言った。


 「相変わらずテメェの妖術は気色悪いな」

 「気持ち悪いとは失礼じゃな。ワシは蜘蛛じゃぞ?このぐらいは普通であろう」

 「へいへい。んで?アイツはどうすんだよ?アタイが言うのもあれだが、アイツはかなり出来るぞ。そんな小せぇ蜘蛛の巣じゃ、足止めにもならねぇぞ」

 「そうじゃのう。まぁワシの目的は奴を倒す事ではなくて、お前さんの救出じゃ。任務は終わったから手伝うかどうかは好きにさせてもらうとしよう」

 「アタイの救出だ?それだけかよ」

 「そうじゃ?……復讐するんは結構じゃがのう、杏嘉。お主の役目を忘れるなっちゅう忠告じゃ。ふぅ」

 「っ……」


 綾の言葉を聞いた杏嘉は、悔しい表情を浮かべて拳を握り締める。やがて深呼吸をしながら、杏嘉は九尾の姿を解いて一尾の姿に戻していた。

 そんな杏嘉の様子を眺めていた綾は、微かに笑みを浮かべながら杏嘉に言った。


 「落ち着いたかのう?」

 「…………はぁ、誰に言ってやがる。アタイはの杏嘉だ」

 「ふふふ、知っているよ。ならばお主、あの鬼をどう対処するのじゃ?」

 「決まってるだろ?」


 その問いを聞いた杏嘉は、先程よりも柔らかい表情となった。両腕の拳をガツンと自分の拳同士でぶつけ、ニヤリと笑みを浮かべながら綾の問いに答えた。


 「――ボコボコにしてやんよ」

 「ボコボコかのう」

 「あぁ、ボコボコだ」

 「なら、始めるかのう」


 綾はそう言いながら、煙管の灰を落として目を細める。杏嘉から逸らした視線の先には、気配を辿って距離を詰めて来た狂鬼の姿が目の前に現れた。

 綾は狂鬼を見据えたまま、口角を上げて言葉を続けるのである。


 「――出入りの時間じゃ。足を引っ張るでないぞ?杏嘉」

 「テメェこそだ、綾」

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